小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

クラスの名前で想像するもの

2014年12月18日 01時10分03秒 | 日記
2014年5月4日(木)(4歳1か月)


 ヒッポファミリークラブの仲間たちとの雑談の中で、
春奈も保育所に通うようになったね、という話題が出た。

 「春奈、何組さん?」

と、質問が飛んだ。

 「くま組」

 春奈の保育所では、年中クラスは、くま組ときりん組の
2クラスがある。

 ちなみに年長クラスは、ぞう組とらいおん組の2クラス
があるけど今年はぞう組1クラスだけである。

 「へえ。組の名前って動物の名前なんや」

 そのことから、みんな自分が通っていた幼稚園や保育園の
組の名前の話になった。

 「私のとこは花の名前やったよ。私はひまわり組」

 「オレの通ってた幼稚園は、雪組とか空組とかやったな」

と、僕が言うと、

 「タカラヅカかっ」

と、みんたがツッコミを入れてきた。

 それは宙組。宙組やなくて空組。

 「色から取ってるんだよ。白は雪組。青は空組。ちなみに
オレが入ってたクラスは緑の森組」

 「森組・・・なんかゼネコンにありそうな名前やな」

と、誰かが言った。

 宝塚歌劇団とかゼネコンとか、みんなクラスの名前で
いろいろイメージするものだね。

 ただ、どこの幼稚園・保育園でもクラスの名前に統一性
がある。

 動物の名前で統一、鼻の名前で統一。

 一見、それって普通やろ、と思ってしまうけど、これは
人間が言葉をグループ化して、仲間の言葉という括りをして
しまうことを証明している。

 この言葉とこの言葉は仲間。そんな風にグループ化しなが
ら人間は言葉をゲットしていく。

 これって重要なことでもあるのだ。

 たとえば、「うれしい気持ちを表現する言葉」、「謝意を
示す言葉」といったようにグループを作り、そこに「ありがとう」、
「サンキュー」、「おおきに」などの言葉を加えていく。

 そうすることで、シチュエーションに応じた言葉を取り出して
使えるようになる。

 人間が多言語の習得を可能とする理由のひとつに、こんな
働きがある。

341 丹比氏と葛城氏

2014年12月18日 01時03分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生341 ―丹比氏と葛城氏―


 住吉大社の司祭氏族である津守氏は、『先代旧辞本紀』によれば火明命5世の孫
建筒草命を祖とする、とあります。

 津守氏と同じく建筒草命を祖にする、と『先代旧辞本紀』に記されているのが
丹比氏(丹比連)です。

 丹比氏は、たじい氏、あるいは、たじ氏といわれますが、丹比連の他に丹比君の
名が『古事記』や『日本書紀』に見られます。
 こちらの丹比君は、28代宣化天皇の皇子エハ王を始祖にする、と記されています。
 『古事記』は、宣化天皇と河内の若子比売(ワクゴヒメ)との間に生まれた恵波王
(エハノミコ)が多治比君(丹比君)の祖である、とし、『日本書紀』は、宣化天皇と
橘仲皇女(タチバナノナツヒメノヒメミコ)との間に生まれた上殖葉皇子(カミツ
ウエハノミコ)が丹比公(註:公は君のこと)の祖、と記します。

 丹比氏の始祖について『先代旧辞本紀』と『古事記』、『日本書紀』が異なることを
記していることから、丹比連と丹比君は別の氏族であろうと思われますが、どちらも
河内国丹比郡(現在の松原市、大阪狭山市、それに大阪市、堺市、八尾市、藤井寺市、
羽曳野市のそれぞれの一部を含む地域)に拠点を置いていたとされます。
 ただし、丹比君は宣化天皇の皇子を始祖にしていることから比較的に新しい氏族で、
丹比連の方は古くから丹比郡を本貫としていた氏族のようです。
旧丹比郡に含まれる堺市美原区には丹比神社が鎮座します。ここの祭神は火明命と
反正天皇です。
祭神が反正天皇であるという理由は、この神社に、反正天皇の産湯に用いたとされる
井戸があるからなのですが、これは、『日本書紀』に、

 「天皇、初め淡路宮に生まれませり。生れましながら歯、一つの骨のごとし。容姿美麗。
ここに井あり。瑞井(みつのい)という。すなわち汲みて太子を洗いまつる」

とあり、また『新撰姓氏録』も丹比宿禰のとろで、次のように記します。

 「丹比宿禰。仁徳天皇の御世、皇子瑞歯別命(ミズハワケノミコト=反正天皇)
淡路宮に誕生の時、淡路の瑞井をもって、御湯にそそぎ奉る」

 文中にある淡路宮については、「あわじの宮」、つまり淡路島にあったとする説も
ありますが、「たじの宮」、すなわち丹比郡にあったとされます。これは丹比神社の
伝承や反正天皇の皇居が丹比柴籬宮(たじいのしばがきの宮)だったからです。
 『日本書紀』、『新撰姓氏録』が、反正天皇が淡路宮で生まれたと記していること、
『古事記』に、父の仁徳天皇がミズハワケ皇子(後の反正天皇)のために蝮部(たじ
い部)を置いた、とあることから、反正天皇は丹比連に養育されたと考えられます。
 その反正天皇がスミノエノナカツ皇子の反乱の際しては履中天皇の側について
スミノエノナカツ皇子を謀殺していることも、丹比氏と同族の津守氏がスミノエノナカツ
皇子に味方しなかった理由に挙げられます。

 ところで、ところで、葛城を起点とする竹内道は、丹比郡を通っていきます。堺市
美原区の丹比神社や丹比柴籬宮に比定される松原市の柴籬神社も竹内道の周辺に
位置します。
 このことから、丹比氏と葛城氏のつながりを想像してしまう次第なのですが、思い出し
ていただきたいのは履中天皇と葛城氏との結びつきです。
 たしかにスミノエノナカツ皇子も履中天皇と同じく葛城曾都毘古の娘、石之日売命の
生んだ皇子ではあるのですが、履中天皇の方は皇后が葛城葦田宿禰の娘、黒比売命と
いう、葛城氏との結びつきが非常に強い人物なので、当然のことながらこの反乱でも
葛城氏は履中天皇側にあったと見做されます。
 それに、難波宮で襲撃を受けた履中天皇は近臣らによって石上神宮に避難しますが、
この時に、丹比郡から当麻道を抜けて石上神宮に入っているのです。

 反正天皇も生母が葛城の石之日売ですし、以上の背景からも丹比氏と葛城氏のつなが
りも考えられないことではないのです。
 同族の丹比氏が履中天皇側、と言いますか葛城氏側であったことが、津守氏が謀反に
加担しなかった理由のひとつに加えてよいでしょう。