小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

425 阿智王と身狭村主青

2015年09月04日 01時43分16秒 | 大国主の誕生
 大国主の誕生425 ―阿智王と身狭村主青―
 
 
 この阿知使主(あちのおみ)・加使主(つかのおみ)父子の伝承として『日本書紀』は次の
ように記しています。
 
 「(応神天皇)三十七年の春二月の戌午の朔日に、阿知使主・都加使主を呉に遣わして、
縫工女を求めた。阿知使主らは高麗国を通って呉に行こうと考えた。そうして高麗国に
入ったがその先の道程はわからなかった。そこで高麗の宮廷に案内人を付けてくれる請願
したところ、高麗王は久礼波(くれは)・久礼志のふたりを案内人として副えてくれた。
 このおかげで呉に至ることができた。
 呉王は求めに応じ、工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あな
はとり)の、四人の婦女を与えた」
 
 この四人の工女については『日本書紀』の中に異伝がふたつ載せられています。
 そのうちのひとつが『日本書紀』の応神天皇四十一年の記事としてある、次のようなもの
です。
 
 「阿知使主らは呉より筑紫に至った。この時、胸形大神(宗像大社の祭神)が工女を求める
神託があったので、兄姫を胸形大神に奉った。すなわち今筑紫にいる御使君(みつかい君)
の始祖である。
 そうして三人の工女をつれえ摂津国の武庫(むこ)まで来たときに天皇が薨去した、
 そこで大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に三人の工女を献上した。この工女たちの子孫が呉衣縫
(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)の始祖である」
 
 さらに、『日本書紀』の雄略天皇十二年の記事には、身狭村主青(むさのすぐりあお。もしくは、
むさのすぐりおう)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉に遣わした、とあり、
雄略天皇十四年の記事には、その身狭村主青らが、呉の使者と漢織・呉織・兄媛・弟媛を
つれて住吉津に帰国した、とあります。
 その後については次のように記されています。
 
 「衣縫の兄媛を大三輪の神に奉る。弟媛を漢衣縫部(あやのきぬぬいべ)とする。漢織・
呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の祖である」
 
 なお、この時身狭村主青らがつれてきた呉の人々を接待する席が設けられ、その責任者に
選ばれたのが根使主だったのです。
 ところが根使主はこの席で大日下王から横領した玉縵を身に付けていたために、かつての
悪事が露見してしまうのです。
 
 さて、『日本書紀』では、「応神紀」、「雄略紀」ともに、呉から日本に来た工女は四人と伝え、
その名も「応神紀」が兄媛・弟媛・呉織・穴織、「雄略紀」が兄媛・弟媛・呉織・漢織と、ほぼ一致
します。
 また兄媛が「応神紀」では宗像大神に、「雄略紀」では三輪山の神に捧げられたとあるのも
似通っています。
 
 そうすると、「応神紀」と「雄略紀」に記された記事は元々同一の伝承だったと思われます。
 では、どちらがより史実に近いのか?と、考えた時に、ひとつの参考になるかもしれない
記事が「雄略紀」には記されています。

 


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