テレ朝のニュースを聞きながら身支度を整えていたら、「年金支給が遅くなります」と言う話題を流していた。
うろ覚えだが、それによると年金がもらえるのは68歳以降だか70歳以降になるようで、定年が今と変わらなければ、40歳の人は定年してから年金がもらえるまでに2400万が必要だと言っていた。
それだけでも「こりゃもう死ぬしかないな」と思ったが、テレビは「それだけではないんですよ」と言い、これはまだ普通ケースです、と言い、「この上に子供や老人を扶養して抱えると○○○○万足りません。」と言うことまで言っていた。
へぇへぇ。
私は年金なんぞ、ろくに貰えない事を知っている。
私が離婚した当初は、結婚時代の年金を夫婦で分ける事はできないので(現在はできるようだ、夫婦で話しあえれば。)その間は厚生年金はカラ。この年になっても20年掛けてないので、未だに厚生年金の上乗せ分は貰えるかどうか未定である。
それにもらえる金額は現在の収入に比例する。40代半ばの年収にまったく及ばない低収入の私がもらえた所で大した貰い方になる訳が無いだろう。
だから、年金で左うちわで暮らせるなんて最初から思ってないし、仕事があれば働くか、子供に養ってもらうか、どうにもならなければ貯金を崩したあげくに生保とか死ぬしかないと思っている。
だから、68からです、70からです、なんて言われたところで今更それで何が?
TVで大変です大変です、と言っている人達は、何だかんだ言っても大きな安定企業で年収400~500万ぐらいもらえているのではなかろうか、と勝手に思い、バカらしくて話にならん。
最近むかつくのはあの400万とか500万クラスの人間があたかも自分は金が無いと思っていることである。
何故そうなるのかと言うと、いろんな物が巷にあふれてあれもこれも欲しくなっているからではなかろうか。
人間は1日24時間平等に与えられているので、ネットを見る時間があれば、その分読書はできなくなる。新聞を読む暇もなくなる。何かをすれば、何かをする時間はなくなるのである。
なのに、隣が新しい機種になると、自分もスマホだか何だとか手にいれたくなったり、隣がエステに行けば自分も行きたくなるとか、旅行だのグルメだの、もう私はそっちの世界はよぉ分からんが、何でもかんでも人がやってればやらなくては気が済まないのだろう。
私はこの頃休日に車に乗るようになったが、お陰様で図書館に行けず、本はほとんど読んでいない。掃除もしてない。料理もしばらく休んでた。菓子作りなんてはるか遠い彼方の記憶になった。
DVDも10年以上前に買ったが、一度も録画をしたことがない。
見る暇がないからだ。
おそらく隣の人がしているであろう、当たり前の事ができてない。
車に乗ること自体が自分にとって至上の贅沢だと思っているから、服が買えなくても仕方ない。靴下とストッキングはは穴をかがって履いている。
携帯はプリペイドだけど、食べ物は充分に買って食べている。
そのうち車を手放したらおいしい物を食べに行きたいと思ってる。
それが私の普通の生活なのである。
少々収入が合って「自分が普通の生活ができるはずなんだ」と思っているレベルの人達の「普通の生活」と言うレベルが高すぎるのではなかろうか。
それから、世の中の富と言うのはある一定の分量しか無いような気がする。
一昔前はそれを先進国で分け合って、貧乏な国はとことん貧乏だったのではないかと思うが、今は貧乏の国の水準が上がってきた。
それは当然、先進国の富がそちらに流れる事になる。
国内でも同じ。
嘘だかほんとだか、どこかの大企業の社長がバクチで何億だか損したと言う。
何をそんな事をする必要があったのだろうか。
今の世の中、使おうと思えばいくらでも金が使え、幾らでも遊ぶ事ができる。
それでちょっと自分が偉いと思った奴はあたかも自分はそうして良いと勘違いするのである。自分1人であれもこれも金を使おうとするのだろう。
そして、そう言う奴を助長させてちゃっかり稼ぐ人達がいる。
きっと明治時代のおばあちゃんが見たら悲しんだに違いない。
いつからこんな国になったんだろう。
誰も国の事なんて考えてない。
自分さえ良ければ、今さえ良ければ良いのである。
政治家さえそのように見えてしまう。
だから、今更年金がどうのこうの言っても誰も何とも思わないだろう。
どうせ、政治家も役人もマスコミも自分のことしか考えないし、自分だけが良ければいいんだから、そこに感想を持つ事さえ無駄なのである。
