りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その18-③ 三島~

2016-07-13 08:35:00 | 旧東海道散歩
しばらく旧東海道を進むと・・・江戸から29番目の「伏見一里塚」。
玉井寺(ぎょくせいじ)の一里塚は当時のままですが…


宝池寺(ほうちじ)の一里塚は復元されたものです。


江戸時代にはこの辺りに「立場」(人足、駕籠かきが休息した場所)もありました。

玉井寺には「白隠の遺墨(いぼく)」があるそうです・・・が、この時は遺墨(故人が書き残した書画)の意味もわからず、後に知ることとなる有名な「白隠」にも興味がないため通過。


八幡神社の境内にある「対面石」。




1180年源頼朝と源義経が初対面し、腰を下ろしたと云われる石です。
義経の人生で最も幸せだった時・・・と想像します。
この時は涙を流して喜び、平家打倒を誓い合った兄弟ですが、その後義経は頼朝に追われる身となります。
京都の鞍馬山では幼少期の義経「牛若丸」に触れ、岩手県平泉では終焉の地と云われる「高館義経堂」を訪れました。
旧東海道散歩では「義経首洗い井戸」や「白旗神社」に立ちも寄りました。
この石に座り義経の人生を思うと・・・とても切ない気持ちになりました。

「長沢松並木」を進むと・・・


護良(もりなが)親王の御陵がある 「智方神社」。


護良親王は、鎌倉時代後期、後醍醐天皇の皇子として生まれました。建武の新政で一時は征夷大将軍となりますが、足利尊氏や後醍醐天皇に反目したことで鎌倉に幽閉され、殺されてしまいます。側に仕えていた公家の藤原保藤の娘、南方が、親王の首をここまで持ってきましたが、黄瀬川を渡ることが出来ず、諦めてここに葬ったと云われています。

黄瀬(きせ)川を渡り、清水町から沼津に入ります。遠くに見えるのは愛鷹山。夕焼けがとてもきれいでした。


亀鶴姫の碑がある「潮音寺」。


亀鶴姫は駿河の三美人とまで言われた賢女でしたが、両親とは幼い頃に死別。源頼朝が狩の宴に招こうとしましたが応ぜず、18歳で黄瀬川の上流の瀧に身を投げて亡くなったと云われてます。(一説には、曽我兄弟に仇討された工藤祐経(すけつね)の後を追って亡くなったとも云われています。)
亀鶴姫が残した歌
「み仏の 深きめぐみぞ 頼みなる 身は瀧きつ瀬のあわと 消ゆとも」

「沼津領傍示(ほうじ)石」

1777年に建てられた沼津藩の領域範囲を示す石で、「従是西 沼津領」と彫られています。
ここからが沼津宿です。

国道1号線に合流。

niko道標には「駿府へ15里」。

狩野川。


狩野川沿いの狭い道を進むと「平作地蔵」。


「日本三大仇討ちの一つ・・・」という説明板がありましたが理解できず。それほどすごい人だったらもっと立派な建物にしてあげたら良いのに・・・などと思いながら通過しました。
後で調べると、平作さんは仇討ちをした人ではないことが判明。
仇討ちをしたのは娘婿の渡辺数馬。この娘婿のために、旅人から敵の居場所を聞き出すために自殺をしたのが平作さんでした。で、この男気に感動した地元の人々が平作さんが茶店を出していたこの場所に「平作地蔵」を建てたそうです。
何となく耳にしたことがある「荒木又右エ門」は渡辺数馬の義兄。
観たことはありませんが、映画や浄瑠璃では有名なストーリーの様ですね。

さらに進むと公園の中に江戸から30番目の「沼津一里塚」。


一里塚の手前にある大小の石柱は「玉砥石(たまといし)」。


古墳時代、この地方には装身具の玉類を作る人々が住んでいて「玉造郷」という村があったと云われています。
この石柱に付いている直線の溝は、玉類を磨いた痕跡・・・と云われているそうです。そのような貴重な砥石を雨ざらしで良いのででしょうか? 

三枚橋交差点の歩道橋を渡り・・・


沼津駅に到着!


JR東海道線で三島駅まで戻り…


お土産を購入して帰宅しました。


12,368歩の散歩でした。

(2015.12.19)






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