小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ホームステイと一緒

2014年12月11日 01時18分08秒 | 日記
2014年4月22日(日)(4歳0か月)


 春奈は母親のみんたがヒッポファミリークラブのフェロウをしている
ので、生まれてすぐの時からヒッポの関西本部に連れて行かれたり、
他にもいろんなところに連れて行かれては、たくさんの人たちと出会って
きた。

 言わば、初対面の人と出会うことが春奈の日常だった。

 そのせいで、春奈には人見知りの時期がなかった。

 ところが、春奈の出会う人たち、それに周囲にいる人たちは、いつも大人
であったり、子供でも春奈よりも年長の子たちばかりだった。

 同年代の子との出会いがなかったのである。

 だから、同年代の子と出会った時のコミュニケーションが下手なところが
あった。
 その春奈がこの春から保育園に通うようになった。

 まして、他の子は年少組さんから通っているのに春奈は年中組さんからの
入所である。

 はたして友だちとうまく付き合えているんやろか?

 質問してみた。

 「保育園で一緒に遊ぶ友だちはできたか?」

 「〇〇ちゃんと〇〇ちゃんと〇〇ちゃん」

 3人ほどいるようだ。

 「自分から『一緒にあそぼ』って言うん?」

 「はるなからは言わない」

 やっぱりね。まだ自分からみんなの中に飛び込むことはしていないか。

 「誘ってもらえない時は何してるん?ひとりで遊んでるん?」

 「先生に、『一緒にいてー』って言うて先生と一緒にいる」

 ふうん・・・。

 少し安心した。

 ヒッポファミリークラブにもあるけど、いろんな団体から、小中学生が
ひとりで海外の家庭にホームステイするプログラムがある。

 すぐにステイ先の家族と仲良くなれる子もいればそうでない子もいる。

 何しろ、小中学生が日本の家族から離れて、たったひとりで異国の、
初めて会う、それも日本語の通じない人たちの家庭に入るのだから。

 すぐに仲良くなれない子はどうするか?

 ホストママにずっとくっ付いているのである。言わば赤ん坊の行動
パターンだ。

 一番困るのが、部屋に閉じこもってしまう子だ。

 ホストママにくっ付いている子は時間が経てばママ以外の家族とも
仲良くなれるけど、部屋に閉じこもっていればそうはいかない。

 春奈の場合、保育園でひとりぼっちにならずに先生にくっ付いている
ということは、そのうちに他の子と仲良くなれる、ということだ。

387 倭氏と忌部氏と阿波

2014年12月11日 01時14分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生387 ―倭氏と忌部氏と阿波―




 倭国造の倭氏の始祖は、吉備から大和に向かうイワレヒコ(後の神武天皇)に海上の
道を案内した神、槁根津日子(サオネツヒコ)です。
 これは『古事記』に記されていることですが、『日本書紀』では、この神の名は椎根津彦
(シイネツヒコ)で、神武天皇に出会ったのも宇佐に向かう途中のこと、となっています。
 『古事記』に従えば、サオネツヒコが神武天皇の前に現れたのは明石海峡ということに
なり、瀬戸内海にいた神ということになります。
 しかし、どうやら倭氏の始祖伝承は瀬戸内海だけに限定されていたわけではなかったよう
なのです。
 と、言うのも、日本海側の、丹後の籠神社に伝わる『海部氏勘注系図』と『先代旧辞本紀』
には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギ
ハヤヒノミコト)の孫の、天村雲神と丹波の伊加里姫命との間に生まれた倭宿禰命という神が
倭国造の祖とあるからです。

