ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

話すこと

2010-01-16 00:44:52 | Weblog
今日は、なかなかよく動いた1日だった。すでに午前中の記憶がない。

最近、再認識しているのだけど、
私にとって、誰かと話すということは、とても重要なことだ。

言葉を覚え始めたころから、我が家には「主張の時間」というのがあった。
テレビの前に立たされて、
その日にあったこと、それについてどう思ったのかということを両親に向かって語る。
話がまとまらなくても、怒られたりはしない。
ただ、目をそらすと注意される。話している相手の目を見ろ、と言われる。
話し終わると、
そう感じた後に、なぜ行動としてその選択をしたのか、という点について語る。

言いたいことがうまく言えなくて、自分に混乱して、いつも泣いていた記憶があるし、
伝わらなくて癇癪を起こしたし、あまり楽しい時間ではなかった。
何度もイヤだと言った記憶もある。
ただ、人と話すことと、伝えようと努力すること、これは身に染み付いたと思う。

その後、中国に留学して、
言語と文化の違いからくる、どうしてもわかり合えないことについて、
かなり、立ち止まった。
でもいまは、日本語よりも中国語のほうが、感覚的にぴったりと表現できる時もある。
いまは日常的に中国語を使っているわけではないけど、それでもたまに夢を中国語で見る。
でもやっぱり、中国人の感覚はわからないと思う。
そして、わからないことを、そのまま「よし」として受け止めることも、
少しずつできるようになってきた。
昔は、なるべくその距離を埋めるために、
とことんまで語り合わなければならない、という感覚があったんだけど、
「とりあえず保留」ができるようになった。

明日は久しぶりに、中国語三昧の夕食会だ。
最近どうしてるの?と聞かれた後、私はどのように中国語で自分を表現するだろう。
相手の目を見たときに自然と出て来る言葉。
これは、ひたすら感覚的なものなので、話しながら自分の言葉に驚くことがよくある。
そうか、こんな表現があったか、と思う。
そしてこの感覚は、母語である日本語では味わえない種類のものだ。

そして、友人たちの語る近況。
その中に、たくさんの生きるための、考えるためのヒントがある。
そこには苦悩があって、喜びがある。
私は無から何かを生み出せる人間ではない。
自分のなかを掘って行っても、すぐに涸れてしまう。
でも、友人の中には、私が生きたかもしれない人生がある。
これがいいんだ。