(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 長谷寺のこと~こもりく初瀬

2015-01-14 | 読書
エッセイ 長谷寺のこと~こもりく初瀬


 冬牡丹の季節がやってきた。上野公園の東照宮や鎌倉八幡宮など寒牡丹が美しい花を咲かせているスポットは少なくない。奈良にも当麻寺という牡丹の名所がある。しかし、その数、見事さ、また神域ともいうべき雰囲気の中でみる冬牡丹は長谷寺がいい。 

 ”いくたびも参る心ははつせ寺 山もちかいも深き谷川”

これは花山天皇の御製である。この人は有力な外戚もなく、いろいろあってわずか2年で退位している。しかし拾遺和歌集を御撰するなど芸術的な才能のあるひとで、出家後三十三ヶ所の観音霊場を回り、和歌を残している。それが西国三十三ヶ所のご詠歌となった。この長谷寺の歌も、はつせ寺~はじめてのお寺、ちかいも深き~誓もふかい、などかかっていて、リズム感もよく愛唱されている。いや道がそれそう。この長谷寺には、若い頃からいろいろ思い出もあり、また昨今、十一面観音に興味をいだいているので、また訪ねてみようと思っており、色々なことを思い出した。それらをすこしメモワールとして残しておきたくなった。

 ご存知のように長谷寺は奈良の大和西大寺から南下し、近鉄大阪線の桜井から二駅ほど東に行ったとこにある。すこし不便なところである。遥か平安時代にもみやこの女房や天皇たちが長谷寺詣でをしているが、おそらく徒歩あるいはかごで途中二三泊しての道中であったと思われる。なぜ彼ら、彼女たちを惹きつけたか。それは後にして、私自身もまだ二十代のころから長谷寺には再三足を向けている。もちろんガールフレンドを案内してのことである。当時は、ウエブサイトでの案内はもちろん、ろくな観光資料もあまりなかった。記憶にあるのは、『古都巡り』、『みほとけとの対話』『美を求める心』などを書いた随筆家岡部伊都子の本である。それを読んで心ときめき、遠路はるばる出かけて行ったという次第である。

 長谷寺のことを語るまえに、ご存知でない方もおられるでしょうから、すこし様子をご紹介しましょう。以下は十年ほど前の五月の風景である。まず総門を入ると、登廊(のぼりろう)がある。平安時代の創建である。上中下、399段をゆっくり上ってゆく。登って行く間に心が沈潜してくるような気になる。そして小初瀬山の中腹に本堂がある。高みから見おろす景色は素晴らしい。そしてここから左手にみる五重の塔の眺めが新緑や秋には紅葉に溶け込んでいて素晴らしいものがある。
                                                       (写真が3葉 古いものが混ざっており、お見苦しところご容赦ください)

     


     

 春は桜。初夏には牡丹、シャクナゲまたテッセン、紫陽花などの花々が咲きつづいて別名<花の寺>とも呼ばれる。

     


 なお冬の最中にお参りする人はあまりなく、よほど信心深い人しかいないと言われる。しかし、ここの冬牡丹は見るに値する。再び訪れてみたい。

  ”舞う雪も華のあきらか寒牡丹” (皆吉爽雨)

(十一面観音)

 本堂にある本尊は十一面観音である。10メートル18センチの高さの立像。木造の仏としては日本最大級とも言われる。元は平安時代の作とか。地蔵菩薩の像も、穏やかな眼差しで心が惹かれる。この十一面観音については、その生い立ちについてのエピソードをご紹介しておこう。
 
     

 ”初瀬に一人の聖がいた。徳道上人という。里人から大木の樟を譲りうけ、十一面観音を造ろうと願っていた。誰も手伝ってくれる人もなく、この霊木を礼拝するだけで7~8年が過ぎてしまった。この樟には長い歴史があった。『今昔物語』などによると、継体天皇のころ近江に大洪水があり、高島郡の深山から巨大な樟がびわ湖に流失した。伐るとたちまち禍がおこるので、人は畏れて近づかず大津の湖上に浮かんだまま何十年も打ち捨てられていた。

