小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

345 和泉国の日下部氏

2014年12月26日 01時56分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生345 ―和泉国の日下部氏―


 大日下王と若日下部命の兄妹は、その中から日下部氏と関係があると考えられます。
おそらくは日下部氏に養育されたのでしょう。
 『古事記』には、

 「この天皇(註:仁徳天皇)の御世に、大后石之日売命の御名代として葛城部を定め、
また太子井耶本和気命(註:後の履中天皇)の御名代として壬生部を定め、また水歯別命
の御名代として蝮部(たじい部)を定め、また大日下王の御名代として大日下部を定め、
若日下部王の御名代として若日下部を定めたまいき」

と、あります。
 大日下王の大日下部と同じく、皇女の若日下部王にも若日下部が置かれた、というのは
注目に値する記事です
 ところで、この大日下部と若日下部の他にも日下部氏が存在します。この日下部氏は
『古事記』によればサホビコを始祖にしています。

 「沙本毘古王(サホビコノミコ)は、日下部連、甲斐国造の始祖」

と、あるのがそれで、サホビコは、9代開化天皇の皇子、日子坐王(ヒコイマス王)の子
です。
 『古事記』のこの記事にあるのは日下部連ですが、『新撰姓氏録』には、

 「日下部首。日下部宿禰と同祖、彦坐命(註:日子坐王)の後なり」

と、あるので、日下部氏は連、宿禰、首の三家があり、同族の関係にあったことがわかり
ます。
 『新撰姓氏録』は、日下部首と日下部宿禰をともに和泉国皇別のところに記すので、和泉が
本貫だったことになります。
 日部氏の拠点は大鳥郡日部村であったと見てまず間違いないでしょう。
 堺市西区草部に日部神社が鎮座しますが、これは日下氏が祭祀した神社です。
 もっとも、現在の日部神社の鎮座する場所はその昔には八坂神社で、元々の日部神社は別の
場所にありました。それが明治時代に八坂神社、菅原神社、熊野神社が日部神社に合祀される
こととなった時に、八坂神社が鎮座する地に移転した、といういきさつがあります。
 日部神社は日下氏の祭祀する神社ですが、等乃伎神社も日下氏が祭祀した神社です。両社は
近い距離にそれぞれ鎮座しています。
 そして、等乃伎神社からのぞむ冬至の朝日は日部神社の旧社地の方角から昇るといいます。
 このことからも、日下氏が太陽信仰に関わる氏族だったことが推測されるわけですが、等乃伎
神社の祭神は、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)で、日部神社の祭神は、神武天皇、彦坐王、
道臣命です。
 アメノコヤネを祀る神社は他にも多くありますが、そのひとつに東大阪市の枚岡神社(ひらおか
神社)があります。
 枚岡神社も生駒山の麓にあり、日下の地に鎮座していることになります。
 なお、枚岡神社は元春日とも呼ばれ、いわば「新枚岡神社」として創建されたのが奈良市の
春日大社であるといいます。
 日読みの地に鎮座する等乃伎神社と日下の地に鎮座する枚岡神社がともにアメノコヤネを祀って
いることを偶然で片づけるわけにはいかないと思われるのですが、日部神社の近くにも平岡の
地名があることもこれと関係しているのか、この点についてはよくわかりません。

 等乃伎神社から見て夏至の朝日は高安山頂から昇り坐摩神社の旧社地菟餓野から見た冬至の
朝日は高安山頂から昇る、その高安山の中腹には天照大神高座神社(あまてらすおおみかみたか
くら神社)があり、祭神の天照大神は多神社の祭神天祖賢津日女神尊と同体異名である、という
のは前にお話ししました。
 この天照大神高座神社の祭祀氏族は渡来人系とも言われる春日部氏(春日戸氏とも表記)です。

ひさぶり

2014年12月24日 01時08分41秒 | 日記
2012年5月15日(火)(4歳1か月)


 前は春奈、上がり湯の時に夏は20、冬は30、数を
数えてから風呂から上がっていたけど最近それをやって
いなかった。

 春奈もそのことを思い出したのか、今日は、

 「ひさぶりに20やる」

と、言った。

 まだ「久しぶり」が言えない。

 以前から春奈は「久しぶり」というところを「ひさぶり」
と言っていた、

 でも、まだ言えてなかったんやね。

 考えてみれば、幼児にとって「ひ」の音は出しにくいの
かもしれない。

 「し」と区別が難しいのだ。

 その点では、「ひさしぶり」という言葉には「ひ」と「し」
が含まれている。

 「ひ」の音をハッキリ口に出そうとすれば「し」の音が出せ
なくなるとか?

