小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

新年のご挨拶

2014年11月18日 01時20分14秒 | 日記
2012年1月2日(月)(3歳9か月)


 家族とみんなと、あとキラちゃんもつれて僕の
実家に行った。

 毎年正月はうちの実家に2泊ほどするのだけど、
今年は、日帰りである。と、言うのもうちの両親が
2人揃って去年の夏に入院したから、泊まりだと
いろいろ大変だろうと思ったからである。


 春奈が、家の前でおばあちゃんと遊んでいると、
ご近所のおばちゃんが通りがかった。

 僕はそれを家の中から窓越しに見ている。

 おばちゃんが、

 「春奈ちゃん来てんの?」

と、声をかけると、春奈が、

 「あけましておめでとうございます」

と、挨拶をした。

 たぶん 少し驚いた。

 別に、教えていないのにちゃんと言えるのか。

 たぶん、昨日今日と、みんなが、「明けまして
おめでとうございます」と、言っているのを聞いて、
そう言えばいいのだ、と思っているにちがいない。

 ホームステイなんかでも、ホスト家族がこういう
時にこう言っている、というのを見つけて自分も言っ
てみる、ということがある。

 きっと春奈もそれと同じことをしてるのだろう。


278 葛城の一言主神

2014年11月18日 01時17分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生278 ―葛城の一言主神―


 もう一度、葛城氏本宗の滅亡についておさらいしてみましょう。
 16代仁徳天皇は皇后に葛城曾都毘古の娘、石之日売命を迎え、17代履中天皇、
墨江中津王、18代反正天皇、19代允恭天皇が生まれました。
 仁徳天皇の跡を継いだ履中天皇も履中天皇も、葛城葦田宿禰の娘黒比売を皇后に
迎えて、市辺之押歯王、御馬王、青海郎女が生まれます。
 しかし、葦田宿禰は允恭天皇によって滅ぼされ、もう一流あった葛城氏の本宗、
葛城円大臣も、允恭天皇の子大長谷皇子(雄略天皇)によって滅ぼされてしまい
ます。
 さらに、履中天皇と葛城黒比売との間に生まれた市辺之押歯王も、その弟の御馬
皇子も、大長谷皇子に殺害されてしまい、市辺之押歯王のふたりの皇子、オケ王と
ヲケ王は播磨に逃げました。

 このように、允恭、雄略の、親子の天皇によって葛城氏の本宗は滅ぼされ、葛城氏
の血を濃くひく皇族も殺されてしまったのです。
 これらの後、雄略天皇は葛城の地を直接支配しようとしたようですが、『古事記』
と『日本書紀』には、雄略天皇と葛城の神、一言主神(ヒトコトヌシの神)との出会い
が記されています。

(『古事記』)
 「天皇が葛城山に登られた時、大勢の宮人たちに赤い紐をつけた青摺りの服を着せて
お供をさせました。
 その時、向かいの山の尾根より山頂に目指して登る一行がありました。その一行は
天皇の行幸とまったく同じで、人々の格好も天皇の宮人たちとよく似ていました。
 天皇はそれを見て、
 「この大和の国に吾をおいて大王はいないのに誰がそのように行くのか?」
と、その一行に家臣を遣わして問いました。
 すると、相手の返答もまた天皇の質問とまったく同じことを問いかけるものだった
ので天皇は激怒し、矢を弓につがえ、また宮人たちも矢を弓につがえました。
 すると、向こうも同じように矢を弓につがえたので、また天皇が、
 「その方の名を名乗れ。お互いに名を名乗ってから矢を放とう」
と、問いかけますと、相手は答えました。
 「吾が先に問われたので先に名乗ろう。吾は凶事も吉事も一言で答える神、葛城一言
主之大神である」
 これに天皇は畏れかしこまり、
 「恐れ多いことでございます、わが大神。まさかお姿を現しになられるとは」
と、おっしゃられ、大御刀や弓矢をはじめ、宮人たちの衣裳も脱がせて献上しました。
 一言主大神はこの献上物を受け取られ、天皇が帰られる時には長谷の山の口まで見送り
になられました。

(『日本書紀』)
 四年の二月、天皇は葛城山で狩りをされた。その時、谷をやって来る人物があった。その
容姿は天皇にそっくりであった。
 天皇はそれが神であると理解したが、あえて、
 「いずこの君ぞ?」
と、問いかけた。
 すると、
 「この世に現れた神である。まずは大君が名を名乗れ。それから吾も名乗ろう」
と、言ったので、天皇が、
 「朕は幼武尊(ワカタケルノミコト)なり」
と、答えると、神は、
 「一言主神なり」
と、答えた。
 そうして天皇と一言主神は、ともに馬を並べて狩りをした。
 やがて日が暮れたので狩りをやめると、神は来目川まで天皇を送った。