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(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

涼風雑感 夏に涼しさを求めて

2016-07-16 | 日記・エッセイ
夏に涼しさを求めて

 七月も半ば近くにり、小暑の候である。とくに今ごろは、”蓮始めて開くの候と言われる。京都の山陰線・花園駅近くにある法金剛院は蓮の名所、この季節になると足を運ぶ。蓮の花が咲くのは朝早く、夜明けごろである。7時からひらくので、できれば朝一番で行きたいところである。ここの庭を巡っていると、木陰の下に、小さな流れがあり、なにかしら涼しさを感じる。『徒然草』にも記されている。

 ”深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。”

       (写真は法金剛院にて撮影)

暑い一日であっても、思いもかけず涼しさを覚えることがある。吹き抜ける風や風鈴の音、それも青簾のそばに吊るされてあれば云うことはない。

 ”見上げれば満点の星青すだれ”(ゆらぎ)

暑い夏ながら、「涼」には敏感になる。涼に関する俳句の季語を拾ってみると結構ある。朝涼(あさすず)/夕涼/晩涼/夜涼/宵涼し/涼夜/微涼/涼雨/涼風/水涼し/庭涼し/影涼し/露涼し/灯涼し/鐘涼し/月涼し/・・・。このほかに「星涼し」という季語があるが、これは後程別に取り上げる。さらに「夏のよそ」ということばもあり、夏の暑さを忘れるという意味である。私は気に入っているのだが、なぜか最近は使われていないようだ。

 これらの季語を読み込んだ句を気に入るままに並べてみる。

 ”涼しさやほの三日月の羽黒山” (芭蕉)
 ”涼しさや鐘をはなるるかねの声”(蕪村)
 ”をみら等は涼しきときは遠(とお)をみる”(草田男)
 ”どの子にも涼しく風の吹く日かな”(飯田龍太) 

 ”五千冊売って涼しき書斎かな” (長谷川櫂)
  ~本棚に囲まれ狭苦しくもあった書斎。その本をすべて売り払って、広々となった。 そこへそよ風さえ通り抜ける。まさに涼味を感じるのである。その情景が浮かんでくるような味わいのある句。この人の句は、なぜかあまり見ることがないが、エッセイを書かせたら天下一品である。切れ味鋭い文章を書く。その一つ『俳句的生活』について紹介した時の拙文の一部を下記に引用させていただく。(2007年1月)

 ”気鋭の俳人長谷川櫂の本『俳句的生活』は、2年半も前の著作だが、依然としてその輝きを失っていない。俳句を詠むということにまだ無縁だった頃に、この本を読んで出だしから衝撃をうけたような気がした。第一章<切る>は、柳生石舟齋の切った芍薬の花から、話がはじまる。このイントロダクションからして只者ではない鮮やかさだ。それは、 長谷川櫂は、ここからはじまって俳句における言葉の切れ味、切り口の鋭さに言及してゆくのだが、それはまたの吉川英治の『宮本武蔵』の第2巻水の巻、「芍薬の使者」の話だ。長谷川櫂の巧みな描写を引用する事にする。

 若き日の武蔵が柳生石舟齋を訪ねる場面がある。石舟齋は柳生新陰流の開祖として知られる人である。武蔵は石舟齋に一度会って教えを乞いたいと思い立つ。・・
そこにもうもう一人、石舟齋と手合わせを望む若者がいた。京の剣術の名門、吉岡道場の、その当主清十郎の弟伝七郎である。もとより会うつもりのない石舟齋は庭の芍薬を一本みずから切り取ると、断りの手紙を結わえてお通に持たせてやった。・・・その手紙を読んだ伝七郎は怒って手紙を結んであった芍薬の花をお通に突き返す。

 不思議なめぐり合わせで、その芍薬が同じ旅籠に泊まっていた武蔵の手に渡ることになる。芍薬を手にとった武蔵は茎の見事な切り口を見て、これは石舟齋が切ったに違いないと直感する。そして、何としても会いたいとますます思いを募らせる。そこで武蔵は石舟齋の切り口の少し上で芍薬の茎を切り落とし、その切れ端を、武蔵を師と仰ぐ城太郎少年に持たせて城へやる。石舟齋は茎の新しい切り口を見て、この若者なら会ってみたいとと思う。・・・・

