小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

サニーレタスの味

2014年12月08日 01時30分27秒 | 日記
2014年4月19日(木)(4歳0か月)


 春奈の保育所に給食にサニーレタスが出たらしい。

 春奈は好き嫌いが多くて、と言っても大概がただの食べず
嫌いなのだけど、こと野菜に関しては食べられるものと食べ
られないものがハッキリと分かれる。

 キュウリやブロッコリーは好きだけど、だいたいにおいて
緑の野菜は苦手なようである。

 まあ、全般的に見て春奈は野菜を食べない方だ。

 もっとも、春奈の野菜嫌いについて、僕はこれまで、あまり
気にしてこなかった。

 小さな子は緑の野菜を本能的に嫌う、という話を聞いたこと
があるからだ。

 この、本能的に、というのは、緑色の野菜には毒性のものも
あって、人間には緑色の野菜を避ける本能がある、という説で
ある。

 本当かどうかはわかんないけど、それでも野菜嫌いの子供は
多くて、しかしそれでもみんな成長していっているから、気に
しない。

 人間は野菜を食べなきゃ健康を保てない、という説もあって、
それもそうだろう、とは思っているけど、子供が野菜よりも肉を
好み、それも魚よりも肉、というのは、体を作っていく上で肉を
必要と、脳が指令を出しているからだそうだ。

 人間30歳を過ぎた頃から以前に比べて肉を食べたいと思わな
くなったり野菜がおいしく感じられるようになるのも、もう体を
作る必要がなくなるかだとか。


 で、話を戻そう。

 今日の給食でサニーレタスが出た、という話を聞いて、僕は思
わず、

 「残さず食べたか?」

と、訊いた。

 もっとも、これは躾とかじゃなくて単純に好奇心からであるけど。

 すると、

 「食べた」

と、春奈。

 横から、今度はみんたが、

 「どうやった?おいしかったやろ?」

と、訊くと、春奈、

 「葉っぱの味がした」

 ・・・まあ、葉にはちがいないけど。

 お前、葉っぱ食べたことあるのかよ?

 そう言えば昔、木村拓哉が某テレビ番組で青汁を飲んで、

 「草の味だ」

と、言っていたことを思い出した。

 人間って、食べたことのない味を感想に出してくるのは、やっぱり
イメージで言葉を作り出しているからなんだろうな。

386 大陸へのルートと葛城氏

2014年12月08日 01時26分58秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生386 ―大陸へのルートと葛城氏―


 大和政権が吉備と友好的な関係にあり、とりわけ葛城氏が吉備と有効な関係にあった、
と推測されるのは、当時の外交問題にあると言えます。
 応神天皇から雄略天皇にかけての時代は、いわゆる倭の五王の時代に比定されます。
 『宋書』の「倭国伝」に登場する歴代の倭王、讃・珍・済・興・武が大和の天皇(当時
は大王)たちであろう、というのが大方の意見ですが、ならば、大和政権の使節団は
難波津から瀬戸内海を通って日本海に出るルートを利用していたと考えられるのです。
 当時の船では瀬戸内海を抜けるのに数日の時間がかかりましたので、吉備も中継・宿泊
地点だったはずです。
 逆に言えば、もしも吉備が大和政権と対立するようなことにでもなれば、宋へのルートが
寸断される事態が生じるわけです。
 『古事記』には、イワレヒコ(後の神武天皇)が九州から大和に東遷する際に、宇佐、
筑紫を経由して、安芸の多祁理宮(たけりのみや)に7年、次に吉備の高島宮に8年いた、
と記しているのも、大和政権の施設や朝鮮半島に向かう軍勢の中継および宿泊に利用され
ていたところから来たものと思われるのです。

 その一方で、葛城とつながりを持つ、日子坐王系の氏族や伊勢と関係する氏族が丹波や
丹後に存在するのも、瀬戸内ルートとは別に日本海ルートも確保していたためだと考えら
れなくはありません。

 このように、葛城氏が朝鮮半島や中国へのルートの確保に携わっていたと推測される理由
は、葛城氏が朝鮮問題や渡来人たちの処遇に携わっていたためでしょう。
 それに、大陸への出発点は難波津ですが、葛城氏は大阪府への進出にも積極的だったと
見られるのです。
 このことは、奈良県から大阪府に通じるルートを葛城氏が押さえていたことからも推測
されるわけです。
 奈良県から大阪府に抜けるルートには、龍田道、竹内道、長尾道、水越道などがあります
が、このうち、竹内道、長尾道、水越道は葛城の地を起点としています。
 龍田道はこれらのルートに比べて北にあるルートで斑鳩を通る街道ですが、斑鳩と言えば、
かつての平群郡です。
 平群氏は建内宿禰を始祖にしており、葛城氏と同族の関係にあります。
 また、葛城氏のプリンスであるオケ王とヲケ王が忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほ
そめ)の元に身を隠していたのを「発見」したのは山部連小楯(やまべのむらじおだて)で
すが、山部氏は斑鳩が発祥と言われています。

 ところで、葛城を起点とする竹内道と長尾道は反正天皇とゆかりが深いのです。
 と、言うのも、竹内道は別名を丹比道ともいい(註:後世の丹比大道はこれとは別物といわ
れています)、その理由は河内の丹比郡を通るからなのですが、竹内道の周辺には、反正天皇
が生まれたと伝えられる堺市美原区の丹比神社や、反正天皇の丹比柴籬宮(たじいいのしばが
きの宮)に比定される松原市の柴籬神社が存在するからです。
 また、長尾道は、反正天皇陵と伝えられる田出井山古墳(百舌鳥耳原北陵)の横を通って
いくのです。

 反正天皇は、仁徳天皇と葛城の石之日売命との間に生まれていて、履中天皇や允恭天皇とは
同母兄妹になります。
 父の仁徳天皇は難波高津宮に皇居をかまえましたが、反正天皇も大阪府に宮を置いたわけです。

 さて、仁徳・履中・反正の3人の天皇の陵墓は『古事記』、『日本書紀』とも百舌鳥にあると
伝えているわけですが、ここには土師氏がいました。
 実は、長尾街道も土師氏の拠点のひとつである旧道明寺村(現在は藤井寺市)を抜けていき
ます。
 土師氏の始祖、野見宿禰は出雲から大和に呼ばれて当麻の土地を与えられたと『日本書紀』に
あり、葛城とはゆかりが深いことになる氏族である。
 そして、野見宿禰を出雲から連れてきたのが倭国造の祖、市磯長尾市であることも、これまでに
何度となくお話ししました。

 ここにあらためて注目したいと思います。