 たしかに「ひさしぶり」の「さ」と「し」は息だけで発音する。

 幼児には難易度が高いかもしれない。

 春奈の「久しぶり」が「ひさぶり」になるのはある意味、
自然なことなことなのかも。

344 日下と若日下部王

2014年12月24日 01時04分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生344

 『日本書紀』では、ニギハヤヒは天磐船(あまのいわふね)に乗って哮峯(いかるがたけ)に
降臨し、その時に、この地を、「虚空(そら)見つ日本(ヤマト)国」と名付けた、と記して
います。
 さて、この哮峯がどこなのか諸説ありますが、多くの研究者が生駒山系のどこか、としています。
その中でも有力なのが大阪府交野市の磐船神社で、ここはニギハヤヒの天の磐船を祀っています。
 そして東大阪市井石切町の石切剣箭神社もまた生駒山なのです。

 また、『古事記』では、イワレヒコ(後の神武天皇)は吉備から大和を目指す時に、浪速の渡
(大阪湾)を経て、青雲の白肩津まで進軍しますが、この時、登美能那我須泥毘古(トミノナガ
スネヒコ)が兵をそろえて待っており、戦いをしかけてきます。
 戦場となったこの場所を、『古事記』は、

 「その地を名づけて盾津という。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)という」

と、記します。
 イワレヒコの軍はこの戦いに敗れ、そこで、
 「私は日の神の御子であるのに日に向かって戦ったのがいけなかった。それゆえに賤しき奴に
深手を負わされたのだ。向こうに回って、日を背にして戦おう」
と、言って、大阪湾から紀州に廻り、吉野から大和入りを目指すことになります。
 『日本書紀』では、イワレヒコの軍は難波碕から、河内国の草香(くさか)の邑の、青雲の
白肩之津に上陸した、と記します。
 日下(草香)の比定地についても諸説ありますが、有力視されているのが東大阪市日下町です。
 古墳時代まで、大阪市は上町台地を除いて海で、海岸線はこの日下町辺りであった、と考えら
れています。
 現在の大阪市が次第に陸地化していき、やがて旧の大阪湾は内海となりました。それもいつしか
淡水化して河内湖と呼ばれるものになりましたが、室町時代にはまだ現在の東大阪市に河内湖が
存在していたと記録にあります。
 さて、日下という地名ですが、難波から見て朝日は生駒山系から昇ります。
 このことは、難波から見て生駒山の麓は文字どおり「日の下(もと)」であり、「日の元(もと)」、
「日の本(もと)」だったことを意味します。
 そして、瀬戸内から見れば、難波もまた日の昇る方角、「日の下」だったのです。
 「押し照る難波」が太陽祭祀の霊場たる理由は十分に存在したわけです。


 ところで、坐摩神社の祭神は、元はイカシリ神であったようです。 
 現在の坐摩神社の祭神は、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比祇神の五柱の神ですが、
これらは、宮中で坐摩巫(いかすりみかんなき)が祀る宮中神です。
 坐摩巫が宮中で祭祀していたことから、いつしか坐摩神社でもこの五柱の神を祭神とするように
なったと思われる、と言うのも、『延喜式』の「神名帳」には坐摩神社について五座とは記して
いないので本来坐摩神社の祭神は一柱であるはずだからです。
 それではイカシリ神とはどのような神なのか、ということになります。

 『住吉大社神代記』はイカシリ神を住吉大神の分身と伝えます。
 その伝えるところによれば、仁徳天皇の時代に、天皇の皇女、波多毗若郎女(ハタビノワカイラツメ)
の夢の中に神が現れ、
 「吾は住吉大神の御魂である。為婆天利神(イバカリ神)、またの名を猪加志利之神(イカシリの神)
という」
と、名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝(はふり)として
奉仕させた、ということです。

 ここでは、波多毗若郎女の夢の中に現れた神が、「住吉大神の御魂である」と自ら名乗っていますが、
これは、『日本書紀』の中に、大国主の前に現れた神が、「吾は汝の幸魂奇魂なり」と名乗る場面が
あるように、しばしば神の荒魂や和魂は分身として独自に活動するものです。

 ところで『住吉大社神代記』にある、仁徳天皇の皇女、波多毗若郎女とは雄略天皇の皇后、若日下部王
のことです。
 『古事記』は仁徳天皇の御子たちについて述べる箇所で、

「髪長比売娶って生みませる御子は、波多毗能大郎子、またの名を大日下王、次に波多毗若郎女、またの
名は長目比売命、またの名は若日下部命」
と、記しています。
 また、『日本書紀』も、

 「日向の髪長媛、大草香皇子(オオクサカ皇子)と幡梭皇女(ハタビ皇女)を生めり」

と、記します。
 『古事記』と『日本書紀』も、この女性が若日下部命のことだ、としているのです。
 すると、問題は、なぜイカシリ神が若日下部命の夢の中に現れたのか、ということになります。

エクちゃんとの思い出

2014年12月22日 01時10分00秒 | 日記
2012年5月13日(日)(4歳1か月)


