高橋お伝について書いてみました。
日本の近代刑法の歴史は、明治維新(1868年)から始まります。欧米諸国の強い影響を受けて、鎖国が解かれた日本は国際社会の激しい競争に入っていきます。諸外国から日本に押し付けられ不平等条約は、日本の発展の足かせになり、それを撤廃し、国際社会で一等国としての地位を確立することが日本の急務でした。そのために、封建的な法制度を改める必要があり、そのなかでも刑法制度の変革は急務の課題でした。
明治維新直後から始められた刑法制度の改革は、仮刑律(かりけいりつ)、新律綱領(しんりつこうりょう)、改定律例(かいていりつれい)と進められましたが、それらはいずれも徳川幕府時代の封建的な色彩を残したものでした。殺人罪などに対して、絞首だけでなく斬首という方法が採用されていたのも、その名残でした。このような封建的で厳罰的性格を取り除いたのが、1880年に日本で最初に制定された近代的な刑法でした。この刑法は死刑の執行方法を絞首に限定し、その後、1907年に改正され、現在まで引き継がれています。
高橋お伝は、強盗殺人罪を犯し、斬首刑に処せられました。それは近代の刑法が制定される1年前の1879年のことです。彼女に適用された刑法は、封建制と厳罰性を特徴とした新律綱領と改定律例でした。刑法の近代化が本格的に始まる前に、お伝に最後の斬首刑が執行されたことを、どのように理解すればよいでしょうか。斬首刑は、非道な罪を犯したことへの当然の報いですが、もう少し刑法の近代化が早かったならば、少なくとも斬首は免れていたに違いありません。夫・市太郎との生活で借材が重なり、金銭を工面するため、古物商の吉蔵の言いなりにならざるをえなかったこと、吉蔵が突然約束を翻したため、裏切られたことに激昂して殺したことなど、酌量減軽すべき事情は当時においてもあたっと思います。死刑が止むを得なかったとは言えないでしょう。それにもかかわらず、絞首ではないく、より厳しい斬首という方法によって死刑が執行されたことをどのように理解すればよいのでしょうか。
作家の柴田錬金三郎さんが記しているところによると、判事補の加藤進は、大嘘が書かれたお伝の供述書を書き換え、お伝に訂正させ、犯行を認める内容の陳述書に捺印させようとしたとき、その美しさ、何とも言えぬ魅力ある優しさに心を奪われたそうです。そして、この美しい女性に死刑を免れさせるために、陳述書を引き戻して破り捨てたい衝動にかられたといいます。お伝は、「毒婦」というには美しすぎました。男なら一度は自由にしたいと憧れるような美貌、女なら誰もがそうありたいと羨むような魅力を備えた女性でした。しかし、その美しさは、加藤にとって禁断の果実でした。加藤は、お伝を手に入れ、自分の自由にできないのなら、いっそうのこと殺してしまえとばかり、彼女を死刑へ追いやるために陳述書を作成したのではないでしょうか。お伝が自分のものにならないのなら、いないほうがましだと思うほど美しい女性であったのならば、斬首刑こそそれに適った最適の方法だったのでしょう。お伝が「天性の毒婦」とされたのは、そのためだったのです。
参考
柴田錬金三郎『毒婦伝奇』(文春文庫、1995年)
中嶋繁雄『明治の事件史』(青春文庫、2004年)
朝倉喬司『毒婦伝』(中公文庫、2013年)
Q&Aを考えてみました。
Q お伝が罪を犯した当時の法律の状況を教えてください。
A 明治維新にともなって、日本の社会は大きく変化します。欧米諸国との通商関係が本格化し、日本は国際社会に入っていきますが、長い鎖国政策から解かれて、世界を見ると、科学や文明が高度に発達していることに気づかされ、日本もまた、積極的にそれらを取り入れていきます。法律や教育など国家の制度の基礎は、その当時に作りあげられました。
