(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『ある禅者の夜話』(正法眼蔵随聞記)

2019-10-31 | コラム
読書 『ある禅者の夜話』(正法眼蔵随聞記)
もう40年以上前に手にとった本を読み返してみると、いまだにその時の熱い思いが蘇ってくる。それを語ることは、人様にお見せするようなものではないかもしれないが、私のプライベートなメモワールのようなものであるとしてお許しいただきたい。

 平安末期から鎌倉時代にわたって新しい仏教が澎湃として興ってきた。浄土宗/浄土真宗/日蓮宗/臨済宗/曹洞宗などなど。このうち曹洞宗は中国で学んだ道元禅師により、興されたもので、彼は『正法眼蔵』(全95巻)という厖大な書物を書き残した。

 私は長い間にわたってこの本を読み、また紀野一義師(故人)の講演を聞き、正法眼蔵の深い世界に分け入った。13世紀に書かれたこの本は宗教書というよりは、世界最高の哲学書・思想書の一つと受け止めている。しかし、これは極めて難解なものであり、その源流である法華経にまで遡らねばならない。幸い昭和46年に禅文化学院長の中村宗一氏が、その意訳を原文と併記する形で4巻にわたる書物にまとめられた。それでも読み通すには、深い思索と忍耐が必要である。

 ここに掲題の「正法眼蔵随聞記」が登場する。道元禅師の弟子の孤雲懐奘(えじょう)が、道元が夜、何気なく話されたことを記録にとどめたもので、文庫本にして130ページに満たないものである。それでも、その真髄を深く理解するのは、そうたやすいことではない。仏教学者紀野一義師は、その倍ちかいページを費やして、私たちが理解できるように『ある禅者の夜話』と題した書にまとめてくれた。今回は、その本の中からいくつかの印象に残ったところを引きつつ、私自身の感想も含めてご覧に供することにしたい。

     ~~~~~~~~~~~~~~~


 『ある禅者の夜話』の表表紙の裏には、次のような感想をメモしてあった。

 ”初めて読んだのは、豪州はモーウエルのモーテル<ファーナムコート>の一室。石炭液化プロジェクトで、人間の問題に頭を痛めていた時である。まさに、食い入るようにして読んだ。書かれている内容は、いちいち胸に染み入るように入ってきた”


(切に思ふことは必ず遂ぐるなり)随聞記第三の十四の一節

 ”切に思ふことは必ずとぐるなり。強き敵、深き色、重き宝なれども、切に思ふ心
  深かれば、必ず方便も出來る(いでくる)様はあるべし。これ天地善神の冥加もありて必ず成するなり”


 (ゆらぎの解説)この前段で、ある僧が道元に、「親ひとり子ひとりであるが、世間からの扶持によって生活している。恩愛も深く、孝順の志も深い。もし私が遁世籠居すれば、母は一日の活命も難しい。それでも(仏)道に入るべきというならば、どういう道理で言われるのであろうか」、と聞いている。道元は、たしかにそれは難しい。しかし、よくよく考えて、さまざまな支度や方便(やりかた)も考えて母御の安堵も支度して仏道に入れば、両方ともによいことである。しかし、もし母親が長寿をたもち、(仏道にはいる)支度ができないときは、自分自身は仏道に入る事ができないのを悔やみ、老母はそれを許さなかった罪に沈む。もし今生を捨てて仏道に入ったのであれば、老母はたとえ餓死するとも、吾が子を道に入らしめた功徳は得道の良縁であろう。


 この問いかけの背景は別として、私は、「どんなに困難なことでも、いずれは実現するあるいは解決できると信じていれば、必ずやりようはある」と受け止めたのである。強い願望を持ち、希望を保ってやり続けることが大事である


紀野一義師はこの一節を『ある禅者の夜話』の冒頭で、取り上げている。
「正法眼蔵随聞記はわたしの座右の書である。17歳のころから49歳の今日まで実に三十年以上もひもとき続けて来た。最初に打たれたのは第三の十四の一節にある、「切に思ふことは必ずとぐるなり」という一語であった。あっと思ったきり、目が放せなくなったのは昨日の日のようである。戦争に行くときも、『万葉集』『歎異抄』とともに行李の底に入れていった。そのころ切に思いつづけていたことは、部下を殺さぬこと、自らは日本人らしく死ぬことであった。死ぬことなく故国へ帰還してから25年、今私が切に思うことは、世界に戦争がなくなり、有縁の大勢の人々が天命を全うしてくださることである。