 大和の葛木下の郡に住む人がその噂を聞き、十一面観音を彫ろうとい念願を起こした。が、大きすぎるので、とても大和までは運べない。ためしに曳いてみると案外たやすく動いたので、往来の人も手伝って大和の当麻の里まで運んだ。しかし、目的も果たさぬうちにその人も死に、樟はそこに八十年余のあいだ巨大な姿を晒していた。その頃、当麻では病にかかる人が絶えなかったので、この木の祟ということになり、前の人の遺子の宮丸にを連れてきて曳かせてみると軽々と動いた。宮丸は、それを初瀬川のほとりまで曳いていき、またそこに二十年抛っッておかれた。徳道上人は、そうい霊木を手に入れたのであある。人の噂に上るほどの樟なら数千年の齢を経ていたに違いない。養老四年(720)二月、上人はこの木を初瀬の東の峰に引き上げ、庵を結ん香を炊き「霊木自ら仏成りたまへ」と一心に祈っていた。たまたま初瀬を訪れた藤原房前(ふささき)がその有り様を目撃し、元正天皇に申し上げて十一面観音を造ることを進言した。天皇は程なく退位したので、改めて聖武天皇から勅許を得た。神亀元年(724)三月二日のことである。同六年観音像は完成し、四月八日に開眼された。”(白洲正子 『十一面観音巡礼』より)


 この観音を収めたお堂、神社仏等はは四度、五度、六度と火災にあって焼失しているがその都度焼け残った像は新しく造られた像の体内に収められた。数え切れない災害を乗り越えて復活した生命力の強い観音である。思いも新たに、お目にかかりにゆかねばならぬ。今見られるのは、室町時代の改修になる。(1528年)


 もう一つのエピソードをご紹介しよう。それは”鐘”のことである。以前に別ブログに掲載したものを再掲することをお許しいただきたい。

(未来鐘)

”この年のこの秋の日の未来鐘” (ゆらぎ)

     


 ”牡丹で有名な長谷寺のゆるやかな石段を登りきると、どっしりとした門の上に見立派な鐘楼が見えてきます。毎日朝6時と正午に打ち鳴らされます。奈良昔話によると、平安中期の山城の国で貧しい暮らしをしていた野慈という男は信心深く、毎月長谷寺にお参りをしていました。 寺の鐘の音が小さく、いい音がでていなかったので、野慈は「願いが成就したら新しい鐘をつくりましょう」と慈願上人に云いました。これをきいた人々は、実現性のない話だと笑い、野慈のことを「未来男」と読んで馬鹿にしました。ところが、その後野慈は、出世し近江の国の国司代となりました。約束通り、長谷寺の鐘を奉納し、鐘に「正六位下木津未来男」と刻んだことから、この鐘を未来鐘と呼ぶようになったそうです。その鐘は、火事で焼けてしまい今は元亀元年に新たに造られたものですが、そのまま未来鐘と呼ばれています。”

 なおこの鐘は毎日2回、午前6時と正午につかれる。正午には、あわせてほら貝も吹かれる。本居宣長によれば清少納言も聞いたこの鐘の音を聞いたという。



 さて、ここまではふつうの観光コースである。ここからは「こもりく初瀬」というこの辺り一体のことに触れたい。前述の白洲正子の『十一面観音巡礼』に登場を願うことにする。昭和48年、白洲は写真家の小川光三氏とともに伊勢神宮を参宮した。その時、奈良から初瀬の三輪山麓で長谷寺およびその周辺を訪れている。しっかり歩いており、健脚である。その時の様子を引用する。

(こもりく初瀬)
 