    芍薬のひと夜のつぼみほぐれけり  (久保田万太郎)

 『宮本武蔵』の柳生の場面で石舟齋が切ってお通に託した芍薬は白の一重でなければならない。まっすぐに伸びた茎の先で白い一重の花びらが万太郎の句のようにはらりと開きかかっている。その健康な茎が石舟齋の刃によって鋭く断たれていた。その芍薬の切り口を吉岡伝七郎は見落とした。ちらりと見たかもしれないが、、その尋常でない鋭さに気がつかなかった。一方、武蔵はその切り口に目をとめ、石舟齋の剣の凄さに内心、畏れを抱く。・・・”

長谷川櫂は、ここからはじまって俳句における言葉の切れ味、切り口の鋭さに言及してゆく。この切れ味するどい文章にこそ、私は涼味を感ずるのである。


 ”和紙明かりかすかにゆらぎ灯涼し” (小川濤美子)


 ”金泥で書く波羅蜜の涼しさよ” 
(筑紫磐井)
  ~波羅蜜とはサンスクリット語でパーラミッタ。仏教では彼岸にいたることとを意味する。六波羅蜜では、布施/忍辱/精進などの修行をさす。教典にあるこれらの言葉を心静かに墨で書き写す。心は自ずから安らかになり、涼味を感じるのであろう。

 ”一徹に生きて飾らぬこと涼し” (古賀しぐれ)

 ”口紅のいささか濃きも涼しけれ” (久保田万太郎)
  ~万太郎の独壇場ともいうべきおみなの心意気の描写。きりっと紅を刷いて気持ちを引き締める。暑さなどといっちゃあ、おれません。そういえば、鈴木真砂女は万太郎の弟子である。はっきりとした物言いの句を読んでいる。
   ”死なうかと囁かれしは蛍の夜”~こんな事を囁かれたら、ぞっとするような涼味を感じるかも。
 

 それから「納涼」(すずみ)という季語がある。涼む/門涼み/橋涼み/縁涼み/土手涼み/夕涼み・・・・

 ”たまきはるいのちにともるすずみかな” (飯田蛇
  ~蛇笏は飯田龍太の父である。虚子の初期の頃の弟子で、原石鼎・前田普羅・村上鬼  白らともに活躍した。山梨は境川村に住み、格調の高い自然諷詠を試みた。蛇笏は戦争で長男、三男をなくしており、そのことが念頭にあってこの句を詠んだのではない  か。残されしものが、涼んでいるが、その命をいとおしんでいるような気がする。親  しかった芥川龍之介が亡くなったときに、”たましひのたとえば秋のほたるかな”という追悼句を詠んでいる。


 また「朝茶の湯」という季語がある。夏の茶事は古来正午を定式とするが、夏は涼しいうちに客を招く。しらじら明けの6時または午前7時に露地にはいる。千利休が秀吉を一輪の朝顔でもてなしたのは、この朝茶の湯である。それもあって朝顔のような朝咲く花を挿すのが決まりである。朝の涼しさの中で懐石と濃茶や薄茶をいただく。京都では下鴨茶寮などで朝の茶事を体験することができる。まさに晩夏に一服の清涼剤であろう。

  ”生き得たる七十五年朝茶の湯”(ゆらぎ)

 いろいろあった人生だが、大過なく健やかに過ごすことができ、このような楽しみを味わい、またその楽しみが心の底から理解できるというのは、”ありがたい”と思う。


 また床涼みという季語もある。京都は四条河原町の鴨川納涼床が有名であるが、郊外でも貴船の川床、高雄の納涼床がある。先ごろ、仲間と連れだって貴船の床遊びをしてきた。貴船川の流れの上に設けられた川床で料理をいただく。床の下は、早い流れがあり、頭上には青葉がおおいかぶさる。涼しさが極まる感じである。

 ”川床涼みだらりの帯を近く見て” (辻田克己)
 ”涼み床や下は川波上は酒” (宗因)


