(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 米沢へ

2015-01-22 | 読書
エッセイ 米沢へ

 米沢~米沢藩~上杉鷹山~GE(ゼネラル・エレクトリック)のダイナミックな組織改革~そこに関連する”火種”ということば~ロバート・ブラウニングの詩~さらに明治初期の日本の奥地を旅した英国夫人、イザベラ・バードのこと・・・これらが私の頭の中ですべてリンクしています。上杉鷹山の本を読んでいる、その夜に瞬時にこれらのことが頭をよぎりました。そのことを順を追って描いてみます。

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 親しい友人が、この春所要があって山形へ旅をすると云う。山形といわれても余りなじみがない。知っているのは芭蕉が奥の細道の旅で訪れた月山、羽黒山、それに藤沢周平の故郷であり彼の小説の舞台としてさまざまな形で登場する鶴岡の街くらい。それらの場所にしても行ったことがない。ところが用をすませた後、新庄へ回り山形新幹線に乗り南下するとのこと。それならば、”天童あたりで途中下車して温泉にはいり、うまい山形牛でも味わったらどうか”と水を向けたが、織りに関心のある友人は米沢で降り、米沢織をこの目で見たいという。あくまで口がいやしい私は、”米沢牛が旨いよ”とアドバイスを送る。

 しかし、それはともかく米沢と言ってもこれまた知識がない。が、米沢藩といえばあの上杉鷹山公が破たん寸前、というより財政破綻で崩壊の危機に瀕していた藩を藩政改革を断行して救ったことを思い出した。1961年に第35代合衆国大統領に就任したケネディは記者会見で日本人記者団から、「日本の最も尊敬する政治家は?」と聞かれ、「上杉鷹山」(うえすぎようざん)と答えている。このエピソードの真偽を疑う人もいるが、事実である。当時のアメリカの新聞に、次のような文が掲載されていたのある。


 ”Uesugi Yozan (1751-1822), the ninth lord of the Uesugi Clan and former ruler of Yonezawa and the Okitama region, was named by former U.S. president John F. Kennedy as the Japanese leader he most admired. When asked this question at a press conference, Kennedy was most likely thinking of Yozan's greatest accomplishment: pulling the Uesugi Clan out of a centuries old debt and avoiding bankruptcy by encouraging not just the farming class but even the idle warrior class to work in cooperation and with mutual trust and respect. Yozan was able to convince the people to do this by actually setting examples himself, living modestly, and encouraging others to speak out on and question traditional (but not practical) customs. Unfortunately, when Kennedy mentioned Yozan's name a Japanese journalist asked back "Yozan who?", indicating that most Japanese people were unaware of this great leader. It is said that Kennedy was impressed upon reading about Uesugi Yozan in the book Bushido by Nitobe Inazo, written in the U.S. in 1899. This book was later published in Japan, and has been translated into several languages.”

 この事も思い出し、上杉鷹山についての小説を二つ手にとった。もちろん一つは藤沢周平の『漆の実のみのる国』(1997年5月 文藝春秋社)である。藤沢は、丹念に埋もれた資料を渉猟し、上杉伝説の実情を明らかにしようとした。もう一つある。それは小説家童門冬二の手になる『上杉鷹山』である。童門は東京都の美濃部都政をスピーチライターとして支えた人で、組織の経営、リーダーの統率力、人間学、などの著作が多く、米沢藩という組織の改革という視点が多分に盛り込まれた本である。物語はドラマチックに描かれており、これはこれで興趣のある本である。その中の一節に触れることにする。

     

 日向高鍋藩とい小藩から米沢藩第9代藩主となった上杉治憲は江戸藩邸にいる間に危機的な状況にありながら何らの改革に動き出そうとしない国元の米沢に入る。いよいよ藩の領地に入ろうかというところでのことである。

 (灰の国で)米沢城まであと一里。盆地に入っても米沢国内の光景はまったく変わらなかった。土地は痩せ、荒れ果てているのが、雪に覆われていてもよくわかった。暮らしている藩民たちにまったく生気がない。あわてて道端に彼らが土下座するが、その目は死んでおり、治憲という新藩主に何の期待の気持ちも持っていなかった。・・・

 米沢に住む人々は、自然の冬だけでなく、心の冬に鋭くおそわれていた。そして、その心の冬には、いつまで待っても春はこない。永久に凍りついている冷たさを持っていた。・・・心が死んでいるのだ。米沢藩に住む領民は、誰ひとりとして希望を持っていなかった。希望がないから心が死んでいるのである。