 ”三輪山の裾をまわって、桜井から初瀬川を遡ると、程なく長谷寺の門前町にはいる。冬の最中にお参りするのは、よほど信心深い人か、私のような酔狂者しかいない。が、「こもりくの初瀬」と呼ばれるこの地方が、素顔を現すのはそういう時に限る。ハセは泊瀬、初瀬、長谷とも書くが、いずれも正しい。それは瀬の泊つる所であるとともに、はじまる所でもあり、長い谷を形づくっているからだ。・・・おそらく長谷寺の元は、河上約半里の滝蔵山にあり、いつの時か大嵐があって。神の磐座(岩座)が転落し、その泊まったところが「泊瀬」と呼ばれたのであろう。その川は、やがて三輪山を巻いて、大和平野をうるおす清流となるが、同時に「初瀬流れ」といって、しばしば荒れる恐ろしい淵瀬であった。そういうところが神のおわす聖地として崇められたのは当然のことである。地形から言っても、三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で、「こもりく」は神の籠もる国を示したものにほかならない。だから上代の斎宮も、伊勢へおもむく前にここに篭って、神聖な資格を得たので、そのことと切り離して、「こもりく」という枕詞は考えられない。記紀万葉の歌人たちが、「こもりくの泊瀬」という時、そこに清浄なおとめの姿を思い浮かべたに違いないのである。”

 ”ふつう門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。いったん与喜天満宮につきあたり、そこから左折して山門に至る。その天満宮のある山を、与喜山、または「大泊瀬」と呼び、寺の建っているところを「小泊瀬」(おはつせ)という。初瀬川はその中間を流れているわけだが、門前町を歩いていくと、まず正面に与喜山の大泊瀬が仰がれる。前人未到の美しい原始林で、天然記念物に指定されており、野鳥もたくさんいる。”

 ”天満宮の参道からは、太い杉の木の間をとおして、長谷寺の全景が見渡され、大泊瀬に対して、小泊瀬と呼ばれた理由がよく分かる。小泊瀬のほうがはるかに規模が小さく、山も浅い。ただしそれは寺の建っている峰だけの名称で、その裏山から巻向、龍王にかけての全体を「初瀬山」と呼ぶ。一口に「初瀬」といってもその歴史がこみいっているように、奥行きは想像もつかぬ程広いのである。”

 ”この度の目的は、滝蔵山に行くことにあった。長谷寺とは古いお馴染みなのに、「本泊瀬」を訪ねぬ法はない。寺の門前から、北へ向うと、道は急にせまくなり、ほんとうの「こもりく」らしい風景となる。冬の最中には、寒々した眺めだが、山懐に抱かれて、日中はかえって暖かい。「河上約半里」というから、ニキロ位はあるだろう。やがて右手のほうに黒々と茂った山が見えてきた。麓に鳥居があり、「滝蔵権現」と書いてある。そこから急坂を登ると、だんだん畠になり、社殿の前にでる。社殿は高い石垣の上に建っており、美しい建築である。

 そこからの眺めは素晴らしかった、右手のほうに滝蔵の森が見え、真南に当たって、与喜山が、深々とした山容を現している。初瀬川をへだてて、長谷寺が建ち、門前町も玩具のように小さく見える。遥かかなたには、宇陀から吉野にかけての連山が、その中にひときわ高くそびえているのは「烏の塒屋(とや)」であろうか。まさしくそれは「長谷曼荼羅」の風景で、これ以上何一つ付け加えるものも、詞もない。流石に「本泊瀬」と呼ばれるだけのことはある。そう納得して、その日は帰った。”

 
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 このように書いてきて、やはり長谷寺は再訪したいところの一つである。それも単に冬牡丹を楽しむ、虚子が「はな咲かば堂塔埋もれつくすべし」と詠んだ桜の景色に詠嘆する、また初夏の牡丹の見事さに目を瞠る、そして紅葉の眺めも素晴らしと感じ入るにとどまるだけでは、本当の長谷寺の良さを味わい尽くすことにはならない。