(玉は琢磨によりて器となる)随聞記第四の五の一節

 ”嘉禎二年臘月除夜、始めて懐奘を興聖寺の首座に請す(こうす)。すなわち小参の次いで、初めて秉払(ひんぼつ)を首座に請う。これ興聖寺最初の首座なり。小参のおもむきは、宗門の仏法伝来の事を挙揚(こよう)するなり。・・・当寺始めて首座を挙揚し、今日初めて秉払を行わしむ。衆の少きを憂うることなかれ。身の初心なることをかえりみることなかれ。扮陽(ふんようは僅かに六七人、薬山(やくざん)は僅かに十衆(じゅっしゅ)に満たざるなり。しかあれども皆仏祖の道を行じき。これを叢林のさかんなるといいき。見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹あに利鈍あり迷悟あらんや。花なんぞ浅深あり賢愚ならんや。花は年々に開くれども人皆得悟するにあらず。竹は時々に響けども聞くものことごとく証道するにはあらず。ただ久参修持の功により弁道勤労の縁を得て悟道明心するなり。これ竹の声の独り利なるにあらず。また花の色の殊(つと)に深きにあらず。竹の響き妙なりといえども自ら鳴らず、瓦の縁をまちて声を起こす。花の色美なりといえども独り開くるにあらず、春風を得て開くるなり。学道の縁もまたかくのごとし。この道は人人具足なれども、道を得ることは衆縁による。人人利なれども、道を行ずることは衆力をもってす。ゆえに今心を一つにして志をもっぱらにして、参究尋覓(さんきゅうじんみゃく)すべし。

 人は練磨によりて仁となる。いずれの玉か初めより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれを琢磨し練磨すべし。みずから卑下して学道をゆるくすることなかれ。、古人の云わく、光陰空しくわたることなかれと。今問ふ、時光は惜しむによりてとどまるか惜しめどもとどまらざるか、すべからく知るべし。時光は空しくわたらず、人は空しくわたることを。人も時光と同じくいたずらに過ごすことなく、切に学道せよと云うふなり。”

 紀野一義師は『ある禅者の夜話』で、次のように言っている。

 「この一節は、日本人にとって書かれた男性的な文章の代表ともいうべきものである。和辻哲郎先生はこの第四の五に『随聞記』のもっとも高揚したところがあると言われている。・・・さてその正法が今日にひろまっているひとつのあらわれとして、当興聖寺においてはじめて首座を定め、その首座に私の代りに説法をさせるのである。自分がまだ初心者であることを心配してはならぬ。薬山禅師には、わずか十人の弟子しかいなかった。
それでも皆仏祖の道を行じた。これこそ叢林のさかんな時といったのである。見よ、香厳智閑は、掃除をしている時瓦が竹の林の中に飛び込んでカチンと鳴る音を聞いて悟りを開いた。竹に利鈍、迷悟があるだろうか。霊雲志勤は、山の麓から村里を眺め、桃の花が咲いているのを見て悟り開いた。花に浅深、賢愚があるだろうか。花は年々開いているけれどもその花を見た人が皆悟りを開くわけではない。・・・なぜ悟るかといえば、長いあいだ参禅して努力することにより、、道をわきまえ、修行の労を一生懸命やることによって、道を悟り心を明らめるのである。花の色が美しいからといっても独りで開くということはない。春風が吹き来たってはじめてひらくのだ。学道の縁もかくのごとしである。・・・玉は磨くことによって本当玉になる。人も練磨することによって本当の人になる。どんな玉が最初から光があるか。どんな人が初めから聡明であるか。石頭希遷禅師は、光陰空しくわたることなかれ、と言っている。お前たちに言おう。時光(時間と空間)は惜しむことによってとどまるのか。惜しんだとてとどまらないのか。時間も空間も移ってゆくというけれども、時間や空間が空しくわたるのではなく、人間が空しくわたるのである。時間や空間は人間に関係なく動いている。空しくわたっているのは人間なのである。だから時間が空しく過ぎたなどと言ってはならない。時間は空しく過ぎてゆくのでない。勝手に人間が空しくわたっているだけである。人も時光もおなじくいたずらに過ごすことなく、、切に学道せよというのである。」


