小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

オカマちゃんネンネ

2014年11月17日 01時26分17秒 | 日記
2014年1月1日(日)(3歳9か月)


 元旦である。

 それで今日は釜休めでお風呂を沸かさない、
と、みんたが言うと、春奈が、

 「なんでお風呂入れへんの?」

と、訊く。

「釜休めやから。お風呂のお釜もお休みする
ねんで」

と、言われた春奈がされに質問した。

 「なんでオカマちゃんネンネするん?」

 「休む」を「寝る」と捉えるかよ。

 たしかに、日本語で眠ることを「休む」とは
言うけど。

277 大物主と事代主

2014年11月17日 01時16分42秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生277 ―大物主と事代主―


 いささか御諸山の神と大物主について時間を割きすぎた感があるので、最後に、神武
天皇の皇后について、『古事記』が大物主の娘、『日本書紀』が事代主の娘とする、ふたつ
の異なった伝承について考察して次に行きたいと思います。

 はたして、どちらの伝承の方が本来のものなのか。
 これについては研究者の間でも意見の分かれるところで、ここでは松前健(『日本神話
の形成』)と三谷栄一(『日本神話の基盤』)を勝手にそれぞれの代表として採り上げて
みます。
 『古事記』も『日本書紀』も、神武皇后の母は摂津国三島の、三島の溝咋(ミゾクイ。
もしくはミゾクイミミ)としています。大阪府茨木市の溝咋神社がミゾクイの本拠とされ
ている地です。

 松前健は、摂津には三輪氏族がいたらしい形跡が見られないので三島溝咋と三輪氏は結び
つかない、として、イスケヨリビメの伝承を後世のものである、と考察しています。

 これに対し、三谷栄一は溝咋神社の祭祀氏族を三輪氏族だと考えています。
 『新撰姓氏録』の摂津国地祇の条に、鴨祝(かものはふり)と神人(みわびと)、神直
(みわのあたい)という氏族の名が見られ、神人と神直はともに「大国主命の五世の孫、
大田田根子の後なり」とあります。つまりは三輪君と同族ということになります。
 三谷栄一は、摂津国嶋上郡の式内社に三島鴨神社と溝咋神社があることから、三島鴨神社
は鴨氏が祭祀し、溝咋神社は神人、神直が祭祀したと考察しているのです。

 三谷栄一は、元々神武天皇の皇后は大物主の娘であるという伝承が先にあり、それを蘇我氏
が事代主に替えたのだ、と考察します。
 蘇我氏は葛城氏の本宗が滅亡した後、葛城の地を蚕食していき、その際に葛城で祭祀されて
いる事代主を大和の主要な神に格上げし、さらに自身の拠点でも祭祀するようになった、それ
が高市の高市御坐鴨事代主神社である、というのが三谷栄一の見解です。

 しかし、これにも注意が必要かもしれません。
 なぜなら、高市の事代主について、前出の松前健(『日本神話の形成』)の指摘があるから
です。
 蘇我氏の拠点のひとつに明日香の地がありますが、明日香にも事代主を祀る飛鳥坐神社が
存在します。
 松前健は、この飛鳥坐神社の祭祀氏族とされる飛鳥直が『新撰姓氏録』には天神の部に入れ
られていることに注目し、この事代主は天神であり鴨系の事代主とは別神だとするのです。

 『日本書紀』では、事代主が神功皇后に神託をしていますが、この時の名前は、於天事代
於虚事代玉籤入彦厳之事代主神です。
 『古事記』の国譲り神話での事代主や鴨で祭祀されている事代主はふつう八重事代主と呼ばれ
ます。
 松前健は、この厳之事代主神と八重事代主神を別神と考え、厳之事代主神を海神系の神とする
のです。

 事代主という名の神が二柱いる、という見解は井上辰夫(『古代王権と語部』)もしています。

 事代主は宮中行事にも登場します。
 鎮魂祭に登場する8柱の神の中に事代主の名が見えるし、天皇の即位式である践祚大嘗祭の
10柱の神の中にも事代主の名を見つけることができるのである。
 井上辰夫なども、宮中行事にも登場する事代主を、国譲り神話の事代主とは別神で、この祭典に
神宣ないし呪言する神だとしているのです。

 井上辰夫の解釈は松前健も同様で、事代主とは固有名詞ではなく神託をくだす神という意味だと
捉えています。

 では、最後の最後に、オケ王とヲケ王の二皇子が身を隠した土地、志深(しじみ)の村の伝承を
見てみたいと思います。
 二皇子が身を寄せた先について、『播磨国風土記』に、志深の村の首、伊等尾(いとみ)とあり、
『日本書紀』には播磨国明石郡の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の忍海部造細目(おしぬ
みべのみやつこほそめ)とあります。
 二皇子がここに身を寄せたのは、忍海部氏の本拠が葛城であったためだと思われるので、この地
には葛城の神が祀られていると考えられるのです。
 ところが、『播磨国風土記』には次のように記されているのです。

 「志深の里。三坂に坐す神は八戸挂須御諸命(ヤトカカスミモロノミコト)なり。大物主葦原志許
(オオモノヌシアシハラシコ)、国かためしし以後、天より三坂の岑に下りましき」

 八戸挂須御諸命はその名前に御諸が含まれていますし、大物主葦原志許(オオモノヌシアシハラ
シコ)は、大物主と、大物主と同神ともされる大国主の別名アシハラシコオを合体させたような名前
です。
 このことから考えると、葛城の氏族はやはり御諸山の神を祭祀していて、それは大国御魂神だった
のではないでしょうか。しかも、それが大物主と同化していたその名残のような気がします。