
読書 陰隲録(いんしつろく)のこと~運命を創る (写真は、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」の冒頭(第一楽章)の楽譜です)
またまた桜守のことは先に伸ばし、今日は「運命」ということについて考えてみたいと思います。よく、”それも運命である”とか”運命を甘受して・・・”ということを聞きます。いわゆる運命論者の云うところです。そういう受動的な考え方もあろうかと思いますが、以前にこのブログで「愁思」について書きました。
その中で、”運命を引きずり回して生きたい”といいました。そうです、ぼくは運命論者ではありません。運命は創るものというスタンスに立っております。そういうことにつながる一冊の書物についてご紹介します。それは、幕末から明治時代にかけて日本人のあいだで非常に普及した書物『陰隲録(いんしつろく)』です。実は、この本を直接読んだ訳ではありません。高名な東洋学者の安岡正篤の本『運命を創る~人間学講話』(プレジデント社、1985年12月)に紹介されていたものです。この安岡という人は、見方が分かれると思います。政財界の人の間で、人気が高く、また昭和天皇の終戦の詔勅に加筆して完成させました。国粋主義であり、第二次大戦中には大東亜省顧問もしていて、外交政策にも関わっていました。しかし東洋古典を研究すること深く、その人間学などについての言にも耳を傾けるべきところが少なくありません。良いものは良いという姿勢で、ご紹介する次第です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
運命を創るという章の文を、できるだけそのまま引用します。(読みにくいところ、冗長なところは適宜、省略したり修正しています)
”われわれ人間というものは、いくら頭がいい。腕があるといっても、それは実に非力なものでありまして、決して自慢にもうぬぼれにもなるものではない。人生にはわれわれ個人の浅薄な思想や才力の及ばない大きな生命の流れ、大きな力の動きがありまして、それに我々がどう棹さすか、いかにそれに関与するかということによって、われわれの実質的な価値や成敗が決まるのです。・・・若いうちほど決して漫然と時間を空費するのでなく。また、どんなにつらい経験でもこれを回避するものではなくして、どこまでも身をもってあらゆる経験を尊く学び取らなければならぬということをしみじみと感ずるのであります。”
”私たちに一番大切なことは、我々がいかに無力であるように見えても、自然の一物でさえも実に神秘な素質・能力を持ち、これを科学にかけると限りなき応用があるように、いわんや人間にはどんな素質があり才能があって、われわれの学問・修養のいかんによっては、どんなに自己を変化させ、どんなに世の中の役に立ち、世界をも変えることができるものであるということを確信して、決して自分の生活というものを軽々しくしないことであります。”
(『陰隲録』(いんしつろく)~袁了凡の教え(えんりょうぼん)
”『陰隲録』、これは西洋でも特殊な倫理学者・哲学者の中に「偉大な人生のダイナミックな学問」として非常な注意を惹いています。日本でも広くさかのぼっては、九州の名高い広瀬淡窓、あるいは中江藤樹がある。みな立派な学者であり、実践家であります。
世間では「袁了凡」(えんりょうぼん)の教えとしてよく知られています。”隲”とは、「定める」という意味の文字であります。冥々のあいだに定められているところのもの、すなわち大いなる天命の働きをいうのであります。これは『書経』のなかにある言葉であるが、この思想を自分の独特の思想とか体験とから民衆教化に応用して非常な業績を上げてのが袁了凡という人であります。(明の時代)
この人は幼いときに早く父に別れて母の手一つで育てられた。シナの知識階級は、日本でいうなら昔の高等官の試験みたいなものですが、すなわち科挙を受けて進士になるのが本道であります。袁了凡少年も、まとより科挙を受けて進士になりたがったが、家が貧しくて勉強の余裕が無い、そこで母のいいつけで、一番手っ取り早くものになるのは医者であるというので、その勉強をしていた。
ところが、あるとき孔(こう)なにがしという老人に会った。この人は人格・風貌ともに子供心にも立派に映ったが、この老人が袁(えん)少年をつくづく見て、「お前は何の勉強をしているか」と言う。「私はこういうわけで医者の勉強をしている」と答えると。「それは惜しい。お前は進士として立派に成功する人相を持っている。そういう運命の持ち主である。お前は何歳の時には予備試験で何番で及第し、第二次試験には何番で及第して、最後には何番で及第する、そうして進士になって何年何月に死ぬ、子はない」ということまで予言した。
