この前返してしまった本「人間のルール」によると「人は一生で幸せの量と不幸せの量が同じ」なのだそうである。
とても幸せに生きてきた人は、だから死ぬのがとても苦しくて悲しくて辛いことになってしまうのだそうだ。
逆に生きている間に辛い思いや悲しい思いをたくさんしてきた人は、それまでで不幸せの量を使い果たしているから死ぬ時はそんなに辛くないんだって。
(たしかそんな風に書いてあったと思うけど、解釈がおかしいかなぁ?)
私はとてもこの言葉が気に入って、それからはそんな風に考えることにした。
だから、辛い事も苦しい事も、これからどんどんこの身に降りかかればいい!
そう思うことにした。
それに、そう言うの、得意だし。
そしたらあの世に行く時はこれがホントのハッピーエンドになるだろう。
私は頭だけはしっかり働くようにして、その時の自分を見てやろうと思う。
そして、本当に幸せの量と不幸せの量が最期に帳尻合うのか確かめてやるんだ。
それから次に生まれ変わって来る事があったら、今度は普通に大切にされて、誰かと共に歩むような人生になるといいかもなぁと思う。
そして、それはそれで死ぬ時にどんなに悲しくてオサラバが辛くても、「あぁ私は今回は幸せな人生だったんだなぁ」と笑ってアバヨ(by研ナオコ)と言うだろう。
つまり、どっちに転んでも、おそらく私はジタバタしないってことだ。
たぶんそうだろうと思っているけれど、なんせ経験がないから大どんでん返しになるかもしれない。
それはそれでまた大発見だ。
こんな気持になっている自分は、もう子育ても終わりに入ってるのではなかろうか。
カマキリだって、魚だって、エサが取れる奴は生き残るし、取れない奴は死んでいく。
どんなにエサを取るのが上手でも、何かの事故であっけなく死んでいくのもいるかもしれない。
そこまでメス親がコントロールすることはできないし、しもしない。
人間だけが必死にそこにしがみついて、どうにかしようとするけれど。
生きていて、どうにか手が差し伸べられる間はするけれど、私が死んでしまったら、kekeは1人で生きていかなければならない。
それができるかもしれないし、できない事かもしれない。
できなければ、それはそれまでのことだ。
むしろ私が居なくなった方が、どうにかしようと思うかもしれない。
そこからまたkekeの人生は開けていくだろう!
とても幸せに生きてきた人は、だから死ぬのがとても苦しくて悲しくて辛いことになってしまうのだそうだ。
逆に生きている間に辛い思いや悲しい思いをたくさんしてきた人は、それまでで不幸せの量を使い果たしているから死ぬ時はそんなに辛くないんだって。
(たしかそんな風に書いてあったと思うけど、解釈がおかしいかなぁ?)
私はとてもこの言葉が気に入って、それからはそんな風に考えることにした。
だから、辛い事も苦しい事も、これからどんどんこの身に降りかかればいい!
そう思うことにした。
それに、そう言うの、得意だし。
そしたらあの世に行く時はこれがホントのハッピーエンドになるだろう。
私は頭だけはしっかり働くようにして、その時の自分を見てやろうと思う。
そして、本当に幸せの量と不幸せの量が最期に帳尻合うのか確かめてやるんだ。
それから次に生まれ変わって来る事があったら、今度は普通に大切にされて、誰かと共に歩むような人生になるといいかもなぁと思う。
そして、それはそれで死ぬ時にどんなに悲しくてオサラバが辛くても、「あぁ私は今回は幸せな人生だったんだなぁ」と笑ってアバヨ(by研ナオコ)と言うだろう。
つまり、どっちに転んでも、おそらく私はジタバタしないってことだ。
たぶんそうだろうと思っているけれど、なんせ経験がないから大どんでん返しになるかもしれない。
それはそれでまた大発見だ。
こんな気持になっている自分は、もう子育ても終わりに入ってるのではなかろうか。
カマキリだって、魚だって、エサが取れる奴は生き残るし、取れない奴は死んでいく。
どんなにエサを取るのが上手でも、何かの事故であっけなく死んでいくのもいるかもしれない。
そこまでメス親がコントロールすることはできないし、しもしない。
人間だけが必死にそこにしがみついて、どうにかしようとするけれど。
生きていて、どうにか手が差し伸べられる間はするけれど、私が死んでしまったら、kekeは1人で生きていかなければならない。
それができるかもしれないし、できない事かもしれない。
できなければ、それはそれまでのことだ。
むしろ私が居なくなった方が、どうにかしようと思うかもしれない。
そこからまたkekeの人生は開けていくだろう!