うろ覚えだが、それによると年金がもらえるのは68歳以降だか70歳以降になるようで、定年が今と変わらなければ、40歳の人は定年してから年金がもらえるまでに2400万が必要だと言っていた。
それだけでも「こりゃもう死ぬしかないな」と思ったが、テレビは「それだけではないんですよ」と言い、これはまだ普通ケースです、と言い、「この上に子供や老人を扶養して抱えると○○○○万足りません。」と言うことまで言っていた。
へぇへぇ。
私は年金なんぞ、ろくに貰えない事を知っている。
私が離婚した当初は、結婚時代の年金を夫婦で分ける事はできないので(現在はできるようだ、夫婦で話しあえれば。)その間は厚生年金はカラ。この年になっても20年掛けてないので、未だに厚生年金の上乗せ分は貰えるかどうか未定である。
それにもらえる金額は現在の収入に比例する。40代半ばの年収にまったく及ばない低収入の私がもらえた所で大した貰い方になる訳が無いだろう。
だから、年金で左うちわで暮らせるなんて最初から思ってないし、仕事があれば働くか、子供に養ってもらうか、どうにもならなければ貯金を崩したあげくに生保とか死ぬしかないと思っている。
だから、68からです、70からです、なんて言われたところで今更それで何が?
TVで大変です大変です、と言っている人達は、何だかんだ言っても大きな安定企業で年収400~500万ぐらいもらえているのではなかろうか、と勝手に思い、バカらしくて話にならん。
最近むかつくのはあの400万とか500万クラスの人間があたかも自分は金が無いと思っていることである。
何故そうなるのかと言うと、いろんな物が巷にあふれてあれもこれも欲しくなっているからではなかろうか。
人間は1日24時間平等に与えられているので、ネットを見る時間があれば、その分読書はできなくなる。新聞を読む暇もなくなる。何かをすれば、何かをする時間はなくなるのである。
なのに、隣が新しい機種になると、自分もスマホだか何だとか手にいれたくなったり、隣がエステに行けば自分も行きたくなるとか、旅行だのグルメだの、もう私はそっちの世界はよぉ分からんが、何でもかんでも人がやってればやらなくては気が済まないのだろう。
私はこの頃休日に車に乗るようになったが、お陰様で図書館に行けず、本はほとんど読んでいない。掃除もしてない。料理もしばらく休んでた。菓子作りなんてはるか遠い彼方の記憶になった。
DVDも10年以上前に買ったが、一度も録画をしたことがない。
見る暇がないからだ。
おそらく隣の人がしているであろう、当たり前の事ができてない。
車に乗ること自体が自分にとって至上の贅沢だと思っているから、服が買えなくても仕方ない。靴下とストッキングはは穴をかがって履いている。
携帯はプリペイドだけど、食べ物は充分に買って食べている。
そのうち車を手放したらおいしい物を食べに行きたいと思ってる。
それが私の普通の生活なのである。
少々収入が合って「自分が普通の生活ができるはずなんだ」と思っているレベルの人達の「普通の生活」と言うレベルが高すぎるのではなかろうか。
それから、世の中の富と言うのはある一定の分量しか無いような気がする。
一昔前はそれを先進国で分け合って、貧乏な国はとことん貧乏だったのではないかと思うが、今は貧乏の国の水準が上がってきた。
それは当然、先進国の富がそちらに流れる事になる。
国内でも同じ。
嘘だかほんとだか、どこかの大企業の社長がバクチで何億だか損したと言う。
何をそんな事をする必要があったのだろうか。
今の世の中、使おうと思えばいくらでも金が使え、幾らでも遊ぶ事ができる。
それでちょっと自分が偉いと思った奴はあたかも自分はそうして良いと勘違いするのである。自分1人であれもこれも金を使おうとするのだろう。
そして、そう言う奴を助長させてちゃっかり稼ぐ人達がいる。
きっと明治時代のおばあちゃんが見たら悲しんだに違いない。
いつからこんな国になったんだろう。
誰も国の事なんて考えてない。
自分さえ良ければ、今さえ良ければ良いのである。
政治家さえそのように見えてしまう。
だから、今更年金がどうのこうの言っても誰も何とも思わないだろう。
どうせ、政治家も役人もマスコミも自分のことしか考えないし、自分だけが良ければいいんだから、そこに感想を持つ事さえ無駄なのである。