犯罪と刑罰に関する法律という側面から、その当時の日本を見ますと、明治元年(1868年)に仮刑律(かりけいりつ)という法律が制定されます。大宝養老律を基礎としたもので、徳川時代の藩の法律を参酌した古色蒼然たるものでした。例えば、死刑の制度としては、絞首(こうしゅ)、刎首(ふんしゅ)、梟首(きょうしゅ)、はりつけ、火あぶりという方法が用いられていました。笞刑(ちけい:むちで打つ)、杖刑(じょうけい:つえで叩く)といった身体刑もありました。このような刑法では、国際社会と歩調を合わすことはできません。改正の必要性が国内外から指摘されます。
明治3年(1870年)に「新律綱領」という法律が制定され、その後、明治6年(1873年)に「改定律例」という法律によって改定、増補されました。1881年に新しい刑法が施行されるまで、新律綱領と改定律例が適用されていました。この新律綱領も死刑を設けていましたが、その方法は絞首と斬首に限られ、また笞打ちの刑などの身体刑は廃止され、懲役刑という形にまとめられました。
Q お伝の犯した罪は、当時ではどのように取り扱われていたのでしょうか。
A お伝が「丸竹」という旅館で後藤吉蔵を殺害し、お金を奪ったのが明治9年(1876年)のことです。この時期は、まだ新しい刑法が施行される前の時代なので、新律綱領と改定例例が適用されていました。
新律綱領は、殺人罪などの重大犯罪に死刑を科し、その方法としては、絞首と斬首という2つの方法がとられていました。お伝が犯したのは、今で言うところの強盗殺人罪です。新律綱領には、人を殺した者には死刑を科すと定め、その首謀者には斬首、追従者には絞首の方法を適用するとしていました。さらに、殺して、財産を奪った場合は、追従者も斬首されるとされていました。お伝は1人で強盗殺人を犯したので、この法律が適用されたと思います。
1881年から施行された新しい刑法も死、強盗殺人には死刑を科していましたが、その方法は絞首に限定されていましたので、お伝に死刑の判決が言い渡されたのは、1879年でした。新しい刑法が制定されるのがもう少し早ければ、お伝も斬首を免れることができたかもしれません。
Q 今の時代からお伝の罪を振り返ってみて、どのように考えることができるでしょうか。
A 現在の刑法でも、強盗殺人には死刑が科される可能性があります。しかし、被害者が1人の強盗殺人に対して、死刑が科されるのは、計画的で用意周到に行なわれた場合や過去に強盗殺人で前科があるような場合に限られます。
また、現在の刑法では、犯罪の成立要件は一方で明確に定められながら、他方でそれに科される刑には一定の幅が設けられています。裁判官は、その刑の幅の枠内で量刑を判断するのですが、その判断にあたって、一定の裁量が認められています。過去に起こった同種の事案の量刑を踏まえながら、今回の事件の刑を判断するわけですが、その場合、被告人の反省しているかどうか、被害者や遺族と和解が成立しているかどうか、更生し社会復帰していける可能性があるかどうか、といったことを総合的に判断します。新律綱領と改定律例の時代は、どうであったというと、強盗殺人を犯した者には斬首と決められていたので、裁判官の裁量が働く余地はなかったのではないかと思います。
柴田錬金三郎さんが非常に興味深いことを描いています。お伝は、事件後、逮捕され、取調べを受けたとき、大ウソをついたので、作成された供述書はでたらめなものだったそうです。判事補の加藤進が、お伝にそれを取り下げさせて、犯行を認める内容の陳述書を作成するために、お伝に向き合ったとき、その美しさ、何とも言えぬ魅力ある優しさに心を奪われたというのです。そして、加藤は、この美しい女性が死刑になるのは耐え難い、なんとかして死刑を免れさせることができないだろうかと考え、お伝に手渡した陳述書を引き戻して、破り捨てたい衝動にかられたといいます。お伝は、男なら一度は自由にしたいと憧れるような美貌、女なら誰もがそうありたいと羨むような魅力を備えた女性でした。自分の職責を全うしなければならない判事補としての加藤と赤裸々な感情を抑えられない一人の男としての加藤という二人の加藤が描かれています。しかし、加藤は、禁断の果実ともいうべき美しさを斥けました。そして、職責を全うするために有罪を証明するための陳述書を作成するのですが、美しいお伝を自分のものにできないのから、いっそうのこと死刑にしてしまえと、彼女を死刑にするために陳述書を作成したのではないかと思われます。お伝が自分のものにならないがゆえに、いないほうがましだと思うほど美しい女性であったがゆえに、お伝は「天性の毒婦」でなければならなかったのです。
