小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

返しの言葉

2014年12月03日 01時35分50秒 | 多言語
2014年4月15日(日)(4歳0か月)


 春奈が水を飲んでいる時に、コップの水をテーブルの
上にこぼしてしまった。

 小さい子にはよくあることなので、特に叱ることもなく
僕はそれを拭いてやる。

 すると、春奈が、

 「ごめんなさい」

と、僕に言ったので、

 「ああ」

と、答えると、今度はえらそうに、

 「いいよ、は?」

 は?なんで上から口調?

 春奈は、「ごめんなさい」と謝ると「いいよ」と答える
もの、と思っている。


 ところで、ヒッポファミリークラブでは、誰かが何語かで
「ありがとう」と言えばみんなは同じ言葉で「どういたしま
して」と、答える。

 春奈の中には、「ありがとう」や「ごめんなさい」には
返しの言葉がある、と思っているにちがいない。

 ちなみに、フランス語では、

 「メルシー(ありがとう)」
と、言われると、
 「ドゥリヤン(どういたしまして)」(日本人の耳には
「ドヒャン」と聞こえる)

と、いう返しがあり、さらにそう返された相手は、

 「ミヤパイトクヮ」

という返しの返し言葉が存在する。

 ・・・フランス語の音を日本語のカタカナに置き換えると、
ちょっと原音と違うような気がする。

384 百舌鳥古墳群と葛城氏

2014年12月03日 01時29分06秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生384 ―百舌鳥古墳群と葛城氏―


 もっとも、石津ヶ丘古墳が履中天皇陵とされているのは『古事記』の中でそのように
記されているからにすぎません。
履中天皇陵にかぎらず、天皇たちの陵墓については、『古事記』や『日本書紀』の記事
から当てはめていったものなので根拠としては非常に薄弱なものです。
 実際、履中天皇の父の、仁徳天皇の陵墓とされる大仙古墳よりも石津ヶ丘古墳の方が
先に造られていたということも判明しています。
 だから、石津ヶ丘古墳も本当に履中天皇の陵墓なのかどうか分からないのです。です
が、その大きさから天皇クラスの権力者の陵墓であることは間違いないでしょう。
 ただ、それよりも、記紀が石津ヶ丘古墳を履中天皇陵としていることが重要なのです。

 履中天皇崩御について、『古事記』は、

 「御陵は毛受(もず)にあり」

と、記し、『日本書紀』は、

 「百舌鳥耳原陵(もずみみはらのみささぎ)に葬りまつる」

と、記します。
 ただ、仁徳天皇の陵墓について、『古事記』は、

 「御陵は毛受の耳原にあり」

とし、『日本書紀』は、

 「百舌鳥野陵に葬りまつる」

と、記しているのです。
 『古事記』と『日本書紀』では、仁徳・履中の両天皇の陵墓が入れ替わることになり
ますが、伝・仁徳天皇陵の大仙古墳と伝・履中天皇陵の石津ヶ丘古墳は目と鼻の距離に
あり、大仙古墳の正式名称は百舌鳥耳原中陵、石津ヶ丘古墳の正式名称は百舌鳥耳原
中陵といいます。
 そして、百舌鳥耳原北陵が伝・反正天皇陵なのです。

 仁徳天皇の皇后は葛城曾都毘古の娘石之日売命です。
その石之日売命が生んだのが履中天皇と反正天皇なのです。
 さらに、履中天皇も、葛城曾都毘古の子、葦田宿禰の娘黒比売を后に迎えて、市辺之
押歯王、御馬王、青海郎女をもうけています。
 仁徳・履中・反正天皇の時代は葛城氏の全盛期であり、とりわけ履中天皇は生母も后も
葛城氏の女性という、葛城氏と非常に血縁の深い天皇だったのです。

 小さな違いこそあれ、『古事記』も『日本書紀』もともに、葛城氏と血縁関係にある
3天皇の陵墓が百舌鳥にある、と伝えているわけです。
 そのひとつに当てはめている石津ヶ丘古墳が吉備の造山古墳と同じ設計であることの
理由はここにあるのではないでしょうか。
 葛城氏が最盛期を迎えた時に吉備氏と友好関係にあり、葛城氏を通じて大和政権の援助
の元に造山古墳が建造された。そもそもこの設計は大和の側のものであったから、あるいは
試作品の意味もあったのかもしれません。そうして、無事に完成したことを確認した後に
石津ヶ丘古墳が造られた。
 ひとつの仮説としてこのように考えられるのです。