小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

サキ着てない

2014年12月01日 01時51分39秒 | 日記
2014年4月8日(日)(4歳0か月)


 春奈が保育園に通うようになってから1週間が
すぎた。

 春奈にとってもみんたにとっても幸運なのは、
登園時間がゆっくりである、ということだ。

 私立の幼稚園が2校(2園)、毎朝うちの住宅街を
通園バスで通っていくけど、どちらも朝の7時30分
にバスが来る。
 そんな早い時間に来られたなら、起床も早いし、朝食
も準備も大急ぎでやらなきゃいけない。

 そういう意味でラッキーなのだけど、それでも保育園
でのことを考えて、僕もみんたも、春奈には、自分でし
なきゃいけないことは極力ひとりでやらせ、手伝わない
ようにしている。

 着替えもそのひとつだ。

 それで今朝、着替えを済ませたばかりの春奈が肌着を
着るのを忘れたことに気づき、

 「サキ着てない」

と、言った。

 シャツやろ?

 まだ「シャツ」とは発音できないらしい。

382 葛城と吉備

2014年12月01日 01時47分56秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生382 ―葛城と吉備―


 ちょっと、こっちの方はお休みしてしまっていました。また再開いたします。

 さて、前回までに、伊勢と播磨に、伊勢津彦と天目一箇神の祭祀が存在し、播磨では、
加古川の支流、杉原川沿いに天目一箇神やその妻の道主日女命を祀る神社が存在する、
とお話ししましたが、さらに言えば、加古川の支流のひとつに美嚢川があり、さらにその
支流に志染川があります。その名からわかるように、オケ王とヲケ王が身を寄せた美嚢郡
志染を流れる川です。
 ただし、この周辺で式内社は八戸挂須御諸命(ヤトカカスミモロノミコト)を祭神と
する三坂神社があるだけで、天目一箇神は祀られてはいません。

 ともかく、伊勢と播磨おいて、伊勢津彦や天目一箇神の祭祀が共通しているということ
を検証したわけですが、そこに日子坐王の系譜に属する人々が丹波や伊勢とつながることも
前に採り上げました。
 そして日置氏や土師氏の存在。
 これらの、丹波や播磨が伊勢と信仰や伝承でつながっていることは、同時に葛城との
つながりをも意味します。
 葛城氏は、允恭・雄略の親子二代の天皇によって滅亡させられましたが、雄略天皇は
東の伊勢をも完全に支配下に置くことに成功したと言えるでしょう。
 そして、西の勢力ですが、はたして葛城の勢力圏は、西はどの辺りまで影響を及ぼして
いたのでしょう。
 播磨の西隣は吉備ですが、吉備にも葛城氏の影響が及んでいた可能性もあるのです。
 それと言うのは、吉備上道臣田狭(たさ)の妻にまつわる伝承です。
 吉備上道臣田狭の妻については前にもお話ししました。
 田狭が、妻の稚媛(わかひめ)の美貌を自慢していることを知った雄略天皇は、稚媛を
自分の妃のひとりにしたい、と思い、田狭を任那の国司に任命して朝鮮半島に赴かせると、
田狭の留守中に稚媛を妃にしてしまったのです。
 この稚媛について、『日本書紀』は、吉備上道臣の娘とし、異伝として吉備窪屋臣の娘、
と載せていますが、同時にもうひとつの異伝として載せているのが、

 「別本に曰く。田狭の妻の名は毛媛(けひめ)という。葛城襲津彦(かつらぎのそつ
びこ)の子玉田宿禰の娘なり。天皇、その美貌を聞き、夫を殺して自分の妃のひとりに
しようとしたという」

という話です。こちらでは、田狭の妻は葛城氏の娘ということになっているのです。
 玉田宿禰は允恭天皇に滅ぼされてしまいましたが、吉備上道臣と血縁関係を結んでいた
ということになるわけです。

 それでは、吉備氏と葛城氏が実際につながりを持っていたのか、というところが問題点
になります。
 5世紀の吉備が、大和政権に属さない独立した勢力であったとする研究者もおり、吉備
王国という言葉も使用されましたが、大方の意見としては、吉備の独立性については疑問視
される傾向にあり、それよりは、この当時の大和政権は吉備を含む連合体であったとする
考え方が多く、その意味においては吉備が半独立状態の勢力であったと見做してもよいと
する考え方もあります。

 ただし、吉備と、葛城を含む大和の王権との関わりを思わせる古墳が吉備には存在するの
です。
 それが、吉備最大にして全国第4位の規模を誇る岡山県総社市の造山古墳(全長350
メートル)です。
 実は、この古墳には謎とされる部分が多いのです。
 全国第4位である造山古墳の1つ上、全国第3位は大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(伝・履中
天皇稜)で全長が360メートル。ただし、古墳の大きさというものは、建造当時に比べて
欠けている部分もあり、また土や樹木に覆われているため、正確な数字ではありません。
 だから、石津ヶ丘古墳の360メートルと造山古墳の350メートルでは10メートルもの
差がありますが、この規模の古墳としてではまったく同じ大きさと言ってもいいでしょう。
 高橋護の著作「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に収録)によれば、
石津ヶ丘古墳と造山古墳は、平面形も側面形もまったく同じで、両者を重ねるとほぼピッタリ
と一致する、双子のような古墳であり、同じ設計図をもとに造られた古墳としか思えないと
いうのです。
 それでは、吉備氏が中央政権の建造した古墳を真似て建造としたのかと言えば、造山古墳
から採集された埴輪や他の遺物群、それに周りの堀の状況から、造山古墳の方が石津ヶ丘古墳
よりも古いと考えられるのです。
 つまり、天皇稜だとされる古墳の方が、吉備の古墳の設計図を利用して造られたものである、
と推測されるのです。
 ここに造山古墳の1つ目の謎があります。

 2つ目の謎が、造山古墳の建造についてです。