りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

思い立ったら中山道 その②-8

2024-07-01 07:00:17 | 旧中山道
野洲川橋北詰交差点を渡ると・・・
 
「十輪院」
😀 1657年(明暦3年)に開かれたお堂で、当時は野洲川のほとりにあったそうです。夜、旅人が迷わないように、境内には常夜燈が設けられていました。
 
境内には芭蕉の句碑がありました。
😀 「野洲川や身は安からぬ さらしうす」
(野洲川の近くで晒しの作業をやっているが、大変な重労働なことよ)
 
江戸時代、野洲は「晒し(さらし)」で有名だったそうです。晒しは、木綿や麻を煮て臼でつき、水に晒すという繰り返しの作業で、大変重労働でした。
しかし、この句も芭蕉の存疑句です。心なしか芭蕉の句のどれもこれも、存疑句に思えてきます
 
十輪院の向かいには「石仏石塔群」
 
野洲市コミュニティバス「おのりやす」のバス停・・・ ネーミングがgood でも1日5本😅 
 
 
JR東海道本線ガード下を通過すると・・・
 
 
「宇野酒造」・・・清酒「玉の春」、純米酒「悠紀」の蔵元です。
😏 守山の宇野家のご親戚でしょうか?
 
「四ツ家八幡神社」
 😀 平安中期、奥州征討に向かう源頼義(源頼朝の祖先)は、野洲で佐々木軍およそ400騎の加勢を得ました。頼義は京の石清水八幡宮(源氏の氏神)を篤く信仰していたので、この加勢をを神慮と喜び、この場所に八幡宮を祀ったそうです。ちなみに、京の石清水八幡宮を鎌倉の由比に勧請したのが、鶴岡八幡宮の始まりです。

「蓮照寺」
 
 
「唯心寺」
 
 正面に近江富士(三上山)が見えました。
 
鎌倉時代に建立された「背くらべ地蔵」
 
当時は乳幼児が育ちにくかったので、親は「我が子もこの背の低いお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」と背くらべさせたそうです。


 
「朝鮮人街道追分」
 😀 右は中山道、左は朝鮮人街道。朝鮮人街道は、近江八幡~安土~彦根~鳥居本を通り、再び中山道に合流します。

 
「野洲小学校」
 😀 瓦屋根の塀が素敵です。

 
「外和木(そとわぎ)の標碑」

😀 先程通過した追分の地名が「小篠原字外和木」だったそうです。

「おばあちゃんと孫」の飛び出し人形。
 
「JR野洲駅」に到着!
 
2023年11月4日8時5分~16時40分
29216歩の旅でした😄 


JR野洲駅からJR草津駅へ戻り・・・
 
 
「肉酒場モダンミール」で夕食。
 
 😀 お腹いっぱい・・・美味しかったです。
 
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