りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

ベイチー

2024-08-31 07:10:10 | 日記
しばらく何も飾っていなかったリビングの一角・・・少し寂しく感じるようになりました
 
この壁に合う絵や写真、棚などを考えていたのですが・・・出会ってしまいました「ビカクシダ」
 
初めて訪れた園芸店で、若い店員さんがものすごく詳しく、熱心に説明してくださいました。
 
名前は「Platycerium veitchii」
😁 「ベイチー」や「ビーチー」と呼ばれるそうです。
 
ビカクシダの中では、比較的育てやすい種類とのことですが・・・それなりに手間がかかる植物です。
 
初挑戦なので、「necomoss」というショップで作成された、この「ベイチー」を大切に育てたいと思います。
 
今後の成長が、楽しみです
 
購入後、ショップのクジ引きがあり、何と「2等」が当たり、素敵な鉢を頂きました。ありがとうございました😊 
 
 
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夏の思い出①・・・・袋田温泉

2024-08-27 07:44:50 | お出かけ
7月の連休は袋田温泉へ
連休ということで、高速道路はどこも大渋滞でしたが、常磐道は空いていました😊 
友部サービスエリアで昼食
 
久しぶりに日本三名瀑のひとつ 「袋田の滝」へ。
 
トンネルを抜けると・・・
 
袋田の滝
 
突然の雷雨で、急遽トンネル内へ避難指示が出るアクシデントもありましたが、酷暑の中、涼しく過ごすことができました😊 
 
アプリで袋田の滝のゆるきゃら「たきまる」と一緒に写真を撮ることもできます。
 
宿泊は「袋田温泉 思い出浪漫館」
 
 
 
 
 
話題のインクルーシブ体験ができるホテルです。
 
温泉は、大浴場だけでなく、露天風呂も充実していました。
渓流露天風呂はほぼ貸し切り・・・のんびり過ごすことができました。
 
食事はビュッフェスタイル・・・ですが、とても静かな会場で、落ち着いて食事ができました。
😀 インクルーシブなので、夕食は飲み放題・・・茨城の地酒も揃っていて、大満足でした。
 
翌日は、道の駅「奥久慈だいご」で昼食
 
以前から気になっていた「大子広域公園オートキャンプ場」を見学後、帰宅しました。
インクルーシブ体験、大満足でした
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思い立ったら中山道 その③-5

2024-08-23 07:30:35 | 旧中山道
国道8号線に戻ると・・・魅力的なお店「俺のカレー食堂」

ですが、今回は立ち寄らず右側の脇道に入ります。


公園の奥に「明治天皇聖蹟の碑」

😀 1878年(明治11年)北陸巡行の帰りにこの場所で休息したそうです。

再び国道8号線に合流すると・・・

「源義経元服の地」がありました。

京の鞍馬で暮らしていた牛若丸(後の義経)は、源氏再興を志し、鞍馬を抜け出しました。奥州下向の途中、鏡宿(かがみのしゅく)に宿泊した時、平家の追手が、稚児姿の牛若丸を探していると聞き、夜、元服することを決意します。

「元服の池の碑」
😀 鏡池の石清水を使い前髪を落とし、侍姿の自身を池の水に映したと云われています。

ということは・・・自身が元服した場所のすぐ近くで、平宗盛親子を処刑したということですね😬 

「道の駅竜王かがみの里」で休憩。



歩道橋を渡り・・・



「鏡神社」へ。

鏡神社参道口に「源義経烏帽子掛けの松」がありました。

池で元服した牛若丸は、この松に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、(成人した名を付ける烏帽子親もいないため)自ら「源九郎義経」と名乗りを上げ、源氏の再興と武運長久を祈願したそうです。



鏡宿は、古代から室町時代まで京都と関東、東北を結ぶ東山道の宿場町として発展しました。江戸時代に中山道が整備されると正式な宿場に認定されず、賑わいは無くなりましたが、守山宿と武佐宿の間の宿として本陣と脇本陣が設置されました。

「旅籠加賀屋跡」

「林惣右衛門則之本陣跡」
😀 紀州侯の定宿で、皇女和宮も休息で利用したそうです。

明治時代は駐在所でした。


「源義経宿泊の館跡碑」
😀 義経は、宿駅の長(おさ)であった澤弥伝(さわやでん)の旅籠「白木屋」に泊まりました。


1874年(明治7年)開設された「鏡郵便取扱所跡」

「大願寺」には・・・


明治時代、徳化学校が開設されました。

「旅籠枡屋跡」

「真照寺」

😀 万葉集の女流歌人額田王(ぬかたのおおきみ)の父、鏡王(かがみにおおきみ)が眠るお寺です。

「旅籠吉田屋跡」


(つづく)