 最後に狂歌を一首ご紹介しておく。

 ”涼しさはあたらし畳青簾妻子の留守にひとり見る月” (唐衣橘洲)



(最近聞いたさわやかな音楽について)
 もうかなり前のことであるが、日経新聞の電子版で田部京子さん ロマン派ブラームスを弾き語る」という映像記事をみた。その記事の中で彼女の演奏の一部も視聴することができる。

          

彼女が弾いたのは「主題と変奏」というブラームスのピアノ曲である。この曲のオリジナルは弦楽六重奏曲の1番と2番をブラームス自身がピアノ曲用に編曲したものである。元の旋律は1958年のフランス映画「恋人たち」(Les AMANT)の背景で流れている。とくに第2楽章は美しいメロディではあるが、甘ったるい。

ところがこのピアノ曲はピュアな響きで実に美しい。シューマン夫人のクララへの憧憬が秘めやかに語られ、憂愁を感じさせる美しい小品となった。それを田部京子は繊細かつリリカルにしかも音の変化をこまやかに、歌うように表現している。早速「ブラームス後期ピアノ作品集」と題するディスクを手にいれて聴いてみた。ブラームスの室内楽曲は始めてであり、ましてピアノ作品には始めて触れた。お目当ての「主題と変奏」はもちろんのこと、「6つのピアノ小品」「3つの間奏曲」など珠玉の作品が並ぶ。ピアノ曲といえばショパン、シューベルト、ベートーベンの曲くらいしか知らなかった私であるが、この年になって、このような美しいピアノ曲に触れることができ幸せである。さらに、それらを見事に弾く実力派ピアニストを知ることになり、幸せこれに過ぐるものはない。この秋、11月には名古屋でリサイタルが予されていおり、出かけることとしている。



 次はバロック音楽の誘惑と題する夕べについて。いささかのご縁があって地元西宮高校出身(東京芸大卒)の若手コントラバス奏者弊隆太朗君を応援している。今はドイツでシュツットガルト放送交響楽団のメンバーとして活躍している。サイトウ・キネンのメンバーでもある。その彼が、昨年の秋東京・サントリーホールで仲間たちとバロック音楽のアンサンブルを組んで演奏し、好評を拍した。この五人組が、先日神戸にやってきた。シュツッガルト放送交響楽団のソロ奏者のファゴット、オーボエ2本、チェンバロそして我らが弊隆太朗君のコントラバス。バッハと同世代の作曲家ゼレンカのトリオ・ソナタ2番と5番。なんともまろやかな音色、まるで気品あふれる優雅な味わいと評されるシャトー・マルゴーのヴィンテージ赤ワインを味わっているような気分になった。ファッゴットとオーボエのかけあい、オーボエ同士の見事なやりとり、通奏低音を弾くチェンバロとコントラバスの息のあった演奏。とうてい録音で聞いたのでは味わえない、ライブの良さに魅了されつくした夕べであったた。(新長田 ピフレホール)ちなみに新長田というのは神戸の中心から少し西に離れたところにあり、阪神淡路大震災では壊滅的な被害をうけた。復興のシンボルとして、鉄人28号の巨大モニュメントが駅近くにある。それにしてもオーボエという楽器をソロで聞くのは始めて、軽快でさわやかな響きである。これにも、涼味を覚えた次第。

     



(星涼し)涼しという季語のなかでも、この星涼しというのはことの他、気に入っている。星を見るのが好きだからである。星そのものが涼しいというわけではない。暑い夏でも夜も更けてゆくと涼やかになり、空気が澄んでくる。そういう時は、星は鮮やかに見えるのである。そして涼味を覚える。

 ”月や出ずる星の光のかはるかな涼しき風の夕やみの空” (伏見院)

なんとも涼し気な歌である。多分秋の空を指すのだろうが、立秋も間近い事ゆえ、この暑い夏の歌として、まあ許されよ。伏見院は第92代の天皇で中宮はかの永福門院。鎌倉時代後期の勅撰和歌集『風雅集』に収められた一首である。空に月が出て、星の光が微妙に変化する。それを感じ取って詠んだものであるが、細やかな観察には感じ入る。自ずから涼しさが感じられる。

