小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ひさぶり

2014年12月24日 01時08分41秒 | 日記
2012年5月15日(火)(4歳1か月)


 前は春奈、上がり湯の時に夏は20、冬は30、数を
数えてから風呂から上がっていたけど最近それをやって
いなかった。

 春奈もそのことを思い出したのか、今日は、

 「ひさぶりに20やる」

と、言った。

 まだ「久しぶり」が言えない。

 以前から春奈は「久しぶり」というところを「ひさぶり」
と言っていた、

 でも、まだ言えてなかったんやね。

 考えてみれば、幼児にとって「ひ」の音は出しにくいの
かもしれない。

 「し」と区別が難しいのだ。

 その点では、「ひさしぶり」という言葉には「ひ」と「し」
が含まれている。

 「ひ」の音をハッキリ口に出そうとすれば「し」の音が出せ
なくなるとか?

 たしかに「ひさしぶり」の「さ」と「し」は息だけで発音する。

 幼児には難易度が高いかもしれない。

 春奈の「久しぶり」が「ひさぶり」になるのはある意味、
自然なことなことなのかも。

344 日下と若日下部王

2014年12月24日 01時04分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生344

 『日本書紀』では、ニギハヤヒは天磐船(あまのいわふね)に乗って哮峯(いかるがたけ)に
降臨し、その時に、この地を、「虚空(そら)見つ日本(ヤマト)国」と名付けた、と記して
います。
 さて、この哮峯がどこなのか諸説ありますが、多くの研究者が生駒山系のどこか、としています。
その中でも有力なのが大阪府交野市の磐船神社で、ここはニギハヤヒの天の磐船を祀っています。
 そして東大阪市井石切町の石切剣箭神社もまた生駒山なのです。

 また、『古事記』では、イワレヒコ(後の神武天皇)は吉備から大和を目指す時に、浪速の渡
(大阪湾)を経て、青雲の白肩津まで進軍しますが、この時、登美能那我須泥毘古(トミノナガ
スネヒコ)が兵をそろえて待っており、戦いをしかけてきます。
 戦場となったこの場所を、『古事記』は、

 「その地を名づけて盾津という。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)という」

と、記します。
 イワレヒコの軍はこの戦いに敗れ、そこで、
 「私は日の神の御子であるのに日に向かって戦ったのがいけなかった。それゆえに賤しき奴に
深手を負わされたのだ。向こうに回って、日を背にして戦おう」
と、言って、大阪湾から紀州に廻り、吉野から大和入りを目指すことになります。
 『日本書紀』では、イワレヒコの軍は難波碕から、河内国の草香(くさか)の邑の、青雲の
白肩之津に上陸した、と記します。
 日下(草香)の比定地についても諸説ありますが、有力視されているのが東大阪市日下町です。
 古墳時代まで、大阪市は上町台地を除いて海で、海岸線はこの日下町辺りであった、と考えら
れています。
 現在の大阪市が次第に陸地化していき、やがて旧の大阪湾は内海となりました。それもいつしか
淡水化して河内湖と呼ばれるものになりましたが、室町時代にはまだ現在の東大阪市に河内湖が
存在していたと記録にあります。
 さて、日下という地名ですが、難波から見て朝日は生駒山系から昇ります。
 このことは、難波から見て生駒山の麓は文字どおり「日の下(もと)」であり、「日の元(もと)」、
「日の本(もと)」だったことを意味します。
 そして、瀬戸内から見れば、難波もまた日の昇る方角、「日の下」だったのです。
 「押し照る難波」が太陽祭祀の霊場たる理由は十分に存在したわけです。


 ところで、坐摩神社の祭神は、元はイカシリ神であったようです。 
 現在の坐摩神社の祭神は、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比祇神の五柱の神ですが、
これらは、宮中で坐摩巫(いかすりみかんなき)が祀る宮中神です。
 坐摩巫が宮中で祭祀していたことから、いつしか坐摩神社でもこの五柱の神を祭神とするように
なったと思われる、と言うのも、『延喜式』の「神名帳」には坐摩神社について五座とは記して
いないので本来坐摩神社の祭神は一柱であるはずだからです。
 それではイカシリ神とはどのような神なのか、ということになります。

 『住吉大社神代記』はイカシリ神を住吉大神の分身と伝えます。
 その伝えるところによれば、仁徳天皇の時代に、天皇の皇女、波多毗若郎女(ハタビノワカイラツメ)
の夢の中に神が現れ、
 「吾は住吉大神の御魂である。為婆天利神(イバカリ神)、またの名を猪加志利之神(イカシリの神)
という」
と、名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝(はふり)として
奉仕させた、ということです。

 ここでは、波多毗若郎女の夢の中に現れた神が、「住吉大神の御魂である」と自ら名乗っていますが、
これは、『日本書紀』の中に、大国主の前に現れた神が、「吾は汝の幸魂奇魂なり」と名乗る場面が
あるように、しばしば神の荒魂や和魂は分身として独自に活動するものです。

 ところで『住吉大社神代記』にある、仁徳天皇の皇女、波多毗若郎女とは雄略天皇の皇后、若日下部王
のことです。
 『古事記』は仁徳天皇の御子たちについて述べる箇所で、

「髪長比売娶って生みませる御子は、波多毗能大郎子、またの名を大日下王、次に波多毗若郎女、またの
名は長目比売命、またの名は若日下部命」
と、記しています。
 また、『日本書紀』も、

 「日向の髪長媛、大草香皇子(オオクサカ皇子)と幡梭皇女(ハタビ皇女)を生めり」

と、記します。
 『古事記』と『日本書紀』も、この女性が若日下部命のことだ、としているのです。
 すると、問題は、なぜイカシリ神が若日下部命の夢の中に現れたのか、ということになります。