りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その41-① 富士松駅~

2019-12-18 01:21:00 | 旧東海道散歩
名古屋に宿泊し、喫茶店でモーニングを食べて・・・


名鉄名古屋本線「富士松駅」から出発です。

niko駅前には「お富士松」・・・桶狭間の戦いの後、今川勢が西へ向かう旅人を織田側の人間と間違え切り殺してしまいました。村人は旅人を葬り、1本の松を植えました。この松が「富士松」という地名の由来です。松は昭和34年の伊勢湾台風で枯れてしまったため、新たな松が駅前に植えられたそうです。



地下道を通り、国道一号線を横断します。


用悪水路に架かる二俣橋を渡り・・・

niko「用悪水路」は、用水路と悪水路が組み合わさった言葉で、主に灌漑用の水路として使用される土地のことです。

境川に架かる境橋を渡ります。


橋のたもとには歌碑がありました。
「うち渡す 尾張の國の境橋 これやにかわの 綱目なるらん」

nikoかつて境橋は、尾張側(西側)は木橋で三河側(東側)は土橋という珍しい継橋でした。にかわ(接着剤)と三河をかけて詠んだ歌です。まさにこの境橋の中央が、尾張と三河の境だったのですね!

伊勢湾岸自動車道の高架下を通り・・・


豊明駅沿いを進みます。

niko日本橋から345km。

愛知県道57号の高架下を通過すると・・・

wink高架下は防災倉庫として利用され、古いポンプ車も置いてありました。

日本橋から86番めの「阿野一里塚」

nikoかつて一里塚は街道の両側にありましたが、両塚が現存するのは珍しいです。

南塚


北塚


「坂部善光寺」

niko医師三田柳庵が善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像を受け、開眼供養されたそうです。

高台にある名鉄名古屋本線「前後駅」

nikoいつの間にか高台に来ていました。桶狭間の戦いの際、今川勢が前後を争って敗走したことから「前後村」と名付けられたことに由来します、

「常夜燈」と旅人のためにお茶を振舞った尼僧の「寂応庵跡」


この辺りは桶狭間の戦いで、今川勢がこの辺りで落ち合ったことから「落合村」と呼ばれた場所です。


「競馬場入口」


名鉄名古屋本線の高架下を通過すると、魅力的な「ゴリバーガー」


「桶狭間古戦場」の案内板・・・立ち寄ってみましょう。


「桶狭間古戦場伝説地」


桶狭間の戦いにまつわる石碑が集められています。

ボランティアガイドさんが詳しく説明して下さいました。

織田信長が今川義元を破ったことで有名な「桶狭間の戦い」

1560(永禄3)年5月19日織田軍との戦いで優勢だった今川義元は桶狭間で休息をとっていました。雷鳴轟く豪雨の中、小勢(約5000人)の織田軍は大軍(約25000人)の今川軍に奇襲攻撃をしかけます。今川軍は混乱し、今川義元は討ち取られてしまいます。この戦いに勝利した織田信長は、その後天下統一に向けて動き出すのです。

明治末~大正時代の東海道の写真もありました。


伝説地の北側には藤田医科大学・・・建設時には地下から武具が出土したそうです。


道を挟んで「おばけ地蔵」

obake古戦場には戦死者の亡霊が現れるという噂があり、1853(嘉永8)年尾張藩士が地蔵尊を建立したところ亡霊が現れなくなったそうです。

(つづく)

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