     

 星の歌そのものでは、やはり「星のパイオニア」建礼門院右京大夫の歌に止めを指す。
 ”月をこそながめ馴れしか星の夜のふかきあはれを今宵しりぬる” (右京大夫)

恋人である平資盛が壇ノ浦で波に沈んで嘆きふしていた夜更けに、ふとかけていた布をひきのけてみると素晴らしい星空だった。月ならば眺めて賞するのが常であるが、星の世界がこんなに美しいものだったとは、と感動しているのである。明るい星々が空一面にあり、和紙に金泥・銀泥を散らしたようだ、これまで星の夜は何度も見てきたのに、まるで違う景色のような気がして、吸い込まれるように見入ってしまった。・・・・・。実はこの歌は800余年まえの当時の世界(平家滅亡は1185年4月)には知られていなかった。120年後の鎌倉末期の勅撰和歌集『玉葉集』に始めて載せられたのである。800年も前の、京のみやこは夜の明かりもほとんどなく、暗かったことであろう。街灯はない、家々の明かりも洩れくるくらい。御所の明かりも篝火がわずかにあるばかり。それ故空も今と違い、満天の星で満ち溢れていたであろう。夏の空でも星は鮮やかに輝き、”星涼し”というばかり。その星空を詠み込んだ句を一句献上して、この拙文をしめくくることにする。」

 ”海山のあはひにありて星涼し” (ゆらぎ)

わが町、六甲アイランドでは眼前の大阪湾と背後の六甲連山にはさまれ、昼は海風、夜は山からの風が吹く。夏でも涼しさがある。したがって星もあざやかに見える夜が少なくない。”星涼し”という次第である。ちなみに、この句の「あはひ}という言葉は、虚子の名句である”天地(あめつち)の間(あはひ)にほろと時雨かな”から、採らせていただいた。

 長々とご清読ありがとうございました。



(おまけ)

最後に、ちょと変わった月光ソナタを







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7 コメント

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楽しみました (九分九厘)
2016-07-17 13:42:53
 毎日雨模様の日が続きます。このところ時間の許すかぎり版画彫りに集中しております。このブログの季語「涼し」に気分転換をさせてもらいました。ありがとうございます。人それぞれに「涼し」を感ずる動機があって、それが文芸の俳句になっていく。いいですね!人それぞれに身体温度が異なっています。ゆらぎさんの自作俳句をもっとたくさん入れたらと思います。
 楽しいブログを読みながら、読手の側からしての辛口コメントを失礼を顧みず一言。「音楽」の涼しい経験の章は、読み手からすると身体温度の差も出てきて
別のなものとして読んでしまいます。ゆらぎさんの文学的な文章構成を望んでいるゆえに、たとえばこの「音楽」は別の稿にて出されたら如何。読む方からすると盛りだくさんのエッセイより、俳句に焦点を当てた文章を読むほうが楽で印象が強くなると思います。
 田部京子さんはデヴュー当初からピアノのタッチの確かさと豊かさと、加えてその美貌で売れっ子でした。最近の彼女のピアノは殆ど聞いていません。私の追いかける女性ピアニストは、ジョアン・ピリスです。時々日本にきますし、CDも時々出しますがが、必ず「追っかけ」ます。このような恋人がいてもいいですよ! 涼しくなるかどうか分かりませんが、次のyoutube をどうぞ。歳をとっても美人です。

https://www.youtube.com/watch?v=QDVJkxGz_Tc
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追伸 (九分九厘)
2016-07-17 13:51:34
 「月光ソナタ」を聞きました。60分ヴァージョンなるものには初めてです。コメント欄にベートーベン交響曲第7番(60分ヴァージョン)、第9番(180分ヴァージョンが紹介されていました。これにもアクセスしてみました。版画作業のバックミュージックにでもしようかと思います。
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一服の清涼剤 (龍峰)
2016-07-17 15:19:24
ゆらぎ さん

