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(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 桃源郷を想う

2015-01-04 | 日記・エッセイ

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 元旦に届いた日経紙の頁をくっていたら、「桃源へ」との見出しで美しい日本画が大きく広がっていた。画の左右をよぎる流れがあり、橋をわたると緑の田園地帯。そしていつくかの民家。霞んだようにある桃の花咲く林。そうは、まさに桃源郷を象徴するような画である。若き日本画家の俊英、奥村美佳が2014年に描いたものである。添えられた記事には次のような文章があった。

 ”桃源郷は東アジアでは古くから綿々と詩や歌に詠まれ、絵に描かれてきましたが、私もまた、数年前に桃源郷というテーマにめぐり合い、その世界に魅せられています。

 京都、奈良で生まれ育った私にとって、修学院や大原、山城、木津川周辺、奈良の田園、里山は懐かしくも身近な場所なので、題材を求めて歩き回り、桃源郷を思わせる風景を見つけたは、心躍ら写生をしています。

 この絵では、奈良県の月ヶ瀬の梅林の写生をもとに、桃の林を描きました。・・・

 この絵でも、村の入口に桃の林が続いていますが、林を抜け、目も眩むような色彩と芳香の洗礼を受けた訪問者には、この平凡な村里がどのように見えるのでしょう”

          


 桃源郷、英語ではシャングリラと言われる。イギリスの作家ジェームス・ヒルトンの小説に『失われた地平線』という本があって、その中で登場するヒマラヤ奥地の理想郷、あるいは楽園として描かれている。しかし、東アジアではそれより遥かに古い1600年前、中国の詩人陶淵明がその著書『桃花源記』の中で創作した理想が登場しているのである。だから様々な本に書かている。まずは芥川龍之介の『杜子春』(とししゅん)。地獄を見た杜子春は、”もうこれからは栄華や冨を求めず平和に暮らしたい”、と仙人にいう。それよしとした仙人が、言う最後のセリフがある。

 「鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
 「おお、幸い、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう、とさも愉快さうにつけ加へました。」

 これは文字通り桃源郷のことを指している。

  注)詳しいことは以前に書いた記事(ラストシーン~別れのきめぜりふ)を参照ください。


 それから忘れられないのが民藝運動のなかで「陶」の世界と四つに組んで活躍した河井寛次郎の言葉である。その著書『火の誓い』(昭和28年)の中で、河井は戦前のことであるが、京都府相楽郡の地を歩き、いくつかの村々(河合は、、と呼んでいる)の美しさを讃えている。桃源郷という呼び方はしていないが、ある意味その感がある。「の総体」という一節がある。彼は田んぼの向こうから山の麓にかけていくつかの村を遠望して、村と家と地形に応ずる巧妙な配置について驚く。なぜなら村に入って一番親しみを示してくれるのは家であるから。

 ”家は隣との境に、季節々々花を咲かせてお互いの平和を示す緩衝地帯でもあるかのように、一枚か二枚の畑をはさませて置く。畑の処々には柿や栗や梅を植える。実をとる以外に、これらの樹木は植えたものさえ知らぬ大きな使命を果たす。またその畑を青くしたり、赤くしたりして遊ばせて置かないのも、実益以外どんなに大きな仕事が果たされていくことか。また相談ずくで残されたとは思えぬ一二枚の田や畑がよくの中に入り混じっていることがある。あるべき場所にこの田や畑はいやがうえにもを美しいものにする。

 小川の洗い場には石を並べる。素晴らしく並べる。その上には大きな榎を茂らせ、四ツ辻にはほこらを祀り、愛宕大明神や二月堂や天満宮の石灯籠を立てる。みずみずしい生け垣や低い見事な土塀で小路をはさませ、樫を刈りこんで風よけ日よけの壁を育てる。路に沿う庫の隅にはこぶだらけのケヤキや榎の太い木を育ててさらに立派なものにしておく。の道は何故にこんな美しく曲がりくねっているのか。家を守るための垣根になぜ花を咲かすのか。人を拒む門になぜ戸を立てないのか。今年の三月のある日自分は南山城の山田川村の大仙堂のから、大里、北の荘、吐師(はぜ)へかけて次々にみつかる素晴らしい村の姿に引きつけられて歩いていた。・・・