 (ゆらぎ思うに)初めから”玉”のように光を放ち、出来上がっている人は、あまりいないが、常に学びつづけることによって、人間的に完成してゆく。できないと、思って努力を惜しむようなことがあってはならない。 

 京都大学の総長であった平澤興(昭和32年)は、”人は単に年をとるだけではいけない。どこまでも成長しなければならぬ”、と言っているが、その彼がそこに至るまでには限りしれない努力を積み重ねている。そして、愚直な人間でもでも、その努力の積み重ねによっていつのまにか凡人の域を超えることがあり得るのだ、ともいっている。このことばには、大きく励まされたという思いがある。「ミスター半導体」こと東北大学総長であった西沢潤一氏も”愚直一徹”と同様なことを言っている。仏教の教えからは離れるが、ここの道元の言には強い共感を覚える。


 
(ただ心身を放下して)随聞記第五の六 

 ”一日示していわく、仏法のためには身命(しんみょう)を惜しむことなかれ。俗なを道のためには身命をすてて、親族をかえりみず忠を尽くし節を守る。・・・
いわんや納子(のっす)の仏道を存するも、必ずしも二心なきとき、まことに仏道にかなうべし。

仏道には慈悲智慧 もとよりそなわる人もあり。たとひ無きひとも学すれば得るなり。ただ心身ともに放下して、仏法の大海に回向して、仏法の教えに任せて、私曲(しきょく)を存ずることなかれ。また漢の高祖の時、ある賢臣のいわく、「政道の理乱は縄の結ぼれおるを解くがごとし。急にすべからず。よくよく結び目を見て解くべし」と。仏道もまたかくのごとし。よくよく道理を心行ずべきなり。”

 紀野一義は、次のように解説している。
「納子(のっす)の仏道、というのは達磨大師以来ずっと続いている禅宗のお坊様の仏道ということである。その仏道を行ずるには、二心があってはならない。絶対に二心がないときにまことに仏道の叶うのである。仏道を修行する人たちの中には、慈悲や智慧がはじめから備わっているひともある。たとえそれがない人でも、仏道を学んでいるうちにそれを得ることができる。

「ただ心身をともに放下して」という時の、この「ただ」が大切である。「只」ということを道元禅師は非常に重んじた。「只」というのは「もうそれしかない」ということである。道元禅師は、座禅するときに「只管打座」(しかんたざ)といわれた。「只管」を「ひたすら」と読む人がいる。しかし「ひたすら」と読んではいけないと思う。「ひたすら」というと、それは一生懸命ということになる。無理をしてでも一生懸命にやる。それが「ひたすら」である。「ひたすら勉強する」といえば、あまり勉強したくないけれども、しかたがないととにかく一生懸命やらなくては、という気持ちが入っている。そこには一点、濁りがある。それと「ただ座る」というのとは違うわけである。ただ勉強する、ただ何々する、その「ただ」というのが大切なのである。

だからこの「只管打座」は、ひたする座禅をする、ということではないのである。ひたすら座禅するのは、本当の座禅ではない。ひたすらとか、ひたむきにというから、座ったらどうなるかなどということを考えるようになる。それではならぬのである。

親切にするということを考えてみよう。ひたすら親切にするというのと、ただ親切にするというのは違うであろう。ひたすらという方は、これはやっぱり親切にしてあげなくてはいけないと考えながら親切にしている。ただ親切にしているというのは、親切にしてあげたらどうなるとか、この人は好きだから親切にしてあげるとか、そういう引っかかりがまるっきりない。引っかかりがあると、親切が親切にならぬのである。ただ愛するというのもその中に入る。私が好きな人だから、誰それを愛する。これはひたすらの方に入る。これは、いつ憎しみに転換するか分からない愛し方である。そうではなくて、ただ愛するのである。なにか大きな力にうながされて、ただ愛するのである」 

 後半の部分に触れて紀野一義は次のように云っている。後半の冒頭にある私曲というのは、自分だけの間違った考えかたという意味である。自分勝手に考えた間違った考えかたをもつような事があってはならない、はじめから師匠の云うとおりにすべきと、言っている。ここのところは詳しくは省略する。

