小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

281 ふたたび天目一箇神

2014年11月24日 23時49分15秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生281 ―ふたたび天目一箇神―


 さて、前回に猪飼の地名が多度大社の近くにある、ということに触れましたが、多度
大社は、別宮の一目連神社で天目一箇神を祀り、本宮の多度神社で天津彦根命(アマツ
ヒコネノミコト)を祀っています。これは天目一箇神の父神です。
 アマツヒコネは、スサノオがアマテラスの珠から生みだした5柱の神の1柱ですが、
『古事記』には、

 「凡川内国造、額田部湯坐連、木国造、倭田中直、山代国造、馬來田国造、道尻岐閇国造、
周芳国造、倭淹知造、高市県主、蒲生稲寸、三枝部造らの祖」

と、あります。
 『古事記』に記されるアマツヒコネを祖とする氏族の中に、蒲生稲寸(がもうのいなき)
が見えますが、滋賀県東近江市鋳物師町に鎮座する竹田神社はアマツヒコネと天目一箇神を
祀っています。
 実はこの地は2006年に東近江市と合併するまで(ちなみに東近江市は2005年に誕生)、
蒲生郡蒲生町鋳物師でした。
 鋳物師という地名はいかにも鍛冶に関係すると言われる天一目箇神を連想させるものです
が、この周辺には朝日野の地名もあります。
 さらに、『青銅の神々の足跡』によれば、この辺りには菅田や桐原の地名もあるといいます。
 菅田、桐原についてですが。
 竹田神社は、ここが式内社菅田神社であると主張していますが、近江八幡市にある菅田神社
も、ここが式内社菅田神社であると主張しているのです。
 こちらの菅田神社の鎮座する地は、古くは蒲生郡桐原郷だったのです。
 そして、この神社の祭神も天目一命(天目一箇神)なのです。

 伊勢津彦の伝承が播磨にも存在するように、天目一箇神の祭祀も播磨に存在します。
 播磨を流れる杉原川は加古川の支流ですが、西脇市で加古川と合流します。そこから杉原川
を遡っていきますと、川沿いに、天目一箇神社や、天目一箇神の妻とされる道主日女命を祀る
荒田神社、二宮荒田神社などが鎮座し、さらに上流に遡っていった多可郡多可町加美区にふたつ
の青玉神社が鎮座します。
 ひとつは、杉原川の東側、山寄上に鎮座する青玉神社で、祭神は天目一箇命と五百箇磐石命
です。
 もうひとつは、杉原川の西側、鳥羽の青玉神社で、こちらは天戸間見命と大歳御祖神ですが、
天戸間見命は天目一箇神と同じくアマツヒコネの御子神と伝えられています。
 しかも、鳥羽の青玉神社は、式内社の天目一神社は当地であると主張し、天戸間見命は天目
一箇命のことだとしているのです。
 つまり、ふたつの青玉神社はともの天目一箇神を祭神としていることになるわけですが、名前
がともに青玉神社とあるのはどういう由来なのでしょうか。
 当地の伝承によれば、天戸間見命がいつも青色の宝珠を愛好していたのでこの名がついたそう
なのですが、青といえば、朝日郎が官軍を迎え撃った青墓も地名にも青という言葉が含まれている
のは偶然でしょうか。

その歌はアカン

2014年11月24日 00時26分07秒 | 日記
2012年3月25日(日)(3歳12か月)


 もうすぐ春奈の4歳の誕生日なので、僕の両親がイタリアン
レストランで誕生日会をしてくれることになった。

 レストランの駐車場で予約していた時間まで待っていると、
突然春奈が、

 「あほがみーる ブタのけーつ♪」

と、歌いはじめた。

 実は少し前から、一体どこで覚えたのやらこの歌を歌うこと
があった。

 その都度みんたが、

 「そんな歌を外で歌ったらアカンよ」

とか、

 「おばあちゃんの前で歌ったらビックリされるで」

と、諭していたけど、今、春奈、おばあちゃんの前で歌っち
まったよ。

 ところが僕の母親は、

 「今の子もその歌を歌うんやねえ」

と、笑う。

 春奈が赤ん坊の時からそうだったけど、孫がすることは
何でも可愛いようだ。


280 朝日郎の伝承

2014年11月24日 00時20分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生280 ―朝日郎の伝承―