孔老人が袁少年の将来を予言したが、少年はすっかり感激いたしまして、孔老人を家へ連れ帰って大事にもてなし、それから発心して大勉強して科挙に応じたのであります。ところが、不思議にも、孔老人のいったとおり年月に、云った通りの成績で及第した。ますます面白くなって第二次試験を受けたら、やはりその通りになった。以来、何事もすべて的中して間違いがない。彼は、ひとりでに社会的には成功したが、不幸にして子どもがない。人間の運命はちゃんと決まっておって、どうにもなるものではない。我々は出世しようとか、金を儲けようとか、いりいろ虫のいいことを考えてじたばたするのだが、これくらい馬鹿げたことはない。自分は子どももないし、何年何月に死ぬという寿命も決まっているから、この決まりきった短い人生に何を好んでつまらないことにあくせくするか、ということを徹底的に彼は感じ入ってしまった。そうして、他人と競争して出世しようとか、金を儲けようとかいう気持ちが青年にしてすっかりなくなってしまった。
あるとき、彼は仕事の関係で南京付近のあるお寺に滞在しておりましたところ、そのお寺に雲谷という禅師がおりました。ある日、雲谷禅師は袁青年を呼んで、「先日来あなたがここにいるのを密かに観察していると、お年に似合わずできておられる。どういう修行をしてそこまでの風格になられたか、参考のために承りたい」。こういうことを言われたので袁青年は驚いた。彼は、先にいったような一つのあきらめに到達して、もう普通の青年が持っているようなアンビションというものが抜けてしまったものですから、思うに人間が清く落ち着いてゆったりした風格になっていた。年があまり若い時にはそうはいかぬものですから、それで異様に雲谷禅師に映ったのでしょう。
袁了凡青年は別に何もそうむずかしい学問や修行をしてそういう境地に到達したのでないので、ありのままに、語った。「実は私は奇妙な体験を持っております。少年の時に医者の勉強をしていたところが、こういう老人がはからずも見てくれて、お前は進士になれ、必ず何年何月には何番で及第して云々と言ってくれたので、面白くなって勉強して試験を受けてみたらその通りになりました。爾来、少しも老人の予言が外れたことがありません。そこで、つくづく人生というものはもう予め決まっている、いわゆる陰隲(いんしつ)である、もう冥々のあいだに決まっている、我々が妄動したところで何もならないとあきらめて悠々と自然に任せているのであります。それで多少ほかの者と違うように禅師の目に映ったのでしょうか」
と言ったところが、雲谷禅師が急に態度を一変して「なんだ、そんなことか。それじゃお前はまことにつまらぬ人間である。これは大いに見損なった」と噛んで吐き捨てるように言われました。意外に思って袁青年が「それはまたどういうことでありますか」と尋ねたところ、雲谷禅師は容(かたち)を改めて、
「お前のあきらめ、お前の悟りというものは、きわめて一面的であり低級幼稚なものである。なるほど、人間には運命というものがある。しかしながら、その運命というものがいかなるものであるかは、一生かかって探求しても分かるか分からぬものである。
我々が一生学問修行して、自分の運命がいかなるものでるかということを調べてみて、初めて自分の運命というものがこういうものであるということが分かる。棺を覆うて後に定まるものである。そんな一老人の観察予言などで決まってしまうような無内容なものでは決してない。なるほど、われわれは運命というものを持っているけれども、運命というものは学問によって限りなく知らるべきものであり、修行によって限りなく創造せられるものである。運命は天のなすものであるとともに、また自らつくるものである。
そう言われて、彼は満身冷汗三斗、がくぜんとして初めて目が覚めた。雲谷禅師は、言う。「絶えざる思索と実践によって日々に新しい創造的生活をする身となって学問修行をしてみたまえ。そうすれば君という人間がまたどうなってゆくか分からない。君の人生がどういうふうに変化してゆくか分からない。これを称して”立命”という。すなわち、今までは他律的な運命に支配され、宿命に支配されていたのであるが、今日より自由な身となって自己および人生を創造してみろ。そうしなければお前の運命なんか分かるものではない」
こう言われて彼は翻然(ほんぜん)として、それから新たなる生涯に入った。ところが、不思議なことに、それまで外れたことがない孔老人の予言がことごとく外れだした。そうして子供もできれば、死ぬと言われた年もはるかに過ぎてまだ健康でいる。そこで、人間というものは安価な運命感に陥ってはならぬ、どこまでも探求し、どこまでも理想を追って実践に励まなければならぬ。