 僕が庭の掃除をしていると、春奈が、

 「エクちゃんと公園のくさぬき行ったな」

と言った。

 前にうちにホームステイしたメキシコの
エクトールのことだ。

 ステイ中、自治体の公園清掃があり、これに
エクトールも連れて行った。春奈も参加した。

 エクトールがうちに来たことで、春奈は大きく
なったらメキシコに行きたい、と言うように
なった。

 よっぽど春奈も楽しかったのだろう。

 庭の掃除をしているだけで、エクトールとの
思い出が春奈の中で甦る。

 やっぱり言葉だけしていてもダメだ。

 人と交流する。その体験に言葉が付いていく
るのだ。

 春奈にとってもスペイン語は大好きだった
エクちゃんの話していた言葉なのだ。

343 押し照るナニハの意味

2014年12月22日 01時06分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生343 ―押し照るナニハの意味―


 難波が太陽信仰の地であることは、難波にかかる枕詞が「押し照る」であること
からもうかがうことができます。
 そもそも「なにわ」という地名がどのような由来でついたものなのか、この点から
始めてみたいと思います。
 難波の由来は、大阪湾の潮の流れが急であったことからついた「浪速(なみはや)」
の訛ったものだと一般には言われています。
 これは、『日本書紀』が、イワレヒコ(後の神武天皇)が大和入りを目指した時に、
瀬戸内海を海上から難波碕(大阪湾)に入ったところで、

 「奔(はや)き潮(なみ)ありて、はなはだ急にあいぬ。よりて、名づけて浪速
(なみはや)の国とす。また浪花(なみはな)という、今、難波というは訛れるもの
なり」

と、記しています。
 ところが、現在の大阪湾は決して潮の流れが急というわけではなく、これは今とは
地形が異なっていた古代の難波においても同様であった、と考えざるを得ないのです。
 と、すれば、この「浪速」説は疑問視されることになります。
 「ナニハ」の由来を解こうと思えば枕詞を冠した「押し照る難波」で考えるべきで
しょう。
 そうして解釈されたひとつに、難波の由来は「ナル庭」である、とするものがあり
ます。
 ナルは「日」のことなのですが、庭は、古代において「神聖な場」という意味を
含んでおり、「斎庭(ゆにわ)」という言葉もこれにあたります。
 そして、「ナル」が「日」を意味するということについてですが、これは大和岩雄の
『神社と古代王権祭祀』に詳しく書かれている箇所があるので、ここに引用してみます。


新羅から渡来した女神を祀る比売許曽神社のある東生(なり)郡と、坐摩神社や新羅神社、
新羅江のある西成(なり)郡の「生」「成」を『和名抄』は「奈理」と訓じている。
「奈(na)が古代朝鮮語では「生」「成」の意味をもっていたことは、三品彰英が詳述
している。このnaはnarから来たものと考えられるが、nariもnarの転訛であ
ろう。とすれば「奈理」に「生」や「成」のをあてることには必然性がある。また、「奈乙」
な「奈勿」とのかかわりから、「奈理」には「日」の意味もあると考えられる。


 なお、文中に「三品彰英が詳述している」とあるのは、三品彰英の著作『建国神話の諸
問題』のことを指します。
 それから、大和岩雄は読売新聞に、地名と太陽祭祀の関係についての論文「古代祭祀と
ナニハ」を掲載した際に、言語学者の金思より手紙をもらった、と書いています。そし
て、その手紙の一部分を紹介している箇所があるのでその部分も引用してみます。


 金氏は、「朝鮮語では『太陽』は『ヘ』、『「日』の『ナル』と区別している。しかし、
『日』(ナル)は、①日の出から日没まで、すなわちdayの義。②日・月の日、すなわち
太陽。『ナ・ナル』は、太陽そのものより、『昼の明るい間』に重点を置いた使い方をする。
しかし古代人は『太陽=光明』として『ナ・ナル』の言葉を使い、『太陽』だけを指称する
場合うが『ヘ』という語を使っている。『ナ』は『日』。『ニハ』は古代朝鮮語では『口、
門、窓、出口』。『ナニハ』は『都祁』と同語で『日の出』『日の庭』と解さないと、意味
をなさない。『ナニハ』は『日の出る』聖なる場所であり、『都下(トガ・ツゲ)』は『そ
の日の出を祭る神廟の地』と思われる」と述べている。


 坐摩神社の旧社地、菟餓野から見た冬至の朝日は高安山頂から昇りますが、ふだん、難波の
地からのぞむ朝日は、難波の東に位置する生駒山系から昇ります。
 生駒山の麓に石切剣箭神社(いしきりつるぎや神社)が鎮座し、ニギハヤヒノミコトとその
子ウマシマデを祭神としています。
 これまた何度となくお話ししてきたことですが、ニギハヤヒは、『先代旧辞本紀』には、
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノ
ミコト)と、火明命と合体した神名となっています。
 ニギハヤヒは『古事記』、『日本書紀』ともに天より降りてきた神だと記され、またその名
に「日」の言葉があることから太陽神ではなかったかと言われます。また火明命も、海人系の
氏族たちの間では天照神とされ、つまりは太陽神なのです。