 もうひとつ、土師氏の祖、野見宿禰と倭氏が絡むうえで見過ごせないのが日置氏の存在です。
 日置氏の大和における拠点は葛城の朝妻ですし、「丹後国風土記逸文」には與謝郡日置の里が
登場し、与謝郡に日置氏がいた形跡を残していますし、河内における日置里(現在の堺市東区
日置荘)は堺市中区の土師氏の拠点と近い距離にあるのです。
 日置氏は出雲における神事にも関わっていましたが、その氏族名が示すように太陽信仰に
関わっており、三輪山の祭祀にも絡んでいた形跡もあるのです。
 三輪山の神とは言うまでもなく大物主のことですが、古くは大国御魂神を祀っていたと考え
られるのです。
 大国御魂神は『古事記』では、スサノオの御子神、大年神の子ですが、同じ大年神の御子神
には、葛城中社の葛木御歳神社の祭神、御歳神(御年神)もいます。
 大国御魂神は、大物主に代わられ、大倭国魂神として奈良県天理市の大和神社(おおやまと
神社)に遷されたと考えられますが、ここの祭祀氏族が倭氏なのです。

 ところで、大和神社の祭神は、倭大国魂神(大和神社では日本大国魂神と表記)だけでなく、
御年大神と八千戈神も祀られています。
 御年大神は、その葛木御歳神社の祭神である御歳神で、八千戈神は、『古事記』も『日本書紀』
も大国主の別名のひとつ、と伝えています。
 大国主がこの名で登場するのは、『古事記』における、高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)に
求婚する時です。
 『古事記』の国譲り神話に登場する建御名方神(タケミナカタ神)はこのヌナカワヒメの子と
伝えられています。

 さて、雄略天皇の事績のひとつとして伊勢平定が挙げられますが、朝日郎征討と「伊勢国風土
記逸文」が伝える伊勢津彦征討の伝承は非常に似通ったものになっていることはこれまでに何度
となくお話ししてきました。
 伊勢津彦を征討したのは天日別命(アメノヒワケノミコト)、と「伊勢国風土記」は記しますが、
アメノヒワケに降伏した伊勢津彦は、「この国は天孫に譲る」と言って、伊勢より信濃に遷って
いった、とあります。
 この点は、国譲り神話でタケミナカタに降伏したタケミナカタが、天孫に国譲りをすることを
受け入れ、かつ自身は信濃の諏訪に遷ったことと重なります。

 伊勢津彦を討った天日別命は、伊勢の度会氏の始祖で、天村雲神の御子神です。
 『古事記』や『日本書紀』は、倭氏の始祖を海上で神武天皇の前に現れた神とし、名をサオネツ
ヒコ(『古事記』)、あるいはシイネツヒコ(『日本書紀』)とします。
 しかし、『海部氏勘注系図』や『先代旧辞本紀』では、倭宿禰命という神が倭国造(倭氏)の祖、
とするのです。
 そして、『海部氏勘注系図』と『先代旧辞本紀』はこの倭宿禰命を、天日別命と同じく天村雲神の
御子神としているのです。

 さらに、天村雲神の御子神には伊勢構造や忌部氏らの始祖の天日鷲命がいます。
 忌部氏は、伊勢や阿波、それに信濃にも拠点を持っていましたが、そのうち阿波の忌部氏の拠点
だったと思われるのが麻植郡と名方郡です。
 麻植郡には、式内社の忌部神社と天村雲神衣自波夜比売神社が鎮座するからです。
 忌部神社の祭神は天日鷲命で、天村雲神衣自波夜比売神社の祭神は天日鷲命の父、天村雲神と伊自
波夜比売(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)なので、どちらも忌部氏が祭祀する神社であったと考え
られるのです。
 それに、『続日本紀』の神護景雲二年七月の条には、阿波国麻植郡の人、忌部連方麻呂や忌部連須美
らが宿禰の姓を賜った、という記事があるので、麻績郡に忌部氏の一族がいたことがわかります。

 もうひとつの名方郡については、式内社の天石門別豊玉比売神社が鎮座するからです。この天石門別は
忌部氏に関係する神なので、やはり忌部氏の祭祀する神社だと考えられるわけです。

 そして、倭氏の一族も名方郡にいたのです。