それにはこういう哲学を持ってこういう修行をしろということを子供に書き残したのであります。それが四つの大きな章から成り立っているので、雲谷禅師によって初めて自分は世の常の人(凡)の心を悟った、了した、というので、了凡と号を変えたので「了凡四訓」という。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いささか長くなりましたが、こういう次第です。いわゆる運を天に任すのではなく。自ら道を切り開き、運命を創りあげる、そういう考え方でゆきたいと思います。最後になりますが、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第四楽章の楽譜を掲載します。ここでは、苦難から明るい未来へ続くような響きで始まります。厚い運命の壁を一つ一つ乗り越えて、いばらの道を前へ前と進む・・・。

”暗黒から光明へ”
余談ながら、この「運命」の演奏は第二次大戦後の1947年、不世出の名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが振ったウイーンフィルの演奏にとどめを差します。
またまた桜守のことは先に伸ばし、今日は「運命」ということについて考えてみたいと思います。よく、”それも運命である”とか”運命を甘受して・・・”ということを聞きます。いわゆる運命論者の云うところです。そういう受動的な考え方もあろうかと思いますが、以前にこのブログで「愁思」について書きました。
その中で、”運命を引きずり回して生きたい”といいました。そうです、ぼくは運命論者ではありません。運命は創るものというスタンスに立っております。そういうことにつながる一冊の書物についてご紹介します。それは、幕末から明治時代にかけて日本人のあいだで非常に普及した書物『陰隲録(いんしつろく)』です。実は、この本を直接読んだ訳ではありません。高名な東洋学者の安岡正篤の本『運命を創る~人間学講話』(プレジデント社、1985年12月)に紹介されていたものです。この安岡という人は、見方が分かれると思います。政財界の人の間で、人気が高く、また昭和天皇の終戦の詔勅に加筆して完成させました。国粋主義であり、第二次大戦中には大東亜省顧問もしていて、外交政策にも関わっていました。しかし東洋古典を研究すること深く、その人間学などについての言にも耳を傾けるべきところが少なくありません。良いものは良いという姿勢で、ご紹介する次第です。
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運命を創るという章の文を、できるだけそのまま引用します。(読みにくいところ、冗長なところは適宜、省略したり修正しています)
”われわれ人間というものは、いくら頭がいい。腕があるといっても、それは実に非力なものでありまして、決して自慢にもうぬぼれにもなるものではない。人生にはわれわれ個人の浅薄な思想や才力の及ばない大きな生命の流れ、大きな力の動きがありまして、それに我々がどう棹さすか、いかにそれに関与するかということによって、われわれの実質的な価値や成敗が決まるのです。・・・若いうちほど決して漫然と時間を空費するのでなく。また、どんなにつらい経験でもこれを回避するものではなくして、どこまでも身をもってあらゆる経験を尊く学び取らなければならぬということをしみじみと感ずるのであります。”
”私たちに一番大切なことは、我々がいかに無力であるように見えても、自然の一物でさえも実に神秘な素質・能力を持ち、これを科学にかけると限りなき応用があるように、いわんや人間にはどんな素質があり才能があって、われわれの学問・修養のいかんによっては、どんなに自己を変化させ、どんなに世の中の役に立ち、世界をも変えることができるものであるということを確信して、決して自分の生活というものを軽々しくしないことであります。”
(『陰隲録』(いんしつろく)~袁了凡の教え(えんりょうぼん)
”『陰隲録』、これは西洋でも特殊な倫理学者・哲学者の中に「偉大な人生のダイナミックな学問」として非常な注意を惹いています。日本でも広くさかのぼっては、九州の名高い広瀬淡窓、あるいは中江藤樹がある。みな立派な学者であり、実践家であります。
世間では「袁了凡」(えんりょうぼん)の教えとしてよく知られています。”隲”とは、「定める」という意味の文字であります。冥々のあいだに定められているところのもの、すなわち大いなる天命の働きをいうのであります。これは『書経』のなかにある言葉であるが、この思想を自分の独特の思想とか体験とから民衆教化に応用して非常な業績を上げてのが袁了凡という人であります。(明の時代)
