小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

44 出雲フルネと古代出雲の祭祀

2012年11月08日 00時23分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生44 ―出雲フルネと古代出雲の祭祀―

 
 ここで、一度ここまで見てきたことをおさらいしてみましょう。
 とても有名なのに実は『古事記』にしか登場しない大国主命。全国にある
大国主を祀る神社もその祭神の名前はオオナムチなどで、それが別名オオク
ニヌシとなっているのです。
 それではオオクニヌシとはどのように作り出された神なのでしょうか?

 それを探るとっかかりとして、まずは記紀に登場する大和政権と出雲の関
わりを見てみました。
 『日本書紀』の出雲フルネの話、『古事記』のホムチワケの皇子。生まれ
ながら言葉を話すことができなかったホムチワケは、その原因が出雲大神の
祟りだとわかり、出雲を訪れることで言葉が話せるようになりました。それ
からヤマトタケルの出雲タケル殺し。九州のクマソタケル兄弟を征伐したヤ
マトタケルは大和に帰還する途中、出雲で出雲タケルを殺します。その後今
度は東国平定に旅立ち大和に帰ることなく死んでしまうのです。

 この『古事記』のホムチワケ、ヤマトタケルの物語を見ていくと、意外にも
中部地方に関係するエピソードになっていたのでした。
 そこで今度は中部に関係する大和の豪族、鴨氏(鴨県主)を中心に見て行き
ながら、オオクニヌシの別名とされる6神のことを考察していきました。
 そして、鴨県主と行動を共にしてきた渡来人系の秦氏のこと、鴨県主が関係
する摂津三島郡などを巡っていきながら、出雲と尾張が大和の葛城でつながっ
ていることがわかりました。
 さらに、摂津三島郡も葛城とつながっており、物部氏やその同族ともつなが
りがあったのです。物部氏系の氏族たちは中部地方ともつながり、その背景に
は太陽神の信仰がありました。それは伊勢の天照大御神にも関係することでした。


 さて、ここまで見てきたことは、言わば大和政権側から見たものでした。
 そこで、ここからしばらくの間、出雲側から見ていきたいと思います。
 すると、『日本書紀』の記事も内容が少し異なってくるのです。

 『日本書紀』の記事とは、「崇神紀」にある次のものです。

 天皇(10代崇神天皇)は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望まれたの
で、矢田部造の遠祖タケモロスミ(武諸隅)を派遣した。
 出雲の神宝は、出雲臣の遠祖イズモフルネ(出雲振根)が管理をしていたが、
ちょうどその時筑紫に出向いており不在だった。
 それで、イズモフルネの弟イイイリネ(飯入根)が代わりに勅命を承り、弟
のウマシカラヒサとその子のウカヅクネに神宝を献上させた。
 その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、
 「なぜ神宝を渡したのか!」
と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟を殺してしまおうと考え
た。
 フルネは、真剣そっくりの木刀を作らせると、イイイリネを、
 「近頃、止屋の淵に藻がたくさん発生した。それを見に行くのだがお前も一
緒に来てくれるか?」
と、声をかけて誘い出した。
 二人で止屋の淵まで行くと、
 「淵の水は清らかではないか。せっかくだから、ここで一緒に沐浴しよう」
と、フルネが言った。
 二人はともに沐浴をして、先にフルネが水中から上がると弟の太刀を佩き、
剣を抜いた。
 イイイリネは驚いて兄の太刀を手にしたが、これは本物に似せて作った木刀
であったから、フルネに斬り殺されてしまった。
 このことで、人々は、

 八雲たつ イズモタケルが 佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き 
さ身なしにあわれ

と、歌った。
 ウマシカラヒサとウカヅクネは朝廷に参上し、事の次第を伝えた。
 天皇は、キビツヒコ(吉備津彦)とタケヌナカワワケ(武渟川別)を遣わし
てイズモフルネを討たせた。
 この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が
生じた。
 時に丹波の氷上郡の人でヒカトベ(氷香刀辺)が、皇太子イクメノミコト
(活目命=後の11代垂仁天皇)に、次のような訴えをした。
 「私には子がおり、まだこどもなのですが、それがこのようなことを言い
出したのです。

 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御
宝主 山河の水泳る(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主」
 皇太子は天皇にこのことを報告し、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させる
よう勅命を出した。


 崇神天皇が見たいと言った出雲大神の宮にある神宝とは何だったのでしょう
か。『日本書紀』には、「武日照命(タケヒナテルノミコト)が天より持ち来
れる神宝」と記し、タケヒナテルについては、「一に云わく、武夷鳥(タケヒ
ナトリ)という。又云わく、天夷鳥(アメノヒナトリ)という」との注釈を付
けています。

 『古事記』には、
「アメノホヒノミコト(天菩比命)の子タケヒラトリノミコト(武比良鳥命)
は出雲国造らの祖」
と、あり、出雲国造の神賀詞には、天孫降臨の使者として、アメノホヒの子
アメノヒナトリノミコト(天夷鳥命)にフツヌシノミコト(布都怒志命)を副
えて遣わしたとあります。

 つまり、出雲大神の宮にある神宝とは、オオナムチ(オオクニヌシ)ではな
く、アメノヒナトリの神宝だったわけです。

 それから、大和からの使者タケモロスミが出雲に来たとき、フルネは筑紫に
行っていて不在だったとありますが、もしかすると現在の宗像市を含む広範囲
な地域を指していた可能性もあります。
 そうすれば、沖ノ島も含まれるわけで、沖ノ島の宗像大社奥津宮祭祀遺跡と
出雲大社境内遺跡に見られる古代祭祀の共通性から、宗教的な用件で北九州方
面に出かけていたと考えられ、そこから、フルネが古代出雲の信仰に携わって
いたことが想像できます。(第40回「大国主と宗像大社の3女神」)

 そして、注目したいのは、イイイリネを誘い出す時に、
 「止屋の淵の藻を見に行こう」
と、誘っていることです。この藻に古代出雲の信仰が関わっていたのです。


・・・つづく

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