小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

カレーみたいなの食べたから

2014年11月10日 02時10分10秒 | 日記
2011年12月29日(木)(3歳8か月)


 風呂に入っている時に、りえが、春奈の
お腹をさすりながら、

 「おなか大きいなあ。おなか何が入って
るん?」

と、訊くと、春奈が答えた。

 「カレーみたいなん食べたから」

 それはハヤシライス。

 今日の夕飯だ。

 カレーみたいなん、っていうのは間違っては
いないけど・・・。

 まだハヤシライスという言葉はインプットされ
ていないようだ。

 その代り、「〇〇のようなもの」という説明は
できるようになっている。

 でも、食べてから大分と時間が経っている。

 おなかが大きいのは、単純に幼児の体型だから
だよ。そのうちスリムになるよ。

 それは春奈は、自分のお腹が大きいのは食べた
ものが詰まっているから、と思っている。 

 食べたものはそのままお腹の中に残る、と考えて
いるのかね。

275 国魂神から大物主へ

2014年11月10日 01時47分04秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生275 ―国魂神から大物主―


 阿部眞司(『大物主伝承論』)をはじめ、御諸山の名称の方が古く三輪山の
名称の方が新しい、とする考察があります。
 では、いつ三輪山という名称に替わったかと言えば、三輪氏が大物主の祭祀を
行うようになってからだ、と指摘します。
 その三輪氏は大阪府からやって来たオオタタネコを始祖にしますから、三輪氏
は大和土着の氏族ではなく外来の氏族だったことになります。
 阿部眞司の考察も、これにのっとったもので、さらに、オオタタネコを長とする
陶邑の、祭器を中心とする陶器を作っていた集団は、同時に疫病神を鎮圧する呪能を
持った巫覡集団でもあった、とする益田勝美の説を踏襲して、御諸山が三輪山に
なっていったのは三輪氏らが御諸山の神と疫病神の習合した神を祀る
ようになってからであろう、とします。
 当然、陶邑の陶器製造集団も自分たちの神を持っていたに違いないはずで、その
神も集合されて大物主という神が生まれた、というわけです。

 もっとも、三輪氏を大和土着の氏族ととらえる説もあります。
 三谷栄一(『日本神話の基盤)』)もそのひとりで、三輪氏も鴨氏も大和土着の
氏族であり、大和の前王朝が河内王朝に征服された後、河内王朝の強制によるものか、
あるいは自ら新天地を求めて移住したのかわからないけども、河内平野の開墾に従事
し、その中でお互い協力しあう形で大和に信仰の復権を果たした、と三谷栄一は考え
ます。

 ここでひとつ注釈が必要となるのは「河内王朝」という概念です。
 戦後、日本の古代史を研究するうえで、大和政権は河内(大阪府)からやって来て、
それまで大和に存在した王朝を征服したもの、とする河内王朝説が誕生しました。
 河内王朝説は多くの研究者たちから支持され、それぞれが、古市古墳群や百舌鳥
古墳群といった巨大古墳群が大阪府に存在すること、記紀神話では神武天皇や応神
天皇が大和の外で生まれた後に武力によって大和入りして即位していること、奈良県
と大阪府の地名などからも裏付けられるとし、またそれらが合理性を持った説であった
ので、学界の主流となった、と言ってもよいでしょう。
 ただし、現在では河内王朝論は疑問視され、支持力を失っているのが現状です。
 と、言うのも、大和を凌駕する力を持った勢力が存在したと言うには、大阪府からは、
奈良県の鍵唐古遺跡や纏向遺跡に匹敵する遺跡が発見されていないから
です。

 さて、ここで『日本書紀』に記された大物主の祭祀の始まりを思い出してみましょう。
 10代崇神天皇の時代に疫病が流行り、国が乱れ、その原因が、天照大神と倭大国魂神
をともに宮中で祀っていたため、ということになり、別々に祀ることになったけどもそれ
でも国の乱れは治まらなかった、とあります。
 結果、大物主が「吾の祭祀を行えば国は治まる」と告げたのでオオタタネコに祭祀させ、
また市磯長尾市に倭大国魂神を祀らせた、と記されていますが、天照大神の方は、大和
から近江、美濃を経て伊勢で祀られたことになったのが、次の11代垂仁天皇の時代のこと
と『日本書紀』は記します。

 『日本書紀』では、宮中で祀られていたのが天照大神と倭大国魂神と明記していますが、
これらの神の成立はもう少し後のこととされますから、この時祀られていたのは、太陽神と
国魂神だったと考えられるのです。
 そして、『日本書紀』の記事をそのまま信用するならば、国魂神は、大和の天理市に
遷して、太陽神は大和の外に遷した、ということになるのです。
 替わって祭祀された太陽神が大物主だったのです。
 大物主が太陽神だったということについては、これまでに散々採り上げてきたのでここでは
省略しますが、もう一方の国魂神は倭氏が祭祀を司る倭大国魂神となったわけで、それ以前は
大国御魂神(オオクニミタマの神)だった、と考えるのです。
 御諸山で祀られていたこの神が、その前後に宮中でも祀られていたのかよくわかりませんが、
御諸山から切り離され、倭大国魂神として大倭神社で祀られるようになったのでしょう。

 大国御魂神、倭大国魂神、どちらも国魂神ですが、これは国土そのものを神として祀るもの
です。
 国土の神を遷し、代わりに大物主を三輪山に祀った理由。
 それは、『古事記』や『日本書紀』に記された疫病の大流行だったと思われます。
 疫病の流行で国が乱れた、と記されていますが、『魏志』の倭人伝によれば、卑弥呼登場の
前夜の日本も「倭国大乱」の状態であった、と記されています。
この時の倭国大乱の時期は『魏志』によれば後漢朝の桓帝と霊帝の時代(146年から188年
の間)にあたりますが、『後漢書』には、
 桓帝元嘉元年(151年)正月。京都大疫。
 延熹四年(161年)正月。大疫。
 延熹九年(166年)春正月己酉。詔日。比歳不登。民多飢窮。又有水早疾疫之困。
 霊帝建寧四年(171年)三月。大疫。
 熹平二年(173年)正月。大疫。
 光和二年(179年)春。大疫。
 光和五年(182年)二月。大疫。
 中平二年(185年)正月。大疫。
とあり、中国で疫病が短い周期で大流行したことを記録しています。
 さらにこの疫病が朝鮮半島にも広がって混乱を招いたことも記されていますから、これが日本
列島にも入り込んだ可能性は十分にあり得るのです。
 それにより、オオタタネコが大和に呼ばれ、疫病の流行を治めるために大物主の祭祀を行う
ようになったのでしょう。