 長い年月自分は村を見て歩いたが、今日この処に見た村のように自分を有頂天にした村はそう沢山にはない。こうも隙間もなくぎっしり詰まっているこのの美しさはどうしたら根こそぎ取り出せるのか。この村は始めから終いまで自分を魔法にかけてしまった。・・・を出ると思いがけない池に出た。しかもこのの全景を支配している池に出た。・・・この美しいがこんな美しい池に沿うていたという思いがけない事を最後に知らされたのであった。・・・まだまだそれでは足りない。この素晴らしい配置をこれ以上美しくは見られない土手には桜の古木がならんでいるのであった。湖水や入海に望む美しい港や村があることは知っているが、こんな丘の用水池のかたわらにこんな村があるとはまったく思いがけないことであった。

 その後ここへ行くごとに村の人々はぶらぶらしている自分に、何をしに来たのかと問いかけたが、適当な返事ができたことがない。美しいために来た~そういうことは返事にはならないからだ。”

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 ここに述べられているように河井寛次郎にとっての桃源郷は、古き日本の良さを残した村里であり、それには私自身も深い共感を覚える。冒頭に載せた写真は福島の花見山で、春になると梅、花桃、桜、連翹(レンギョウ)、木瓜、山茱萸(さんしゅゆ)などが一斉咲き乱れる。写真家の故・秋山庄太郎さんは、”福島は桃源郷なり”と言われた。しかし、本来の桃源郷はそこに生活する人々の風景があわせてなければならない。


 さて現代で桃源郷を語るにふさわしい人を挙げるとすれば、比較文学の泰斗(たいと)である芳賀徹さんであろう。彼が先年、滋賀県のミホ・ミュージアムにこられて蕪村と桃源のことを語った。講演会があるというので、親しい友人としめしあわせて甲賀の山中まで車を飛ばしたのである。もう大分以前のことなので、当時の記憶があまりない。それよりも芳賀さんには素晴らしい著作があるので、それに基づいて桃源郷のことを記すことにする。『与謝蕪村の小さな世界』(中央公論社 1986年)が、それである。まずは芳賀さんの思い入れから。

          


 ”もう十年あまり前から、私は桃源郷を探し続けている。いまでは、書物を開いていて、「桃」とか「源」とか、あるいは「鶏犬」とか「絶境」とかの文字があれば、すぐに目に飛び込み、しばし心臓が高鳴るほどになった・”


 その桃源郷について芳賀さんは次のように説明する。

 ”陶淵明の話そのものが、短いなかに汲めども尽きせぬものを湛えていることはいうまでもない。ある春の日、一人の漁師が、どうしたことか、桃の林のひっそりと花咲きあふれる谷間にさまよいこんだ。不思議に思ってその流れをさかのぼると、水源に立ちはだかる山の腹に、「髣髴」(ほうふつ)として光あるがごとき」洞窟があった。心誘われてそれをくぐりぬけた。すると眼下に、平和と幸福そのものと思われる見知らぬ村里がひろがり、人々は古俗を守って働き、老幼は楽しみ、鶏犬の声は春の昼間に響いていたのである。しかも、外界の変遷から隔絶したこの里に数日滞在して、漁師がまた自分の町に戻り、あらためてその桃源の村に行こうとすると、もう道はわからなくなっていた。それ以後も、あの谷と山のかなたの村への入り口を見つけたものは誰もいない”


 (陶淵明の詩より)たちまち桃花の林に逢う。岸をはさみて数百歩、うちに雑樹なく、芳しき草は鮮やかに美しく、落つる英(はなびら)は繽紛(ひんぷん)たり。

          ~薄い濃い紅の花びらが、風もないのにはらはら、ひらひらと、萌え出たばかりの緑の下草の上に散りつづけている。

 ”いや、だから唐の王維や李白から、宋の蘇軾や陸游をへて明治の夏目漱石、大正の佐藤春夫や昭和の一高生福永武彦に至るまで、東洋の名ある詩人でこれに魅せられなかったひとはいないといってもよいほどだ。西洋の世界でいえば、これはほぼ旧約のエデンの園や、ギリシャのアルカディアあるいは「アルキノス王の園」(オデュッセイア)またウエルギリウスの田園詩にも匹敵する。・・私達もそれにならって桃源郷を東アジア文学におけ”「る一つの楽園のトポスと考えてよいだろう”

