小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

サンタは何に乗ってやって来る?

2014年11月01日 02時40分05秒 | 日記
(つづき)

 クリスマスプレゼントのおかしの靴からおかしを取り出して
広げてみたり、おまけのティアラを付けてみたり。

 春奈にはなかなかのおもちゃになったようだ。

 そんなことをして遊んでいると思っていたら、突然、

 「サンタさん何で来るんかなあ?車?」

と、春奈が訊いてきたので、

 「ソリやろ」

と、答えた。

 昨夜のりえの会話と逆やなあ。

 きのうの夜、りえが、「サンタさん、何で来るん?ソリ?」と、
訊いてきた時には、「車とちゃうか?」と答えた。

 その会話を聞いていたわけじゃないのに(その時春奈はもう
寝ていたから)、春奈の口から「車?」と訊いてきたのには
ちょっと驚いた。

 でも、春奈にとって、知っている乗り物の種類はまだ限られて
いるから、思い浮かぶのが車だっただけなのかも。

 小5のりえには、サンタが本当にいることを信じていてほしい
から「車とちゃう?」なんて現実的な答えを言ったけど、りえと
違って、3歳の春奈にはまだ白い髭のおじいさんは信じさせて
あげないといけないし、と思って今回は、「ソリやろ」って答えた。

 さて、僕の答えを聞いた春奈が、みんたのところに行って、

 「ママだけに問題です。サンタさんは何に乗ってくるでしょう?」

と、言っていた。

270 三輪山と倭氏

2014年11月01日 02時35分56秒 | 多言語
大国主の誕生270 ―三輪山と倭氏―


 葛城の氏族で三輪山の大物主神と関係のある氏族としては、鴨氏(鴨君)が挙げられ
ます。
 10代崇神天皇の時代に大物主の子孫であるオオタタネコが大物主の祭祀を司るよう
になりましたが、『古事記』はオオタタネコの子孫が三輪君と鴨君だ、と記しています。
 『日本書紀』の「神代紀」で同様のことが書かれています。
 それは、大国主の前に海を照らしながらやって来る神のことが描かれている場面です。
 その神は、大国主に、
 「吾は汝の幸魂奇魂なり」
と名乗り、さらに、
 「大和の御諸山に住もうと望む」
と、言いますが、ここで『日本書紀』は、

 「これ、大三輪の神なり。この神の子は、甘茂君(鴨君)等、大三輪君等、また姫踏鞴
五十鈴姫命なり」

と、記しています。
 ただし、同じ『日本書紀』が「綏靖紀」以降では、姫踏鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズ
ヒメ)を事代主の子としているのです。
 しかし、奇妙なことに、一方の『古事記』は、比売多々良伊須気余理比売(ヒメタタラ
イスケヨリヒメ)を、これは『日本書紀』の姫踏鞴五十鈴姫のことですが、三輪君、鴨君と
同じく大物主の子としながら、大国主の前に現れた神を、

 「これは御諸山に坐す神なり」

と、記し、大物主だと明記していないのです。
 御諸山は三輪山のことで、こちらの方が古い名称だと言われていますが、『日本書紀』も
『古事記』も大物主だとははっきりと言っていないのです。
 ここに、三輪氏と鴨氏のそれぞれの始祖伝承が融合した形跡が見られる、という研究者も
います。

 それから、大物主という神について語られる時によく言われることとして、なぜ祭祀者
(オオタタネコ)を大和以外の地から連れてきたのか、というものがあります。
 その解答はさて置き、実は、大物主同様に大和にとって重要な神である倭大国魂神の
祭祀氏族の倭氏も大和以外の地から来たとされます。

 倭氏の始祖は、神武天皇が大和を目指して船で移動している時に、海上をやって来て
道案内をした神である、と伝えられています。
 『古事記』では槗根津日子(サオネツヒコ)、『日本書紀』では、椎根津彦(シイネツヒコ)
と記されるこの神は海洋性に富んだ存在です。
 『古事記』では、サオネツヒコは神武天皇の前に、亀の背に乗り釣りをしながらやって来た、
と描かれています。
 事代主も、『古事記』の中では、タケミカヅチが大国主に国譲りを迫った時、釣りに出かけ
ていて不在だった、と記されており、このことからも事代主は「えべっさん」の愛称で知ら
れる戎神と同化されたりもしますが、サオネツヒコもこのイメージと重なります。
 『日本書紀』では、シイネツヒコ(サオネツヒコ)は、神武天皇の大和平定にも活躍し、
倭国造
に任じられた、とあります。

 倭氏の始祖伝承に海洋性が見られることは単なる伝承ではなさそうです。
 淡路島には倭大国魂神社が存在しますし、『日本三代実録』には、

 「阿波国名方郡人従八位上海直豊宗。外少初位下海直千常等同族七人賜姓大和連」

とあり、阿波国に倭氏の一族がいたことがわかります。

 また、履中天皇の弟スミノエノナカツミコ(『古事記』では墨江中王、『日本書紀』では
住吉仲皇子と表記)の反乱に倭直吾子籠が加担したことが『日本書紀』に記されていますが、
スミノエノナカツミコはその名から、難波の住之江(現在の大阪市住吉区や住之江区で、
当時は今よりも海が迫っていました)にゆかりのある人物だと推測されます。

 ただ、『古事記』や『日本書紀』と異なる伝承も残されています。
 『海部氏勘注系図』と『先代旧辞本紀』には、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテル
クニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)の孫の、天村雲神と丹波の伊加
里姫命との間に生まれた倭宿禰命という神が倭国造の祖とあります。

 さて、サオネツヒコ(シイネツヒコ)の子孫は倭氏だけではなかったようです。
 『新撰姓氏録』には、

「青海首 椎根津彦の後なり」

と、あり、青海氏もシイネツヒコの子孫だとあるのです。

青海と言えば、履中天皇の皇女で、市辺之押歯王の妹、そしてオケノミコ、ヲケノミコの
二皇子の叔母にあたる飯豊郎女のまたの名が青海郎女(アオミノイラツメ)です。