 その上で、かわたれ時の眺め、早朝の未来鐘の音、暮れなずむ夕景からさらには初瀬の高みからみる山々などを楽しもうとすれば、ここは門前の宿に泊まって一両日を過ごしたいところである。かの芭蕉も言ったではないか。
 
  ”よしのの花に三日とどまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀れなるさまなど、心にせまり胸にみちて・・・”



(余滴)

ここ長谷寺については、竹西寛子さんの名文(『京の寺 奈良の寺』)がある。以前に本ブログで紹介したが、長谷寺の部分のみ下記に再掲する。


 (初瀬の王朝)

 ”初瀬は、この目でみるより早く、王朝の歌や日記、物語でなじんだ土地である。こういう土地はなにも初瀬だけとは限らないが、女の旅と参籠への関心は、「蜻蛉日記」や「源氏物語」の初瀬詣でにいきおいわが身を添わせて読むようになり、長谷観音への様々な思いを秘めて旅だった女たちの、その目に見、耳に聞いた初瀬を、いつのまにか自分の見聞きした初瀬と思い込んでいるようなことも少なくないのだった。

 当時の貴族の参詣や参籠、ことに姫君や女君、女房たちのそれは、清水寺、広隆寺、雲林院、清凉寺、鞍馬寺などの京近辺のお寺から、石山寺、長谷寺などのよく及んでいる。片道だけでも京から三日、四日とかかる初瀬詣は、当時にすればかなり大掛かりな旅を伴う物詣である。「蜻蛉日記」の作者は車を使っていて、それでも京を出て三日目にやっと長谷寺くの椿市に来たことを記しているが、それとても決して楽な旅ではない。それまでにしてなぜ初瀬詣でをということになれば、女たちに自覚された苦悩の深さと、難儀な長旅をも当然と思い込ませるだけの長谷観音の霊験のあらたかさということになろう。”

 ”居ながらにしての祈願よりも、苦しい長旅の果てに、山に囲まれた、川の水音も清々しい霊場に入って祈願するほうが、敬虔の情はよりつのりみ仏のありがたさもまさるというのは、中世ならぬ王朝の女たちの心情の自然だったかもしれない”

 ”人との交わりを断ち、雑念を断って祈願に篭もるというなら、なるほど初瀬こそ女たちの籠もりの場にはふさわしい。四年まえの冬に初めて、段には違いないが、段というには少々低すぎる燈籠の階段を三百九十九踏み登って本堂の十一面観音に掌をあわせ、振り返って礼堂の舞台から今登ってきた登廊や仁王門を見下した時、右手の方向西を残して三方を山に囲まれた初瀬の地勢の中に、山懐の立体的な広さがそのまま境内でもある長谷寺がはじめて収まり、初瀬川の水音を聞きながら、まさに幾重もの山なみに囲まれて女たちの籠もるにふさわしい土地としての初瀬が、わが目と耳に納得できたのであった。”

     
         
 そして著者は、秋にも訪れる。

 ”この秋、年来の望みが叶って、長谷寺の門前町に宿泊した。たとえ一夜だけでもよい、あの礼堂の吊り燈籠や、回廊の球燈籠に灯が入ってから登りたいという願望の中には、玉鬘(源氏物語の)や藤原道綱の母の長谷寺の夜を、そこにいて偲びたいという気持ちも強くあって、しきりに時をうかがっていただけに、それが叶うと知った時のよろこびはひとしをであった。

 昼間、右手に錫杖、左手に宝瓶を持たれるご本尊の前に跪き、そのおみ足に触れて拝ませていただいたあと、寺側の案内で、七千株は越すといわれる牡丹の剪定と施肥の現場を見て、専従者の鮮やかなわざと労力に今更のように感嘆したが、幸運にも、この初夏に寺蔵から見出されたという秘宝「長谷版曼荼羅版木」を宝物館で目のあたりにした時には、その図像の精緻精妙に思わず息をのんだ。”













 


コメント (8)
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