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思い立ったら中山道 その③-4

2024-08-20 16:53:01 | 旧中山道
国道8号線から左側の脇道に入ります。
 
 
「道祖神」
 
江戸時代、この辺りは「大篠原村」と呼ばれ、立場(人足や駕籠かきが休息した場所)がありました。
 
再び国道8号線に合流しました。
 
「東池」沿いを進みます。
😀 夏は蓮の花が群生するそうです。
 
この辺りに一里塚があるはずなのですが・・・見つからない😨 
何度も国道8号線沿いを行ったり来たりしながら、ふと東池と反対側の堤下にある民家に目を向けると・・・ありました~
 
日本橋から126里「大篠原一里塚跡」
 
国道脇のこの細い坂道を下った先にありました。
😅 これは・・・なかなか難易度の高い場所でした。
 
善光寺川に架かる「成橋」を渡り・・・
 
「村田製作所」の前を通過すると・・・
 
平家終焉の地「蛙不鳴(かわずなかず)池」
 
池を通り過ぎると、のぼりが立っていました。
 
のぼりには「平家終焉 平宗盛公胴塚の地」と書かれています。
😀  のぼりに沿って、奥に進みます。
 
平安時代末期、壇の浦の合戦で平家一門は滅ぼされました。
この時の一門の大将は、平清盛の三男の平宗盛(むねもり)・・・宗盛も壇の浦の合戦で入水しますが死にきれず、息子清宗(きよむね)と共に海から引き上げられ捕虜となり、親子は、源義経に連行され鎌倉近くまで下がりました。
 
鎌倉で兄頼朝に手柄を報告したかった義経・・・しかし壇の浦の合戦での義経の勝手な振る舞い(軍師だった梶原景時の意見を聞かなかった、安徳天皇を自殺に追い込んでしまった、三種の神器を紛失してしまった、頼朝の許可を得ずに配下の武士たちを勝手に処罰したなど)を耳にした頼朝は義経を疎ましく感じるようになっていました。さらに義経は、頼朝の許可なく、後白河法皇から授けられた官位を受けてしまいました。当時、「頼朝の許可なく朝廷から官位を受けた武士は、関東に戻ることを禁止していた」ため、義経は追い返され、再び京へ戻ることになりました。
 
連れ回される宗盛親子も大変です。
京へ戻る途中、京まであと一日・・・というこの場所で、宗盛親子は処刑されました。宗盛は享年39歳。平家の血筋は、完全に絶たれました。
 
親子の首を洗ったというこの池は、蛙が哀れを感じて鳴かなくなったことから「蛙不鳴池」と呼ばれるようになったそうです。
 
 
義経のせめてもの配慮で、親子の胴は一つの穴に埋められ塚が立てられたそうです。
 
その後、兄に滅ぼされる運命の義経・・・今も身を寄せ合う宗盛親子に何を感じるのでしょう。
 
(つづく)
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思い立ったら中山道 その③-3

2024-08-14 07:58:02 | 旧中山道
旧中山道を再び進みます。

平安末期(12世紀)造立の「子安地蔵堂」

境内には、たくさんのお地蔵さま。

野洲市のマンホールには、、銅鐸の模様が描かれていました。


「篠原神社」

平安時代中期、藤原秀郷(ムカデ退治の伝説で有名な武将ですね😉 )は平将門の乱を鎮圧しまた。その軍功により、田原次郎千時(藤原秀郷の次男)が栗太と野洲の地を賜り、社殿を建立したと云われています。


再び旧中山道へ。

この辺りは、かつて天井川・・・家棟(やむね)川でした。

1917年(大正6年)の大正天皇陸軍大演習の行幸にあたり、天井川の下に突貫工事でトンネル(家棟隧道)が掘られましたが・・・

2007年(平成19年)河川切下げ工事が行われ、流路も変更されました。

流路が変更された家棟川に架かる「家棟川新橋」を渡ります。



左側の道を進むと・・・

1794年(寛政6年)建立の「金毘羅大権現常夜燈」と「山灯籠」

国道8号線に合流しました。

ガードレールのない国道沿いを進みます😣 

「正蓮寺」

田園風景・・・江戸時代もこの周辺は野原だったそうです。
😖民家の少ないこの場所は、 旧中山道の旅人にとっては物騒な場所でした。

右側に長い堤が続きます。

堤に上ると・・・「西池」

西側の谷の一部を堤でせき止めて作った人工の灌漑用水池です。

雄略(ゆうりゃく)天皇の時代(413年頃)に、近江国に48個の池を掘らせた時の1つと云われています。


階段を下りて・・・

再び交通量の多い国道8号線を進みます。


(つづく)

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