この重たい夏の朝の空気を吹き流して貰えるような、爽やかなエッセイです。
冒頭部に長谷川櫂の文章が出てきますが、どうしてゆらぎさんも切れ味鋭い文章で、人をひきづり込んで読ませて行く力量は大変なものです。涼しという言葉は時雨と同じように日本人の骨身に染み込んでいるような、この地に住んで一夏を過ごして初めて分かるような感覚ですね。静かな情調を漂わせる言葉です。沢山の詩歌、俳句で楽しませて頂きました。
田部京子のブラームスのピアノ曲、聴きましたがいいですね。改めてゆっくり聞いてみようと思います。最後の月光の曲も久しぶりに聴きました。朝のコーヒーと共に心ゆくものを感じました。
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おくればせのお礼 (ゆらぎ)
2016-07-20 10:33:53
九分九厘様
 拙文にお目通しをいただき恐縮です。”涼し”の俳句も詠みたかったのですが、途中で今週の句会の兼題と気が付き、エネルギーの浪費はやめました。(笑) 記事構成に関する直言をいただきありがとうございました。いつも「名古屋てんこもり」の癖があります。今後心いたします。余談ながら、名古屋の定宿に泊まると次に日の朝は、みそかつ/エビふりゃ/牛すじ煮込み/きしめんなどを食べ、最後に小倉餡トーストを食べるのが常なのです。やりすぎ?

 田部京子さんを早くからご存知なのですね。びっくり。小生は、まことに不勉強のそしりをまぬがれません。ジョン・ピリスのシューベルトを聞きました。曲もいいし、味わいがあります。小河原さん、趣味がいいですね!
 
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嬉しき限り (ゆらぎ)
2016-07-20 10:40:48
龍峰さま
 いつものようにお読み頂き、嬉しいコメントをありがとうございました。「涼し」は明日の句会の兼題ですね。この記事を書くのにエネルギーを使い果たしましたので、明日は苦戦しそうです。
 そうそう<にしむら>で朝の珈琲をご一緒しまあしょうか? ハイレゾウオークマンを持ってゆきますので、あれこれお聞かせしますよ。


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初めまして (上方結衣)
2016-07-24 18:25:39
初めまして。
昨晩たまたまこのブログを知り、拝読しました。

昨今、メインストリームと呼ばれる消費社会では色々なことが簡略化され、月は太陽のおまけ、星は月のおまけ、はたまた小型犬はセレブのおまけ…と過ごす人も多い気がします。毎日がつまらないという人が沢山いるように自分の目にはうつります。
しかしながら、実はどれも人によってはメインになる得るもの。実はどれをおまけにするのかは紋切り型なものが流布していても自由です。
物質から感じられる色や形、音や匂い。日々の生活から折り重なる自分だけの事象。
涼のとりかた一つ、様々な自分だけの"気づき"をもっと大切にして良いのだ、とこちらで久しぶりに五感が潤いました。

そういったことを夜中にインターネットで久しぶりに思い出す、という現代(今)も面白いものだなあ、と思っております。

そして何より『月光』が自分には強烈でした。
それについては学校の帰りに買ったチョコエッグのチョコの部分がGODIVAで、中から美術館で買いそびれた女神のネックレスがおまけで出てきてしまったような感じです。
千秋楽を見た後の首相の「感動した」と同じく、
「もう少し気の利いた表現はないのだろか」と自身に問いたいところですが、この『月光』は「美しい」の一言でした。

ゆらぎさんの英知だけでなく、御自身が心ひかれた美しいもの、そして粋な遊び心で彩られたブログ。
これから時の流れを忘れない程度に訪問したいな、と思っております。

P.S 余りにも幼稚なコメントで申し訳ないな、と思いつつもフリックでしたためた次第です。
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遅ればせのお礼 (ゆらぎ)
2016-07-29 20:15:31
上方結衣様
 コメントを書き込んで頂いているのに気がつかず失礼しました。当ブログにお立ち寄りいただき、そのうえ駄文についての感想をおもらしいただき、ありがとうございました。

仰るように、”涼”も自分の気づきからなんですね。なるほど。また余滴でご紹介しました「月光ソナタ」を気に入って「いただき、嬉しき限りです。音楽のことも時にふれて書きますので、またお立ち寄りください。ありがとうございました。
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