 「漢の高祖に、ある賢臣がこういうことを言った。「政道の理乱は縄の結ぼれおるを解くがごとしと」 理乱とは乱れをただすことである。政道の乱れをただすことは、縄が結ぼれたのを解くようなものである。「急にすべからず。よくよく結び目を見て解くべし」。縄の結び目というものは、丁寧に小口から引っぱっていって、するするとほどいてゆくのが一番である。結局そのほうが早い。癇癪をおこして無理に引っ張れば、もう解けなくなる。だから腹をたてないでどうしてそうなったか考えることだ。結ぼれるには時間がかかっているのだから、解くにももっと時間がかかると思うべきである。

 自分の心の中のしこりもまた同様である。何年もかかってできたしこりを、すぐに取ろうという方が無理である。だから時間をかけてだんだんい解くというのも楽しみである。少しづつ少しづつ解けてゆくのがいいのである。「仏道もまたかくのごとし。よくよく道理を心得て行ずべきなり。・・・」



 (ゆらぎ思うに)随聞記のなかの、「只管打座」というときの、”ただ”という言葉は、紀野一義は繰り返し述べているが、仏の道の修行から離れ、一般論として考えてみるなかなか難しい。”ただ愛する”というのは、どういう場合を指すのであろうか?ある女性を、美しいとか可愛いとか思って愛するのは、ひたすら愛するということになる。母親が、生まれたばかりの幼児を可愛がるのは、理屈抜きに可愛いから愛する。可愛くても、見た目に可愛くなくても可愛がる。これは、”ただ”愛するのであろう。最近は、その幼児を痛めつけて死に至らしめてしまうケースが多々あるが、まことに理解に苦しむ。そういう行動をとる母親は、その母親から”ただ”愛されてはこなかったからではないか。

少し脱線するが、プロゴルファーに例をとると、彼もしくは彼女は、上手くなって人よりも上に立ちたい、また人から認められたい/尊敬されたいと思ってハードな練習をする。これは、”ひたすら”の方である。道元先生に反論するようだが、”ひたすら”な取り組みも意味がある。話は変わるが、世の中に絵を描くのを楽しんでいる人は数多くいる。彼らは楽しみで絵を描いている。そういう絵を絵画展に出品して人様にみてもらうのを楽しみにしている。そのような絵を見ていると、ほとんどの人が”上手な絵を描きたいと”と思って描いていることが、如実に伝わってくる。それも悪くない。しかし、美しい自然に感動して、それを伝えようとする気持ちよりも、うまい絵を描くという気持ちが伝わってくることが多い。そういう絵は、”うまいなあ”とは思うけれど、あまり印象に残らない。これは、”ひたすら”描いているからだ、・・・あまりいい例ではないかもしれない。間違っていたらご容赦ください。
具体的な絵ということで、マティスの絵(赤い食卓)について触れる。この絵は、”ひたすら”という域を遥かに越えているように思う。もちろん、巨匠マティスにとってみれば、一生懸命描くという域は遥かに越えており、遊戯三昧というような境地で描いているのではないか。”ただ”、の境地であろう。だから心を惹かれるのである。

     



(よき言葉は耳に逆らう)随聞記 第五の十三

 ”一日示していわく。世間の人多くいう。「それがし師の言(ことば)を聞けどもわが心に叶わず」と。この言は非なり。・・・学道の用心というは、わが心に違えども、師の言、聖教の言理ならばまったくそれにしたがって、もとの我見をすててあらためゆくべし。こ心が学道第一に故実なり。われ昔日(そのかみ)、わが朋輩の中に我見を執して知識をとぶらいける者ありき。わが心に達するをば、心得ずといいて、我見の相(あい)かなうをば執して、一生むなしく過ぎて仏法を会(え)せざりけり。われそれを見て智発してしりぬ。学道はしかるべしと。かく思いて師の言にしたがって、まったく道理を得て、その後看経(かんきん)のついでに、ある経にいわく、「仏法を学せんと思はば三世の心を相続することなかれ」と。誠に知りぬ、さきの諸念旧見を記持せずして次第にあらためゆくべきなりということを。

書にいわく「忠言は耳に逆らう」いうこころは、わがために忠あるべき言葉は必ず耳に達するなり。違するとも強いて随い行ぜば、畢竟(ひっきょう)して益あるべきなり。”


