「鳴海宿本陣跡」
「喰い呑みや問屋場」
実際の鳴海宿の問屋場は、もう少し東側にあったようです。
作町交差点を右折すると・・・
おそらくこの辺りも「桝形」と思われます。
1792年(寛政4年)建てられた「丹下町常夜燈」
ここまでが鳴海宿・・・西側入口です。
出た~コノハけいぶ」の押しボタン式信号機。
旧東海道を直進し、県道59号線を横断すると・・・
天白川に架かる「天白橋」
笠寺観音から知多へと向かう知多郡道の「道標」
近くにあった「東海道分間延絵図」の石碑を見ながら当時の様子を想像します。
見えてきました・・・
日本橋から88番めの「有松一里塚」
名古屋市内で唯一残る一里塚(東側のみ)です。
旧東海道の途中、名古屋城の自動販売機を発見!
いつの間にか名古屋市内に入ったことを実感します。
「天林山笠覆寺(りゅうふくじ)」・・・通称「笠寺観音」
「玉照堂」
ある日、荒廃した寺を訪れた鳴海長者の下女は雨ざらしの観音さまを見つけ、自分の笠を観音様に被せてあげました。その優しさが縁で、京の貴族、藤原兼平公の妻となり、玉照姫(たまてるひめ)となりました。この伝説から「笠寺観音」と呼ばれるようになり、縁結びのお寺として賑わっているそうです。
笠寺観音商店街の皆さまの似顔絵看板。
ほっこりしますね。
名鉄名古屋本線の踏切を通過すると・・・
「是れより北よびつき」の道標
よびつき??・・・と不思議に思いましたが、「呼続(よびつき)」という地名でした。かつてこの辺りは遠浅の海が入り込み、お互いに名前を呼びあいながら浜を渡ったことに由来します。
「冨部神社 塩付街道」の道標
江戸時代初期、笠寺台地では塩の生産が盛んでした。塩はこの辺りから信州の塩尻まで馬に乗せられて送られ、塩付街道と呼ばれました。
冨部神社入口には「東海道400年の記念碑」がありました。
(つづく)
「喰い呑みや問屋場」
実際の鳴海宿の問屋場は、もう少し東側にあったようです。
作町交差点を右折すると・・・
おそらくこの辺りも「桝形」と思われます。
1792年(寛政4年)建てられた「丹下町常夜燈」
ここまでが鳴海宿・・・西側入口です。
出た~コノハけいぶ」の押しボタン式信号機。
旧東海道を直進し、県道59号線を横断すると・・・
天白川に架かる「天白橋」
笠寺観音から知多へと向かう知多郡道の「道標」
近くにあった「東海道分間延絵図」の石碑を見ながら当時の様子を想像します。
見えてきました・・・
日本橋から88番めの「有松一里塚」
名古屋市内で唯一残る一里塚(東側のみ)です。
旧東海道の途中、名古屋城の自動販売機を発見!
いつの間にか名古屋市内に入ったことを実感します。
「天林山笠覆寺(りゅうふくじ)」・・・通称「笠寺観音」
「玉照堂」
ある日、荒廃した寺を訪れた鳴海長者の下女は雨ざらしの観音さまを見つけ、自分の笠を観音様に被せてあげました。その優しさが縁で、京の貴族、藤原兼平公の妻となり、玉照姫(たまてるひめ)となりました。この伝説から「笠寺観音」と呼ばれるようになり、縁結びのお寺として賑わっているそうです。
笠寺観音商店街の皆さまの似顔絵看板。
ほっこりしますね。
名鉄名古屋本線の踏切を通過すると・・・
「是れより北よびつき」の道標
よびつき??・・・と不思議に思いましたが、「呼続(よびつき)」という地名でした。かつてこの辺りは遠浅の海が入り込み、お互いに名前を呼びあいながら浜を渡ったことに由来します。
「冨部神社 塩付街道」の道標
江戸時代初期、笠寺台地では塩の生産が盛んでした。塩はこの辺りから信州の塩尻まで馬に乗せられて送られ、塩付街道と呼ばれました。
冨部神社入口には「東海道400年の記念碑」がありました。
(つづく)