Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

父母のアルバム

2014-11-04 15:05:33 | 思い出

 10年前母が亡くなった後、家財整理した中に出てきた3冊の父母のアルバムをもらってきた。最近たくさんの写真集から娘の写真を取り出し彼女の今までの人生を一冊のアルバムにまとめた。そして最後に私たちの写真を1ページ、父母の写真を1ページ、亭主の父母の写真を1ページに入れて彼女にプレゼントしとっても喜ばれた。

 昔からカメラに興味のあった私は日本に居る時からたくさんの写真アルバムを持っていた。結婚して子供たちが大きくなって、夫婦二人で旅するようになり、デジタルカメラになるまでのアルバムが我が家の本棚で2.5メートルにぎっしり詰まっている。

 これらのアルバムも私たちの死後は捨てられる運命にあるのが見えている。せめて父母の写真だけでもこのブログに載せてみたいものだと思いアルバムからはがしている。

  

父のアルバムは1冊がA3サイズのビロードの表紙で立派なもの。第1ページに昭和天皇と満州国皇帝の写真が載っていて次ページからは知らない軍人姿の大小の写真が連なる。

 父は1935年(昭和10年)または1936年(昭和11年)満州に出征した。アルバムはその時の軍事政権下からの贈呈物であるのが明らか。そして父は当時の事情は一切話さないままに亡くなったから私は写真を見ながら推測するしかない。

  

1937年(昭和12年)父22歳、機関銃の弾が肩に当たって負傷し、11月10日に傷病兵の一団が帰国・金沢駅に到着した。

  

翌年5月11日まで金沢の病院と山中療養所にて治療していた。当時まだ第2次世界大戦は始まっていなかったが、満州帝国を作り上げた日本軍は中国制覇を目的に軍事活動が激しく国を挙げて戦争に突入して行った時代だった。

母は新潟。長岡の農家の2女で弟妹6人もいたから子供のころから子守や家事で、小学校をやっと出たくらい、今でいう中学生の年齢には名古屋の老舗のお菓子屋に奉公に行かされ、女中として働いていた。その後何歳かは明らかでないが名古屋の製糸工場で20代を過ごしていた。

製糸工場には若い女性が多く、外地や内地の兵士への慰問袋に手紙を入れるのが推奨されていたらしい。母の手紙を父が受け取り、手紙や写真のやり取りがあった。

 

父が療養中に母には縁談が持ち上がり、新潟へ帰った母の手紙に驚いた父は、療養中では身動きがきかず、父の兄に打ち明けた。((この事実は父の兄(金沢の叔父さん)の奥さん(金沢の叔母さん)から私が高校生の頃に聞かされて大感激したもの。))で金沢の叔父さんは当時汽車で8時間以上もかかった新潟・長岡の母の実家へ訪ねて行き、母を自分の弟の嫁にと頼んだそう。新潟の母の実家では、犬の子を上げるのではないから一応結婚式のまねごとをと新郎なしの結婚式を行い、金沢へ送り出した。

 

この写真は母が父の母親(私には祖母に当たる)と一緒に療養所を訪ねて行った記念写真。

 

後に結婚式は父の弟の結婚式に同時に写真を撮ったから母は角隠しをしていない。

1938年(昭和13年)5月11日退院し同年9月10日に入隊教練するまで、父は金沢近辺の駐在所の警察官をしていた。そしてその短い期間が彼らの新婚生活だった。

 

翌年4月21日父母には第1子の節子が生まれた。当時は家庭分娩が主流で産婆が出産に立ち会う。はじめの出産は非常に難産でいまどきならすぐ帝王切開になっていただろうに、家庭分娩では鉗子で引っ張り出すしかなかった。そのおかげで節子は脳障害をこうむり全身まひで話すこともできなかった。

 1938年(昭和13年)11月20日後備大隊として金沢駅を発った父は、1939年(昭和14年)2月14日の兵士姿の写真はあるが、どこで兵役を務めていたかは明らかでない。

 1942年(昭和17年)12月9日に長男功が生まれた。この前後は帰省・警察官として羽咋で働いていた。

 1944年(昭和19年)3月 父29歳 3度めの出征で南方へ送られた。当時は見送る人たちは涙を見せようものなら非国民とののしられたから、後1か月で月満つる母は帰宅して泣きに泣いたという。

 1か月後4月21日(奇しくも節子と同じ月日)私が生まれた。当時長女節子は4歳で全身まひ、長男功は1歳5か月、母は乳腺炎で手術してい片方の乳房しか母乳が出なかった。

まだ赤ん坊の功はおっぱいを欲しがり、私は栄養失調、痩せて体中に腫物ができた。今でもそのあとは消えない。

 

このままでは新生児が危ないと決心した母は新潟の実家に連絡して妹2人に来てもらい、3人の子供を連れて帰省した。金沢駅に見送りに来た私の祖母は外地で戦っている息子に申し訳ないと泣いたという。

8時間以上の汽車の旅で、食料もままならず、どこかの小さな駅に立っていた若い警察官に自分も警察官の妻であることを話して粉ミルクを溶かすお湯をもらったことが忘れられないと後日母が語ってくれた。

 

新潟の実家は農家であったから食料にはあまり不自由せず、私はお米をたいた重湯で育った。そしてその年の冬2歳の功が囲炉裏の中に転げ落ち顔半分に火傷を負いほとんど同時期に節子が死んだ。功は当時の家庭療法ですりおろしたきゅうりを患部につけていたため跡も残さず完治した。

節子は具合が悪そうでずっと抱いていたが囲炉裏端へ寝かせて少しの間に静かに死んでいたという。もう少し抱いてあげればよかったと母が話してくれたがどんな思いだっただろう。

 1945年(昭和20年)8月15日の終戦でその年か翌年早くに帰国した父は金沢へ帰っても愛妻は居ず、マラリヤにかかって苦しい体で新潟の母の実家へたどり着いた、

高熱と悪寒を繰り返しながらも農家での豊富な食料と手厚い看護で回復した父は金沢へ妻子を伴って帰り松任町の警察署で刑事として働いていた。

 1947年(昭和22年)1月1日次男博が生まれたが、戦地から戻って以来一切戦争については語らなかった父は酒におぼれておむつを買う金もなかったという。

 博を取り上げてくれた産婆の家族と親しくなったが、同僚の刑事からねたまれてその家族が赤(共産党)だと告げ口され、奥能登へ飛ばされたのは私が小学校1年生の秋だった。

コメント (6)
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