小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

お姉ちゃんといっしょ

2014年12月05日 01時28分18秒 | 日記
2014年4月18日(水)(4歳0か月)


 春奈は最近、すぐに、

 「お母さんバカ!」

とか言う。

 わがままを言って、それを聞き入れてもらえなかった
時だ。

 ゆうきも6歳や7歳の頃に、よく、

 「お母さんバカ!」

とか、

 「お父さんバカ!」

って、同じように言っていたっけ。

 近頃の春奈の言うことは、小さい頃のゆうきと同じよう
なものが多い。

 春奈はゆうきが8歳の時に生まれているから、その頃の
ゆうきのことは知らない。

 だから、ゆうき姉ちゃんのマネということはない。

 なのに、ゆうきと同じようなことを言う。

 これって、人間の言葉の成長はみな同じ道筋をたどる、って
ことなんだろうね。

 ただし、りえは、「バカ」と言うことはなかったなあ。

385 応神・仁徳天皇の、吉備への妻問

2014年12月05日 01時24分38秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生385 ―応神・仁徳天皇の、吉備への妻問―


 仁徳天皇は、吉備の海部直(あまべのあたい)の娘で容姿端麗な黒比売(くろひめ)を妃に迎え
たいと思っていましたが、黒比売は皇后の嫉妬を恐れて吉備に帰ってしまいます。
 それでも黒比売のことが忘れられない天皇は、皇后には、
 「淡路島に行ってくる」
と、嘘を言って、淡路島経由で吉備へ、黒比売に会いに行くのです。

 また、天皇は皇后が紀州に御綱柏(みつなかしわ)を採りに行幸している間に、異母妹の八田若
郎女(ヤタノワキイラツメ)を後宮に入れてしまいます。
 皇后が天皇の難波宮に戻る途中、帰郷の途中であった、水取司に仕える吉備国の児島の仕丁が、
皇后に仕える倉人女に、こう話しかけたのでした。
 「天皇は近頃八田若郎女を後宮に迎えられ、昼も夜も問わずたまむれ遊ばされていることを皇后
はご存じないのでは?あのようにのんびりと旅を楽しまれておられるのだから」
 倉人女がこの話を皇后に伝えると、皇后は激怒し、難波宮には帰らずに、山城国綴喜郡に住む
渡来人、奴理能美(ぬりのみ)の家に入ってしまったのでした。

 ここに登場する黒比売は吉備の海部直の娘です。
 一般に吉備氏と称される氏族が、吉備上道臣、吉備下道臣、笠臣など、臣姓で、直姓は、臣の下の
連(むらじ)姓のその下になります。
 それに、児島の仕丁は、仕丁とはいわゆる人足のことなので、身分に低い無名の者です。
 言い換えれば、素朴な形で吉備が『古事記』に登場しているのです。

 これが『日本書紀』では異なります。
 『古事記』では、仁徳天皇のエピソードとして描かれている物語が『日本書紀』では、仁徳天皇の
父、応神天皇と妃の兄媛(えひめ)のエピソードとして描かれています。
 兄媛は吉備臣の祖御友別(みともわけ)の娘ですが、応神天皇二十二年三月、天皇に、
 「もう長い間父母にあっておりません。しばらく故郷に帰って父母によくしたいと思います」
と、願い出ます。
 応神天皇は承諾し。淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出してやります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問したのでした。
 この時、兄媛の父、御友別が御饗(みあえ=食事を奉ることで、同時に服属することを意味します)
を天皇におこないます。
 これに対して、天皇は大変満足し、吉備を分割して御友別の子どもたちに与えます。
 『日本書紀』には、

 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に与える。
これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは三野臣の始祖なり。
また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。それから兄の浦凝別に苑縣を
与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」

と、あります。
 『日本書紀』の記事は吉備氏と呼ばれる諸氏族の起源を語る内容にもなっているのが特徴です。
 しかし、同時にこの記事は、吉備氏の天皇への服属を伝えるものでもあるのです。
 服属儀礼でもある御饗の場面も、『日本書紀』は、

 「(御友別の)兄弟子孫をもって膳夫として御饗を奉る」
 「天皇、ここに御友別がかしこまって奉るのをご覧になって喜ばれた」

といったように描いており、吉備氏の服属のエピソードにもなっているのです。

 その点、『古事記』では、仁徳天皇に御饗を奉るエピソードはありますが、黒比売が御饗を奉る、
とあるだけで、父や兄弟は登場しません。
 服属儀礼と言うよりは食事を用意した、という感じになっています。
 それに、仁徳天皇も、御饗のために黒比売が青菜を採りに行った時に、天皇もその場を訪れて、

 「山県に 蒔ける菘菜も 吉備人と 共にし採めば 楽しくもあるか」

と、歌います。
 『日本書紀』と違って、『古事記』の方は文学的です。
 このことから考えると、『古事記』の方が伝承として原型に近いと思われます。『日本書紀』の方
が政治的に脚色された内容になっているので、こちらの方が新しいものと考えられるのです。

 これらのことからも、葛城氏が全盛期を迎えた仁徳・履中天皇の時代は、大和と吉備は友好的な関係
にあった、と思われるのです。