 そして芳賀さんは、中国や日本の詩と物語りのうちに桃源郷のトポスを探ってゆくだけでは物足りなくなり、絵画による表現のうちにも追い求めてゆく。ワシントンのフリーア美術館にある石涛の「桃花源図巻」であり、天理大学図書館にある韓国李朝の名手安堅の「夢遊桃源図」などがある。また富岡鉄斎の「武陵桃源図屏風」、小川芋銭の「桃花源図屏風」などなどに言及している。そして、やっとこの本の本論与謝蕪村の「桃源の路次」にいたるのである。

 ”18世紀日本の詩人にして画家、与謝蕪村も、このような東アジアの桃源郷の詩画史のなかに、よろこんで身をおいたものの一人であった。日本における桃源郷のトポスは奈良朝の『懐風藻』からはじめて平安朝貴族の漢詩文、また鎌倉室町の五山の詩僧の作品へと辿ることができるにしても、それが詩と画にともどもに花開いて、陶淵明がなによりも桃源郷の詩人、そして「田園の居に帰る」田園詩人として見られるようになるには、池大雅と蕪村の時代、十八世紀の後半からであったと考えられる。蕪村はたしかに、近代日本におけるこの桃源郷再発見の動きのなかのパイオニアであった。”

   ”桃源の路次の細さよ冬ごもり”
   ”商人を吠ゆる犬あり桃の花”
  
 ”とくに「桃源の路次の細さよ」という「細さ」へのそれとない強調は陶淵明の「桃花源記」における想像の力学、その夢想のへの鍵を、蕪村がすばやくあやまたず捉えてしまっていたことをよく示す。・・・つまり、桃源郷は、谷間と洞窟という、次第に狭まるアプローチを辿ってこそ到りつく。そこにはじめて豁然と開朗するからこそ暖かい、鳥の巣のような、母体のようなやすらぎの小空間なの・・・である。・・・くねくねと曲がる細い路次の奥に潜んでいるからこそ、こささやかな市井のたたずまいも冬の巣ごもりにふさわしい、桃源の春のように暖かい別天地となるのである。”

   ”屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり”
   ”うずみ火や我が隠れ家も雪の中”


のような句でさえ、実は桃源郷の心理学を内蔵した、桃源郷のトポスを巧みに生かした作と考えていいようである。”

 芳賀徹は、さらに現代アメリカの黒人詩人のリチャード・ライトの「ハイク」にまで言及する。

   ”まっすぐに一ブロックゆき給え
    そして右に曲がるんだ、するとー
    桃の木が花ざかり”

    Keep straight down this block
Then turn right where you will find
A peach tree blooming

 ”この三行詩が蕪村の「桃源の路次の細さ」を明和の京都から今のニューヨークのマンハッタンに転移したようなものであることは、たしかだろう。室町通や烏丸通り、あるいはマジソン街やパーク・アヴェニューなどの大通りをまっすぐ行って桃源郷に突き当たるはずはない。そこからふと「右に曲がった」ところ、細い路次に入り込んだところにこそ「屋根ひくき」桃源の宿は隠れているのである。”


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 いやいや最後は、すこし人里離れた山間の村にある桃源のイメージから離れてしまいました。しかし、蕪村の桃源の宿は、今もなお、京都の宿にそのイメージを見ることができるようにも思います。スティーブ・ジョブスの愛した<俵屋>、またおなじ麩屋町の姉小路上がるにある<柊家>も門をくぐれば、そこは別天地があるのです。本来の桃源が、今の日本で見出すことができるかどうか分かりませんが、花祭で知られる愛知県の奥三河あたりには日本の原風景が色濃く残っていて、今もなお春になれば桃の花や杏、山桜に囲まれた静かな里があるそうです。いつか訪れてみようと思っています。 みなさまの桃源郷のイメージは、いかがなものでしょう?







 







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