小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

寒いから

2014年12月20日 01時37分43秒 | 日記
2014年5月5日(金)(4歳1か月)


 ただ今ゴールデンウィーク中。

 そろそろストーブもお役御免の頃合いだな。

 わが家の周辺は堺市の中でもピンポイントで気温の低いところで、
だからご近所さんもみんなゴールデンウィークあたりまでは暖房器具
を必要としている。

 うちの家族は3・11以来の節電でふだんはエアコンを使わず
もっぱらストーブを使用しているけど、そのストーブも温暖化対策
と節約を兼ねてあまり使わないようにしている。

 だから真冬の頃は家の中がこんな光景の日もある。




 学生時代、長野県や山梨県から来た友達が、

 「大阪は寒い」

と、言っていた。

 長野や山梨は雪が積もって湿度が高くなるから、雪の降らない大阪の
方が寒い、と言うのである。

 この春に、わが家にホームステイした、ロシアから来たサーシャという
男の子も、

 「日本は寒い」

と、言っていた。

 ロシアは寒い国だから、ロシアの住宅はいかに暖かく過ごすか、に重点
を置いている。

 ところが高温多湿の日本の住宅は、いかに通気性をよくするか、に重点
を置いているから家の中が寒い、というわけである。

 大阪生まれで大阪以外の土地に住んだことのない僕には、夏の京都市内は
大阪以上にムッチャ暑く感じる。

 だから、京都に住んでいた平安貴族たちは、夏をいかに涼しく過ごすかに
重点を置いていた。平安貴族たちの住まいもやっぱり涼しく過ごすために
重点が置かれていた。

 それだけに冬はシャレにならんくらいに寒かったようだ。

 寒い冬を過ごすための工夫のひとつが女性の十二単である。

 着物を12枚重ね着するわけで、反対に暑い夏は薄着だったらしい。

 男性の貴族はと言うと、冬に着る物として、現在では絶滅してしまった
ニホンアシカの毛皮が喜ばれたそうだ。

 さて、サーシャがうちにステイしている間、ゆうきやりえと一緒に世界の
国旗カードで遊んでいたことがあった。

 その時、カナダの国旗カードを引いたサーシャが、

 「カナダはキライだ」

と、言った。

 「なんでカナダはキライなん?」

と、僕が訊くと、サーシャが答えた。

 「寒いから」

 ・・・いや、ロシアも十分寒いやろ。

 なんで寒い国がイヤやねん?よくわからん。

342 難波の太陽信仰

2014年12月20日 01時34分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生342 ―難波の太陽信仰―


 そういったところで、話を倭氏と安曇氏に戻したいと思います。
 『日本書紀』によれば、10代崇神天皇の時代に、それまで宮中で祀られていた倭国魂神と
天照大神を別々に祭祀することになった、とあります。
 天照大神は、笠縫邑に遷され、後に伊勢神宮に遷った、とされ、倭大国魂神は市磯長尾市を
司祭者にして大和神社(おおやまと神社)で祭祀されるようになったのです。
 天照大神を最初に遷した笠縫邑は多神社のあたりに比定されます。
 多神社は式内社の多坐弥志理津比古神社に比定されていますが、多坐弥志理津比古神社の
祭神は珍子賢津日霊神尊(ウツノミコサカツヒコ)と天祖賢津日女神尊(アマツヲヤサカツ
ヒメ)で、これは天忍穂耳命と天照大御神の母子神のことだといいます。
 そして、その夫神であり父神を、大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)は、三輪山の大物主
神だとします。
 その理由は、多神社から見て三輪山は東にあり朝日の昇る方角で、春分・秋分の朝日は当社
から見て三輪山のほぼ山頂から昇るからです。
 すなわち日読みの信仰が見られるから、としています。
 この大物主も、天照大神と倭大国魂神の祭祀を宮中より分離した時に、オオタタネコを祭祀者
にしてその祭祀を行わせた、といういきさつがあります。
 大物主を祀る大神神社(おおみわ神社)の祭祀族は三輪氏で、オオタタネコの子孫を称します。
 倭氏は大倭氏とも称し、三輪氏は大三輪氏とも称します。この「大」は美称ですが、多坐弥志
理津比古神社の祭祀氏族の太氏も「大氏」に音が通じます。そうすると、『日本書紀』における
崇神朝時代の神々の祭祀は次のようになるのです。

 太氏   ― 多(大)神社 ― 天照大神・天忍穂耳
 大三輪氏 ― 大神神社  ―  大物主神
 大倭氏  ― 大和神社  ―  倭大国魂神

 このように、太氏と多神社のみ美称ではなく名として「大(おお)」を称し、大三輪氏と大神
神社、大倭氏と大和神社と、「大」の美称を冠するという関係が成立しているわけです。
 大神神社の坐す三輪山は大和の東に位置し、太陽の昇る処です。
 多神社は、春分・秋分に、その三輪山の山頂から昇る朝日を拝する地です。(正確には山頂の
やや右側)
 大物主神は古くは太陽神であり、多神社の祭神は大物主神の妻神と御子神。大和神社の祭神、
倭大国魂神は国土の神。
 三社は太陽信仰と国土の神の組み合わせとなるわけです。
 これは、あたかも少し時代が下って頃の、天照大御神と大国主の関係を思わせます。

 さて、この関係が難波においても見られるのです。
 前々回にお話ししましたように、大阪市天王寺区にある生國魂神社は、元は現在の大阪城が
築かれている場所に鎮座していました。
 そして、大阪城の西には坐摩神社(いかすり神社)が鎮座していました。現在、坐摩神社は
中央区久太郎町に鎮座しますが、旧社地は中央区石町に比定されています。
 この旧社地に比定される地は、かつては菟餓野(とがの)といいました。
 大阪市高石市の等乃伎神社の鎮座する地を古くは菟寸(とき)と言ったようですが、菟餓野の
「とが」も「とき」も朝鮮語で「日の出」を意味します。
 これはこれまでに何度か紹介したことなのではありますが、等乃伎神社から見た夏至の朝日は
高安山頂から昇り、等乃伎神社から真東に線を引いてこれを底辺に見立てた時に、高安山頂は、
等乃伎神社から北東に30度の角度にあります。
 これに対し、菟餓野から見た冬至の朝日は高安山頂から昇ります。同じように菟餓野から、真東
に線を引いた時に、高安山頂は南東30度の角度にあるのです。

 このように、等乃伎神社と坐摩神社(旧社地)は、それぞれ夏至、冬至の時に高安山から昇る
朝日をのぞむ日読みの地なのです。

 ところで、その高安山の中腹には天照大神高座神社(あまてらすおおみかみたかくら神社)が
鎮座します。
 祭神は天照大神なのですが、多神社社伝の「社司多神命秘伝」は、多神社の祭神、天祖賢津日
女神尊は天疎向津姫命(アマサカルムカツヒメノミコト)であり、天照大神高座神社の天照大神と
同体異名である、とするのです。

 坐摩神社と生國魂神社は太陽信仰と国土の神という関係になるわけです。