小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

598 八千矛の神 その3

2017年06月25日 02時31分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生598 ―八千矛の神 その3―
 
 
 その前に、あと2つ、採り上げておきたい説話があります。
 
 ひとつは、『播磨国風土記』の賀古郡の項にある、12代景行天皇が印南の別嬢(いなみの
わきいらつめ)を妻問した話です。
 印南の別嬢は、『古事記』にある、吉備臣らの祖、若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能
大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)と同一人物とされています。ちなみにヤマトタケルの
生母です。
 一方の印南の別嬢は、『播磨国風土記』では、丸部臣(わにべのおみ)らの祖、比古汝茅
(ヒコナムチ)と、吉備比古の娘(もしくは妹か?)、吉備比売との間に生まれた、となっています。
 
 それで、その印南の別嬢の伝承ですが、印南の別嬢への求婚に、景行天皇は播磨国
賀毛郡の山直(やまのあたい)等の祖、息長命(オキナガノミコト)を仲介役にしますが、別嬢は
畏れかしこみ、南毗都麻嶋(ナビツマ島)に隠れてしまいます。そこで天皇も島に渡り、妻問
することができるのですが、別嬢には、床掃え(とこはらえ=寝所の清掃や設備などの奉祀
する侍女)として、出雲臣比須良比売(ヒスラヒメ)という女性が仕えており、天皇はこの出雲臣
比須良比売を息長命の妻にした、というものです。
 
 もうひとつは、『日本書紀』の、応神天皇二十二年の記事です。
 応神天皇の妃の兄媛(えひめ)は吉備臣の祖御友別(みともわけ)の娘ですが
この兄媛が天皇に、
 「もう長い間父母にあっておりません。しばらく故郷に帰って父母によくしたいと思います」
と、願い出ます。
 応神天皇は承諾し、淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出してやります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問したのでした。
 この時、兄媛の父、御友別が御饗(みあえ=食事を奉ることで、同時に服属することを意味
します)を天皇におこないます。
 これに対して、天皇は大変満足し、吉備を分割して御友別の子どもたちに与えます。
 『日本書紀』は、
 
 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に
与える。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは
三野臣の始祖なり。また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。
それから兄の浦凝別に苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」
 
と、記しています。
 
 以上の説話を比べてみると、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)の伝承には、水取司に仕える
吉備国の児島の仕丁が登場し、印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)や兄媛(えひめ)は
吉備の氏族の出身と、吉備が絡んでいることにまず気づかれるかと思います。
 しかし、吉備よりもむしろ関係しているのは海人なのです、
 
 桑田の玖賀媛(くがひめ)はおそらく丹波国桑田郡の人だったのでしょうが、桑田郡には
氷室が置かれていました。
 南丹市八木町氷所には氷室の郷という農村環境公園がありますが、八木町氷所はこの
氷室が置かれていた地に比定されているところなのです。
 吉備国の児島の仕丁は水取部に仕えていた、とありますが、氷室の管理を行っていたのが
水取部なのです。
 水取部の名称は、天皇に水を奉るという職務からきたものだと言われていますが、『古事記』
には枯野という船の話があります。
 枯野とは、大阪府高石市と堺市西区とが隣接する辺りに生えていた巨木を切り倒して作ら
れた船で大変速い船だった、とあります。そして、この枯野で毎朝夕、淡路島の冷水を酌んで
それを天皇に奉った、と『古事記』は記します。
 
 それで、『日本書紀』の兄媛の伝承を見てみると、応神天皇は淡路島の御原の海人80人を
水夫にして兄媛を海路送り出してやったことが記されています。
 額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉を接収しようとして、
倭直吾籠子によって阻止された事件では、はじめ大雀命は倭直麻呂に、
「大和の屯田は山守のものというのはどういうことであろう?」
と、尋ねます。これに対して麻呂は、
 「私はよく存じておりません。弟の吾籠子だけが知っております」
と、答えたのですが、その時吾籠子は韓国に派遣されていました。
 そこで大雀命は淤宇宿禰に、淡路の80人を水夫として付けて吾籠子を召喚させるのです。
 
 ともに淡路島の海人が80人とあり、このことから、淡路島の海人が航海を担うものとして
天皇に仕えていたことが推測できます。

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