 雄略天皇の時世で行われたことのひとつに伊勢の平定があります。

「雄略18年の八月、物部莵代宿禰(もののべのうしろのすくね)と物部目連(もののべの
めのむらじ)を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討たせた。
 朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重の鎧も貫く
ほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙したままだった。  
 そこで、物部目連がみずから太刀を持ち、筑紫の聞物部大斧手(きくのもののべの
おおおのて)が楯を持ってふたりで攻めこんだ。
 朝日郎は遠目にふたりが攻めてくるのを見て、矢を放つと、矢は大斧手の楯と冑を貫き、
大斧手の体に一寸ほど突き刺さった。
 大斧手はそれでも楯で物部目連を隠し守り、目連は朝日郎を捕えて斬り殺した」

 この伝承もこれまでに何度か紹介しましたし、「伊勢国風土記逸文」の伊勢津彦の伝承
も並べて紹介してきました。
 こちらの方は、神武天皇の時代のこととし、伊勢津彦を攻めるのも天日別命となって
います。
 伊勢津彦が、伊勢に限定された神ではなく、『播磨国風土記』にも、揖保郡の条に登場
します。
 ところが、朝日郎も播磨と関係があるようなのです。正確に言えば天一目箇神と関係が
あるようなのです。
 そもそも朝日郎とは、伊勢国朝明郡(あさけ郡)にいた勢力をひとりの人物に集約した
ものであろうなどと言われていますが、朝日郎を討った功績により、物部目連は猪飼部を
賜った、と『日本書紀』にあります。
 これは、朝日郎との戦いで不甲斐なさを露呈した物部菟代宿禰に激怒した雄略天皇が、
菟代宿禰の所有していた猪飼部を召し上げて目連に与えたものなのですが、『日本書紀』の
卜部本が猪飼部と記すものが、伊勢本や熱田本では猪名部とあります。
 猪名部(いなべ)ならば伊勢国員弁郡(いなべ郡)のことか、あるいはそれに関係する
ものなのかもしれません。
 日本古典文学大系『日本書紀』の頭注によれば、多度神社の南に猪飼の地名があるといい
ます。
 多度大社の別宮の一目連神社は天目一箇神を祀っていますが、谷川健一(『青銅の神々の
足跡』)は、一目連を物部目連から来たもの、と考察しています。
 谷川健一がこの著作の中で展開する持論は大変興味深いものなので、これを軸にして話を
進めていきたいと思います。

 下野国芳賀郡南高岡の鹿島神社の社伝によれば、同じ南高岡にある仏性寺に生まれた勝道
上人は、垂仁天皇の御子の池速別皇子とあるそうです。
 鹿島神社の社伝には、東国に下った池速別皇子は病のために片目を失ったので都に帰ること
がかなわず、この地に留まった、とあることが『青銅の神々の足跡』の中に書かれていますが、
これは天目一箇神がその名から片目の神であるといわれることと重なります。

 またこの皇子は『新撰姓氏録』には息速別皇子と記されますが、息速別皇子が幼少の頃、
垂仁天皇が皇子のために宮室を伊賀国阿保村に築き、封邑して、その子孫が允恭天皇の時代に
阿保君の姓を賜わったとあります。
 朝日郎が皇軍を迎え撃ったとある青墓もこの阿保に含まれていた、と谷川健一は考えてい
ます。

 池速別皇子は『古事記』では伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)と記され、

 「伊許婆夜和気命は、沙本の穴太部別の始祖」

とあります。
 沙本は奈良市の佐保のことで、この地には阿保山の地名があるといいます。ここには不退寺が
ありますが、『地名辞書』には、

 「阿保あるいは穴太に作る。もと伊賀国の地名なり。沙本すなわち佐保なれば彼国よりここに
移れる阿保氏ありて阿保山の号は出でたるなり」

とあり、このことから、伊賀国阿保はそれ以前には穴太(あなほ)であった、と考えられるのです。
 不退寺は、元は平城天皇が隠棲した邸宅で、その子阿保親王、さらにその子の在原業平が住み、
在原業平が寺院にしたと伝えられることから、別名を業平寺といいますが、在原寺とも称してい
ました。
 そして、『山辺郡誌』によれば奈良県天理市にも在原寺が存在したというのです。
 こちらの在原寺は明治時代に廃寺となり、現在、在原寺のあった場所には在原神社がありますが、
元の在原寺は平尾山に建てられ、在原神社の鎮座する場所に移された、とされます。
 ところが、平尾は市辺之押歯王の邸宅があり、その子、仁賢天王の石上広高宮の比定地でもある
のです。