この人は幼いときに早く父に別れて母の手一つで育てられた。シナの知識階級は、日本でいうなら昔の高等官の試験みたいなものですが、すなわち科挙を受けて進士になるのが本道であります。袁了凡少年も、まとより科挙を受けて進士になりたがったが、家が貧しくて勉強の余裕が無い、そこで母のいいつけで、一番手っ取り早くものになるのは医者であるというので、その勉強をしていた。
ところが、あるとき孔(こう)なにがしという老人に会った。この人は人格・風貌ともに子供心にも立派に映ったが、この老人が袁(えん)少年をつくづく見て、「お前は何の勉強をしているか」と言う。「私はこういうわけで医者の勉強をしている」と答えると。「それは惜しい。お前は進士として立派に成功する人相を持っている。そういう運命の持ち主である。お前は何歳の時には予備試験で何番で及第し、第二次試験には何番で及第して、最後には何番で及第する、そうして進士になって何年何月に死ぬ、子はない」ということまで予言した。
孔老人が袁少年の将来を予言したが、少年はすっかり感激いたしまして、孔老人を家へ連れ帰って大事にもてなし、それから発心して大勉強して科挙に応じたのであります。ところが、不思議にも、孔老人のいったとおり年月に、云った通りの成績で及第した。ますます面白くなって第二次試験を受けたら、やはりその通りになった。以来、何事もすべて的中して間違いがない。彼は、ひとりでに社会的には成功したが、不幸にして子どもがない。人間の運命はちゃんと決まっておって、どうにもなるものではない。我々は出世しようとか、金を儲けようとか、いりいろ虫のいいことを考えてじたばたするのだが、これくらい馬鹿げたことはない。自分は子どももないし、何年何月に死ぬという寿命も決まっているから、この決まりきった短い人生に何を好んでつまらないことにあくせくするか、ということを徹底的に彼は感じ入ってしまった。そうして、他人と競争して出世しようとか、金を儲けようとかいう気持ちが青年にしてすっかりなくなってしまった。
あるとき、彼は仕事の関係で南京付近のあるお寺に滞在しておりましたところ、そのお寺に雲谷という禅師がおりました。ある日、雲谷禅師は袁青年を呼んで、「先日来あなたがここにいるのを密かに観察していると、お年に似合わずできておられる。どういう修行をしてそこまでの風格になられたか、参考のために承りたい」。こういうことを言われたので袁青年は驚いた。彼は、先にいったような一つのあきらめに到達して、もう普通の青年が持っているようなアンビションというものが抜けてしまったものですから、思うに人間が清く落ち着いてゆったりした風格になっていた。年があまり若い時にはそうはいかぬものですから、それで異様に雲谷禅師に映ったのでしょう。
袁了凡青年は別に何もそうむずかしい学問や修行をしてそういう境地に到達したのでないので、ありのままに、語った。「実は私は奇妙な体験を持っております。少年の時に医者の勉強をしていたところが、こういう老人がはからずも見てくれて、お前は進士になれ、必ず何年何月には何番で及第して云々と言ってくれたので、面白くなって勉強して試験を受けてみたらその通りになりました。爾来、少しも老人の予言が外れたことがありません。そこで、つくづく人生というものはもう予め決まっている、いわゆる陰隲(いんしつ)である、もう冥々のあいだに決まっている、我々が妄動したところで何もならないとあきらめて悠々と自然に任せているのであります。それで多少ほかの者と違うように禅師の目に映ったのでしょうか」
と言ったところが、雲谷禅師が急に態度を一変して「なんだ、そんなことか。それじゃお前はまことにつまらぬ人間である。これは大いに見損なった」と噛んで吐き捨てるように言われました。意外に思って袁青年が「それはまたどういうことでありますか」と尋ねたところ、雲谷禅師は容(かたち)を改めて、
「お前のあきらめ、お前の悟りというものは、きわめて一面的であり低級幼稚なものである。なるほど、人間には運命というものがある。しかしながら、その運命というものがいかなるものであるかは、一生かかって探求しても分かるか分からぬものである。
我々が一生学問修行して、自分の運命がいかなるものでるかということを調べてみて、初めて自分の運命というものがこういうものであるということが分かる。棺を覆うて後に定まるものである。そんな一老人の観察予言などで決まってしまうような無内容なものでは決してない。なるほど、われわれは運命というものを持っているけれども、運命というものは学問によって限りなく知らるべきものであり、修行によって限りなく創造せられるものである。運命は天のなすものであるとともに、また自らつくるものである。