 これについて紀野一義は次のように云っている。 

 「これもまた随分はっきりしたものの言い方である。世間の人はよく言う。「どうも先生の言うことは、わたしの気持ちにぴったりこない。」と。これに対して道元はぴしゃっという。こういう時、道元は、弟子の方にも道理があるだろう、などということは一言も言わぬ。「この言は間違っている」とはねつける。どういうわけかというと、師は経典に説かれている道理をきちんと踏んで教えを説いていうのであるから、その師のいうことがぴんと来ないのは、聖教の道理そのものが自分の心に違背しているということになる。・・・師の言うことがどうしても自分の心に叶わないというのなら、なんではじめから師匠に問うのか。・・・・これくらい手厳しくやらなければ教えるなどということはまずできないと思う。教えるということがただ知識を教えるというだけのことであったら、この間言ったことは違っていたよ、ですむであろう。 しかし仏教というものは、知識を教えるのではない。自分がこの人生を生きているという真実を教えるわけであるから、この間は言い違えた、今は考えが変わったというようなことではならぬのである。・・・・
 
 その後経典を開いていたところ、ある経の中に「仏法を学せんと思わば三世の心を相続することなかれ」と書いてあった。「三世の心」というのは、時間的に移り変わる心である。過去・現在・未来と時間的に移り変わって行く心を、同じものとして引き継いだりしてはならぬというのである。人間の判断とか、ふつう私たちが心と呼んでいるものをあまり信用するなというのである。                                                                 
さらに(忠言は耳に逆らう)という言葉について、次のように解説を加えている。

 『孔子家語』という本の中に、「忠言は耳に逆らう」ということが書いてある。「わがために忠なるべき言」というときの「忠」は、日本人が考える「忠」とは違う。中国人がいう「忠」は、「まごころ」のことである。まごころのあることばというものは、必ず耳に逆らうものだ。気に入らないものだ。しかしその心を押さえ、そのことばの通りに実行してゆけば、かならず利益があるのだ、という。

 世間には、わざわざこちらの腹を立たせるようなことをいう人間がいる。そうすると、あんないやな奴とはもう付き合わない、とすぐ考える。ところが「忠言耳に逆らう」であるから、いやなことをいわれたら、ああこれが本当の忠言、誠実な言葉は、真実わたしを大切にしてくれることばだなと考えて、いわれたとおりにせよというのである。しかし実際に自分の妻や夫から耳に逆らうようなことを言われると「何お」とすぐに反発する。それではなるまい。そういう時にこそ、この一節を思い出さなくてはならぬのである。 

 人は自分にとって大切な師を持たねばならぬ。自分にとって大切な人だと『思えば、その人にいやなことを言われてもありがたいと思える訳である。


 (ゆらぎ思うに)仏教の道においては、大切な師を持つことを強調している。そこから離れ、私たち凡人は日常生活において、どのように受け止めればよいのであろうか。
”自分にとって大切な師を持たねばならぬ”、と言われても、そうそう容易なことではない。私自身、大学の学部の時、”この教授について学びたい”と思うような師との出会いはなかった。自分が学んできた古い知識を振りかざす教授がほとんどで、絶望的になったこともあった。今なら、アメリカの大学へ行って勉強しようと思うかもしれないが、当時は学費にも事欠くありさまであった。よき師との出会いは、なかなか容易ではない。

吉川英治の『新書太閤記』を読むと、主人公である秀吉のあるエピソードが描かれている。”我れ以外みな我が師也”と、しているのであった。彼は一個の秀吉だが、智は天下の智を集めていた。周智を吸引して本質の中にろ過していた。・・・彼は自分を、非凡なりとは自信していたが、我は賢者なりとは思っていない。・・・秀吉は、卑賤に生まれ、逆境に育ち、とくに学問する時とか教養に暮らす時などは持たなかったため、常に接するものから必ず何かを学び取るという習性を備えていた。だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりではない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼はその者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとしてきた””我れ以外みな我が師”という言葉は、印象に残る。



 さらに紀野一義師は言う。(心の奥に木魂が鳴りわたるように)

