小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

鹿ちゃん轢くでー

2014年11月11日 01時38分23秒 | 日記
2011年12月30日(金)(3歳9か月)

 今日で春奈3歳9か月。



 朝はみんなで大掃除の続き。

 もちろん、ステイ中のキラちゃんにも手伝ってもらう。

 と、言うかなかなかの戦力である。

 今朝は子供たちに庭の掃除をしてもらった。





 とりえあずあさのうちで大掃除は切り上げて、母方のご先祖が
眠る大和小泉へお墓参りに、キラちゃんもつれて家族みんなで行く。

 それが終わると、奈良公園に足を延ばすことにした。

 せっかく日本に来ているのに観光も少しは連れて行ってあげないと。

 2年前にマレーシアのゲストを連れて東大寺に来た時は、春奈が
鹿にびびりまくって、「こわいこわい」を連発していた。

 今回はどうだろう?

 東大寺の駐車場に車を停めて南大門の方に出ると、やっぱりこわ
がってはいるけど、2年前ほどのものでもない。

 一方、キラちゃんは動物が大好きな子で、鹿にも大喜びでさわり
まくっている。

 南大門から大仏殿を参拝し、二月堂へ。

 ↓ 後ろに見えるのが二月堂



 ↓ 二月堂の石段を上る春奈



 ちなみに三月堂はただ今改修かなんかで入れない。

 いつもなら、ここからは、手向山八幡宮を通って春日大社へと抜け
るのだけど、今日は四月堂の横を通って南大門に戻るコースを取った。

 四月堂をすぎたところで、鹿が数頭いた。

 ゆうきやりえ、キラちゃんがまた鹿の相手をしていると、春奈が
鹿に向かってベビーカーを押しながら、

 「シカちゃん、轢くでー」

と、鹿を威嚇する。

 何でそんなに強気やねん?

 って言うか自分のベビーカーを武器にするんじゃないよ。

 けど、もっとたくさんの鹿がいるとどうなるんやろう?

 そう思っていたら、南大門まで戻った時に大勢の鹿に囲まれると、
また、

 「こわいこわい」

と、ビビリまくっていた。

 やっぱり強気なのは鹿の数が少ない時だけだったか。


 その後は、なら町を散策して帰路に着く。

276 葛城に取り込まれたオオタタネコ

2014年11月11日 01時29分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生276 ―葛城に取り込まれたオオタタネコ―


 葛城でも大国御魂神が信仰されていたらしいことは、この神が御歳神と同じく大年神の
御子神であり、同母兄妹に摂津三島と縁のある韓神がいることからもうかがうことができ
ます。
 また、長尾神社に残る、御諸山のオロチの尾がこの地に至った、という伝承、それに、
高鴨神社の祭神アヂシキタカヒコネが、
 「み谷 二渡らす 阿治志貴高日子根神」
と、歌われ、大蛇を思わせることから、蛇神の信仰があったことがうかがわれ、御諸山の
神と重なるのです。

 大国御魂神が大物主に替わり、鴨氏も大物主の子孫となったことで、葛城にも大物主の
信仰の片鱗が残されることになったのです。

 『古事記』は、オオタタネコは大物主と活玉依毘売との間に生まれた子の子孫とし、イス
ケヨリビメは大物主とセヤタタラヒメとの間に生まれた、とします。
 『日本書紀』の方は、オオタタネコはやはり大物主と活玉依媛の子とし、イスズヨリヒメ
(イスケヨリビメ)は事代主と玉櫛媛との間に生まれた、とします。
 オオタタネコについては、『古事記』が大物主とイクタマヨリビメの子孫で『日本書紀』
は大物主とイクタマヨリビメの子という違いはあっても、同じ伝承を載せていることになり
ます。
 ただ、『日本書紀』は異伝も載せており、それによればオオタタネコは大物主と奇日方天
日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘との間に生まれた、とあるのです。

 さて、イスケヨリビメ(イスズヒメ)については、『古事記』と『日本書紀』では大きく
異なります。
 他方、『先代旧辞本紀』は、ヒメタタライスズヒメを事代主と活玉依姫との間に生まれた
とし、イスズヒメの他に天日方奇日方命(アマツヒカタクスヒカタノミコト)が生れたとあ
ります。
 奇日方天日方武茅渟祇と天日方奇日方命。茅渟祇というのはオオタタネコのいた陶邑があった
地名を古くは茅渟といったので、この名前は茅渟の者という意味になり、本来の名前にあたる
部分は奇日方天日方となります。そうすると、『先代旧辞本紀』の天日方奇日方とは、「奇日方」
と「天日方」が入れ替わっただけのものなのです。
 イスズヨリヒメの父を事代主とするのは葛城の伝承ですが、オオタタネコの伝承と重なり合う
ことになります。
 しかも、イスズヨリヒメとオオタタネコの母の名がイクタマヨリビメと同じなのです。

 実際、オオタタネコは葛城にも取り込まれているのです。
 それが、オオタタネコを祭神とする御所市の多太神社(おいだ神社)です。多太は「たた」と
読むことができ、つまりオオタタネコの「タタ」です。

 同じく兵庫県川西市の多太神社も古くはオオタタネコを祀っていたといいます。
 川西市の多太神社は大和の多太神社と同じ字を書きますが、こちらは「ただ神社」で、しかし
同市にある多田神社と区別するために「たぶと神社」とも呼ばれているそうです。
 こちらの多太神社の祭神は、イザナキ、イザナミ、ヤマトタケル、仁徳天皇の4柱になって
いますが、言い伝えによると、先に紹介したようにオオタタネコと大国主を祀っていたそうで、
神直(みわのあたい)による創建だそうです。

 さて、『先代旧辞本紀』は、オオタタネコの系譜についても伝えています。
 それによれば、まずスサノオがおり、その御子が、大己貴神(オオナムチの神)、またの名を
大国主神、または大物主、とあり、その御子が事代主で、三世の孫(事代主の子)が天日方奇日
方命だというのです。
 そして、九世の孫が大田田根子(オオタタネコ)で、オオタタネコが出雲の神門臣の娘、美気姫
を妻にして生まれたのが、大御気持命(十世の孫)。
 大御気持命が出雲鞍山祇姫(イズモノクラヤマツミヒメ)を妻にして生まれたのが、大鴨積命と
大友主命と田田彦命。
 この大鴨積命が賀茂君(鴨君)の姓を賜り、大友主命が大神君(三輪君)の姓を賜り、田田彦命
が神部直と大神部直の姓を賜わった、とあるのです。

 鴨君と三輪君がオオタタネコの子孫というのは『古事記』とも一致します。
 ただ、ここでは、大物主とオオタタネコの間に事代主が挟まるのです。
 大物主と大国主が同神というのは『日本書紀』や『出雲国造神賀詞』にも伝えられていることで、
事代主が大国主の御子神であることも、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国造神賀詞』の伝える
ところですが、オオタタネコが事代主の系譜に組み込まれているのが『先代旧辞本紀』の特徴で、
これは葛城勢力圏にオオタタネコが組み込まれた痕跡と言えるでしょう。