そう言われて、彼は満身冷汗三斗、がくぜんとして初めて目が覚めた。雲谷禅師は、言う。「絶えざる思索と実践によって日々に新しい創造的生活をする身となって学問修行をしてみたまえ。そうすれば君という人間がまたどうなってゆくか分からない。君の人生がどういうふうに変化してゆくか分からない。これを称して”立命”という。すなわち、今までは他律的な運命に支配され、宿命に支配されていたのであるが、今日より自由な身となって自己および人生を創造してみろ。そうしなければお前の運命なんか分かるものではない」
こう言われて彼は翻然(ほんぜん)として、それから新たなる生涯に入った。ところが、不思議なことに、それまで外れたことがない孔老人の予言がことごとく外れだした。そうして子供もできれば、死ぬと言われた年もはるかに過ぎてまだ健康でいる。そこで、人間というものは安価な運命感に陥ってはならぬ、どこまでも探求し、どこまでも理想を追って実践に励まなければならぬ。
それにはこういう哲学を持ってこういう修行をしろということを子供に書き残したのであります。それが四つの大きな章から成り立っているので、雲谷禅師によって初めて自分は世の常の人(凡)の心を悟った、了した、というので、了凡と号を変えたので「了凡四訓」という。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いささか長くなりましたが、こういう次第です。いわゆる運を天に任すのではなく。自ら道を切り開き、運命を創りあげる、そういう考え方でゆきたいと思います。最後になりますが、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第四楽章の楽譜を掲載します。ここでは、苦難から明るい未来へ続くような響きで始まります。厚い運命の壁を一つ一つ乗り越えて、いばらの道を前へ前と進む・・・。

”暗黒から光明へ”
余談ながら、この「運命」の演奏は第二次大戦後の1947年、不世出の名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが振ったウイーンフィルの演奏にとどめを差します。
なかなか含蓄のある言葉と説明になるほどというものを感じます。
やはり小生も貴兄と同じように人生は運命で決まるものではなく運命を切り開いていくものと思います。
「運命は天のなすものであるとともに、また自らつくるものである。」
この言葉の通りと思います。よい話をご紹介頂き有難うございます。
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
我々老人にとっては最後の行が問題となりますが、「死して朽ちず」をいかに解釈するかという問題になります。死して名声を残すという解釈と、己の勉学の道が死によって閉ざされることを潔しとするかの、二つの解釈があります。後者の解釈は否定的なものでなく、学により「生き抜いていく」という意味になります。これに対応する孔子の弟子の呂新吾の「呻吟語」に次の論があります。
貧不足羞可羞是貧而無志
賤不足悪可悪是賤而無能
老不足嘆可嘆是老而虚生
死不足悲可悲是死而無聞
最後の行の「無聞」を「聞こゆるなくなり」とするか、「聞くなくなくなり」とするかにより、前述のように解釈が異なると言います。貴兄の文と直接関係がないようなことを書いていますが、底流に共通した哲学があるように思います。
こむつかしい文をお読みいただき、まことにありがとうございます。大兄とは、運命について同様な考え方のようでうれしく思います。と、いうことで遊びの道もご一緒に切り開いてゆきましょう。
長文お読みいただき、ありがとうございました。また思われる処を古書を引いて開陳いただきありがとうございました。じっくり読ませていただきました。言志四録のことばは、「死んでもその人望は朽ちない”と理解してきました。なにせ、佐藤一斎が、最後の言志耋録を書いたのが80歳をすぎてからですから。本人の気持ちは、そうあったのかなと思っています。
それより、『呻吟語』 懐かしいですね。80年代のプロジェクト時代に読みふけりました。もっとも共感を覚え、そのようにと思ったのが”沈静”です。修行が足らず、なかなかその境地に達しませんでしたが。 この本について、大兄とお話をできるとは、まことに嬉しき極みです。記事との関連で、引いておられる”貧、賎、老、死”の節ですが、「嘆くべきはこれ老いて虚しく生きるなり・・・」ということで、ご指摘のようにブログに書いたことと、底流を流れる哲学は相通ずるものがありますね。真剣に読み解いていただき、とても嬉しく思った次第です。ありがとうございました。