小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

559 製鉄の人々の伝承と出雲の神 その14

2016年12月30日 00時08分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生559 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神 その14―
 
 
 さて、応神天皇ですが、この名は漢風諡号であり、本来の名前はホムタワケノミコト
(『古事記』では品陀和気命、『日本書紀』では誉田別尊と表記)です。
 垂仁天皇の皇子のホムチワケは、『古事記』では、いわゆるホムチワケ伝承の部分は
本牟智和気命(ホムチワケノミコト)と記し、垂仁天皇の后妃や皇子、皇女の項では、
品牟都和気命(ホムツワケノミコト)と記しています。
 ホムチワケ、もしくはホムツワケと、応神天皇のホムタワケは一字ちがいなのです。
 ホムチワケは皇后の生んだ子であり、父の垂仁天皇から見せた溺愛とも言える
愛情を注がれながら天皇として即位していない、という謎があります。
 そのため、ホムチワケ伝承は、本来は応神天皇の幼少期の説話でそれが別の
人物として独立したとする説もありますが、これは少数意見のためここで採り上げる
ことはやめておきます。
 ただ、ホムチワケと応神天皇には共通点があるのです。
 
 成人しても言葉を発することのなかったホムチワケは、垂仁天皇の夢の中に
大国主が現れたことで出雲大社を訪ね、その結果として言葉を発するようになり
ました。出雲大社を訪問することで真の意味で成人したわけです。
 
 一方の応神天皇は、皇太子時代に福井県敦賀市の気比大社を訪問しています。
 この時、同行した建内宿禰の夢の中に伊奢沙和気大神(イザサワケ大神)が現れて、
 「吾が名と皇子の名を交換したい」
と、告げたので、建内宿禰がかしこまって承諾すると、
 「明日の朝、浜に来られるがよい、名を交換したその贈物をさしあげよう」
と、大神が言ったので、翌朝浜に出てみると、鼻に傷を負ったイルカが浦いっぱいに
いました。
 御子(応神天皇)は、
 「神は御食の魚をくださった」
と、言い、そして大神に、御食津大神(ミケツ大神)の名を贈った、と『古事記』は記して
います。
 
 御食津とは、現代語に直せば「御食の」という意味になります。つまり、御食津大神
とは「御食の大神」になるわけですが、初代神武天皇の名も、『古事記』では、
 「若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、またの名を豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)、またの
名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」
となっていて、ミケが含まれています。
 また、出雲の熊野大社の祭神は櫛御気野命(クシミケヌノミコト)で、やはりミケが
含まれており、熊野三山で祀られている家都美御子大神(ケツミミコ大神)も「御食津」の
食津のことではないかと言われています。
 
 このことは、少し前にも採り上げたばかりで、以下の金達寿の『見直される古代の
日本と朝鮮』こともその時に紹介しましたが、ここでもう一度改めて採り上げてみたい
と思います。
 金達寿『見直される古代の日本と朝鮮』には、気比大神こと伊奢沙和気命(イザサ
ワケノミコト)とはアメノヒボコのことである、とあります。
 この著の中で、金達寿は、このことは北陸を訪ねて神社の宮司らに聞き、また印牧
邦雄の『福井県の歴史』にも書かれていることだ、と書いています。
 
 また、金達寿は、アメノヒボコとは『古事記』にある新羅の王子でも『風土記』にある
渡来系の神でもなく、太陽神を祭る宗教を持った新羅からの渡来人集団の祭具で
ある、とします。
 このことは、直木孝次郎が『兵庫県史』の中で記している、とあります。
 
 豊岡市気比の気比神社も祭神は五十狭沙別命(イササワケノミコト=気比大神)
なのですが、この神は新羅から来日したアメノヒボコと同神といいます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