 この頃は他人のことばに耳を傾けるということがなくなった。言葉を大切にしなくなった。これは現代人がテレビや週刊誌に耳目を奪われているからである。三十分の間の、人間の一生を描き出そうなどというつまらぬことを考えるから、しゃべってしゃべって、しゃべりまくるということになる。もう少し、みのりのあることをゆっくりしゃべってもらいたいと思う。ところが、ゆっくりしゃべると、知性の低い俳優はすぐに馬脚をあらわす。早くしゃべるからごまかせるので、ゆっくりやれといわれたら困るのである。・・・・能の舞台で、すぐに上手下手がわかるのは、動きが極端に遅いからである。あれを早くやったら変なものである。
 昔はおばあさまなどが、孫にゆったりとおとぎ話などしてくれたものであった。孫たちは、ゆったりと語りかけるおばあさまの話にゆったり耳を傾けて聞きほれ、それを生涯忘れなかったものである。言葉に耳を傾ける、という習慣がなくなった今日の日本人は不幸せなことである。・・・・

 いつか、何気なしにテレビをつけたら、長崎県下にキリシタン村の報道をやっていた。長崎には隠れキリシタンの村がたくさんある。その村の老婆が、教会へ行ってお祈りしているときの顔などを映していたのでじっと見ていたのでる。あとで、どうして自分は一生懸命見ていたのかな、と考えてみた。その番組は、言葉はほとんどなくて、祈っている顔だとか、お墓ばかり映しているのであった。その墓は、みんなキリシタンの弾圧で死んでいった人たちの墓である。あとは静かな海辺の村の風景が映っていた。ときどき詩のようなことばで、それを解説しているのである。その解説がまた実にいいのである。

 こういうテレビはこちらも黙って見入るようになる。ことばが少なければ少ないほど、人間は耳を傾けるようになるのではあるまいか。自分の言うことを人に聞かせたいと思ったら、あまり能弁にしゃべらぬ方がいいのである。・・・
 道元禅師はいつでも、どうしても聞いて貰わなくてなならぬと思っている。聞いてもらおうと思うときに、「そうではないでしょうか」とは言わぬ。「そうなのだ、そうなのだ」という。・・・本当に聞いて貰おうと思ったら、大切なことを、すこしずつゆっくりと、相手のこころの中へ木魂が響きわたるように、呼びかけるということしかない。道元禅師は、夜懐奘とふたりきりの時、あるいはちょっとした集まりのときに。弟子の心の奥に木魂が鳴り渡るように、短い、余韻の深い言葉で語りかけられたのである・弟子たちがわすれられなくなったのも当然である。・・・具体的のいえば、自分のそばにいる人にやさしい言葉で、ゆっくりと、語りかけなくてはならない。語りかけたことばがひとつずつ、相手の心に沈んで行き、木魂が鳴り渡るように相手の魂を揺り動かすようでなくてはならない。


  (ゆらぎ思うに)冒頭の文の中に、能の舞台のことが出てくる。舞台の上で、能役者は、ゆっくり足をすすめる、ということが出てくる。能の足の運び(運歩)は、すり足といい、つま先を少し上げつつ足を静かに滑らせる。やってみると分かるが、簡単なものではない。ゆっくりしゃべるというのも、そう優しいことではない。己の心が落ち着いていないと、どうしても話し方は早くなる。時々、テレビでアナウンサーや解説者などが話をしているのを聞くことがあるが、総体に早口である。そして、何でもかんでも伝えようとする。

”相手のこころの中へ木魂が響きわたるように、呼びかける”、という意識がある程度ないと、ゆっくりと話をすることはできない。ちなみに、チェロを弾く場合でも、ゆっくりと弾いて、音がぶれない、ゆれないのは意外にむずかしい。相当の意識が必要である。



     ~~~~~~~~~~~~~~~

 『正法眼蔵随聞記』の中の文の、ほんの一部をご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

 仏教学者で駒沢大学名誉教授の酒井得元氏(故人)は、敗戦を北満の地で迎え、シベリアの地で捕虜になりました。ある時、書籍類の半焼の灰燼の中から『正法眼蔵随聞記』の文庫本を発見し、その奇跡に感激して肌身離さず持ち歩いた、とのことです。明日の運命が、どうなるかまったく保証のない不安な流浪の中で、この本は生きる勇気を与えてくれたと語っています。