 籠の中に煙草盆があった。その中に灰皿があった。灰皿の灰は冷たく冷えていた。治憲はその灰皿に目を止め、「米沢の国はこの灰とおなじだ」とつぶやいた。冷たい灰が、そのまま米沢の国を象徴しているように思えたのである。「この死んだ灰とおなじ米沢の国に、なにかの種を蒔いて一体育つだろうか。恐らくすぐ死んでしまうにちがいない。だからこの国の人間は誰も希望を持っていないのだ・・」 そのうちに、治憲は、何の気なしに冷たい灰の中を煙管(きせる)でかきまわしてみた。灰の中に小さな火の残りがあった。それを見ると、突然治憲の目は輝いた。治憲は何を思ったのか、部屋の隅にあった炭箱から新しい黒い炭を取り出して残り火の脇においた。そして煙管を火吹き竹の代わりにしてふうふうと吹き始めた。つまり、残った火を新しい炭に移そうとしたのである。友の者たちは、不審に思って治憲に何をしているのかと声をかけた。治憲は籠からおり、雪の道に降り立った。手には灰皿と、その上に新しくおこした炭火を持っていた。怪訝な顔をする家臣団に治憲はこう言った。

 「実は福島から米沢への国境を越えて、板谷宿で野宿し、さらにその宿場を発って沿道の光景を見ながら、私は正直いって絶望した。それは、この国が何もかも死んでいたからだ。この灰と同じようにである。恐らくどんな種をまいても、この灰の国では何も育つまいという気がした。・・・私は、いい気なって今までお前たちに改革案を作らせたが、しかしそれを受け入れる国の方が死んでいた。これは気がつかなかった。私は甘かった。、そこで深い絶望感に襲われ、灰をしばらく見つめていた。やがて私は煙管をとって灰の中をかき回してみた。すると、小さな火の残りが見つかった。私は、これだ、と思った。これだというのは、その残った火が火種になるだろうと思ったからだ。そして、火種は新しい火をおこす。その新しい火はさらに火をおこす。そのくりかえしが、この国でもできないだろうか、そう思ったのだ。そして、その火種は誰あろう。まずおまえたちだと気がついたのだ。江戸の藩邸でいりろいろなことを言われながらも、私の改革理念に共鳴し、協力して案をつくり、江戸で実験して悪いところを直し、良いところを残す、そういう辛い作業をやってくれた。そして今、、その練固まった改革案を持っていよいよ本国に乗り込もうとしている。そういうおまえたちのことを思い浮かべたとき、おまえたちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。お前たちは火種になる。そして、多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり藩民のことだ。それらの中には濡れている炭もあるだろう。湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、私の改革に反対する炭も沢山あろう。そういう炭たちは、いくら火吹き竹で吹いても、恐らく火はつくまい。しかし、その中にも、きっと一つやふたつ火がついてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ。そのためには、まず、お前たちが火種になってくれ。そしてお前たちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移してほしい。城についてからそれぞれが持ち場に散ってゆくであろう。その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸の火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を大きく燃え立たせるであろう。私はそう思って、今駕籠の中で一生懸命この小さな火を大きな新しい炭に吹きつけていたのだ」


 この治憲の言葉に多くの家臣団は感動し、”その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に火を移します。そして、お屋形さまがいう改革が達成されるまで、その火を決して消しません” と申し出たのである。


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 この(灰の国)の文は、この小説の中で最も感動的な部分である。そしてこれを目にしたとき、私は”あっ”、と思った。英国の詩人、ロバート・ブラウニングの詩「ベン・エズラ博士」のことを思い出したのである。

 ”努めよ そして艱難を苦にするな。
  学べ、 痛みを恐れずに
  行え 悩みをつぶやかずに 
  人生は 失敗とみえるところに成功が・・
  そしてそのように生きたひとは 火が消え灰になっても
  後に一粒の黄金が残る”


 この詩の詳しいこと、またそれとの出会いについては次回に譲る。さらにそこではアメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック社)のダイナミックな経営改革のこと、そして最後は明治の初期に日本の奥地を単身旅行した英国夫人イザベラ・バードのみた米沢盆地の美しさについてふれることにする。


(次回へつづく)




コメント (3)
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