 私にとっては、この本からさらに進んで『正法眼蔵』に親しむようになり、それはある意味人生のバックボーンとなったような気がしています。











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感想 (九分九厘)
2019-11-02 14:44:16
40年以上にわたり道元の「正法眼蔵」に馴染み、バイブルのごとく座右の書として
愛読され、そして己の生き方を道元の教えに照らし合わせてみる。こうしたゆらぎさん
の生き方に先ずは敬意を表します。真似ができないということもありますが、既に
そうした時間も残り少なくなった私にとって一寸羨ましい気もします。
 手元に中村壮一の書がありますので、かつて読んで気になっているところを読み返すと
前に読んだときの印象と変わっていると感じる文も出てきます。道元の言葉は同じ人にでも
時が変わると解釈が違ってくる、人が変わると解釈も変わってくる代物と思っています。
現在は、空海の自著を読み進めていますが、空海の使う「仏語」と「正法眼蔵」の仏語目次
が共通するところに焦点をあてて、「正法眼蔵」を拾い読みしているような次第です。
中村宗一の解釈自体もよく吟味せねばと思う時もあります。しかし、それが単なる私の
浅学さ故のことに気がつくこともあります。空海も道元も言わんとすることは同じで、
どうやら修行の仕方の違いであるような気がしています。道元はもちろん空海のことも、
まだまだ何もわかっていない身ですので、いつの日かゆらぎさんとゆっくり話ができる時を
楽しみにしています。
返信する
お礼 (ゆらぎ)
2019-11-04 17:35:41
九分九厘様
 雑文にお目通しいただきありがとうございました。空海の本と正法眼蔵に、未だに眼を通しておられる由敬服の至りです。『正法眼蔵』は、やはり原本に当たるのがいいですね。音読して、あのリズム感を味わうと忘れられなくなります。さらには、法華経まで遡らねばなりませんが、幸い『法華経の風光』(全5巻)という紀野一義の解説本があります。

それはともかく、他日『正法眼蔵』のどこが一番印象に残ったのか、などと酒でも酌み交わしながら語り合う機会があるといいですね。
返信する
羨ましき座右の書 (龍峰)
2019-11-05 16:43:58
ゆらぎ 様

まず最初に冒頭にある40年来『ある禅者の夜話』(正法眼蔵随聞記)を読み返し、帰依されていう言葉に心打たれます。敬意を表するとともに、とても羨ましく思います。よく耳にする言葉に次の話がある。戦国時代、大将は3種類の異なる人を持てと。一人は優れた参謀、次は坊さん、そして素浪人である。参謀は言うまでもないが、坊さんはただ人の道を説く、素浪人は大将といえども遠慮することなく世間の本音を言う。そして大将はバランスを取った考えで道を誤ることなく、天下をとる。
ゆらぎさんは若くして、道元という坊さんを心に得て、人生を歩んでこられたのである。実に、偉いと思う。人生を透徹する慧眼を若くしてお持ちでした。
お会いすればいつもニコニコされているが、時々鋭く物事の本質をつく言を吐かれる。やはり人生に一本筋を通してこられた方なのだと、今にして納得するところです。
以前本屋で偶然秋月龍珉氏の「正法眼蔵の奥義」という本を手にし、買い求めた。残念ながらその後棚の奥に眠っていたが、この機会に少しづつ読み進めてみようと思う。
今回書かれている一節一節はすぐに納得できるところもあれば、新しく発見するところもある。特に「只管打坐」や「よき言葉は耳に逆らう」の一節です。
今回も含蓄のあるエッセイを読ませて頂き有難うございました。
返信する
お礼 (ゆらぎ)
2019-11-06 11:39:22
龍峰様
 拙文にお目通し頂いた上で、過分なお言葉を頂戴し恐縮です。取り立てて申し上げるほどのことではありませんが道元の「正法眼蔵」を音読していますと、リズム感があり、格調も高いので気に入って繰り返し読んできました。多分、小生の性に合っているのかなと思っております。

 それにしても鎌倉仏教には、親鸞の語った言葉を記した「歎異抄」などもっと読まれて然るべきものがあります。できれば「正法眼蔵」や「歎異抄」は一節でも高校の教科書で取り上げて欲しいなあと思っています。「枕草子」、「方丈記」、「源氏物語」などが多く取り上げられていて、骨太なものはありません。
返信する

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