日本の近代刑法の歴史は、明治維新(1868年)から始まります。欧米諸国の強い影響を受けて、鎖国が解かれた日本は国際社会の激しい競争に入っていきます。諸外国から日本に押し付けられ不平等条約は、日本の発展の足かせになり、それを撤廃し、国際社会で一等国としての地位を確立することが日本の急務でした。そのために、封建的な法制度を改める必要があり、そのなかでも刑法制度の変革は急務の課題でした。
明治維新直後から始められた刑法制度の改革は、仮刑律(かりけいりつ)、新律綱領(しんりつこうりょう)、改定律例(かいていりつれい)と進められましたが、それらはいずれも徳川幕府時代の封建的な色彩を残したものでした。殺人罪などに対して、絞首だけでなく斬首という方法が採用されていたのも、その名残でした。このような封建的で厳罰的性格を取り除いたのが、1880年に日本で最初に制定された近代的な刑法でした。この刑法は死刑の執行方法を絞首に限定し、その後、1907年に改正され、現在まで引き継がれています。
高橋お伝は、強盗殺人罪を犯し、斬首刑に処せられました。それは近代の刑法が制定される1年前の1879年のことです。彼女に適用された刑法は、封建制と厳罰性を特徴とした新律綱領と改定律例でした。刑法の近代化が本格的に始まる前に、お伝に最後の斬首刑が執行されたことを、どのように理解すればよいでしょうか。斬首刑は、非道な罪を犯したことへの当然の報いですが、もう少し刑法の近代化が早かったならば、少なくとも斬首は免れていたに違いありません。夫・市太郎との生活で借材が重なり、金銭を工面するため、古物商の吉蔵の言いなりにならざるをえなかったこと、吉蔵が突然約束を翻したため、裏切られたことに激昂して殺したことなど、酌量減軽すべき事情は当時においてもあたっと思います。死刑が止むを得なかったとは言えないでしょう。それにもかかわらず、絞首ではないく、より厳しい斬首という方法によって死刑が執行されたことをどのように理解すればよいのでしょうか。
作家の柴田錬金三郎さんが記しているところによると、判事補の加藤進は、大嘘が書かれたお伝の供述書を書き換え、お伝に訂正させ、犯行を認める内容の陳述書に捺印させようとしたとき、その美しさ、何とも言えぬ魅力ある優しさに心を奪われたそうです。そして、この美しい女性に死刑を免れさせるために、陳述書を引き戻して破り捨てたい衝動にかられたといいます。お伝は、「毒婦」というには美しすぎました。男なら一度は自由にしたいと憧れるような美貌、女なら誰もがそうありたいと羨むような魅力を備えた女性でした。しかし、その美しさは、加藤にとって禁断の果実でした。加藤は、お伝を手に入れ、自分の自由にできないのなら、いっそうのこと殺してしまえとばかり、彼女を死刑へ追いやるために陳述書を作成したのではないでしょうか。お伝が自分のものにならないのなら、いないほうがましだと思うほど美しい女性であったのならば、斬首刑こそそれに適った最適の方法だったのでしょう。お伝が「天性の毒婦」とされたのは、そのためだったのです。
参考
柴田錬金三郎『毒婦伝奇』(文春文庫、1995年)
中嶋繁雄『明治の事件史』(青春文庫、2004年)
朝倉喬司『毒婦伝』(中公文庫、2013年)
Q&Aを考えてみました。
Q お伝が罪を犯した当時の法律の状況を教えてください。
A 明治維新にともなって、日本の社会は大きく変化します。欧米諸国との通商関係が本格化し、日本は国際社会に入っていきますが、長い鎖国政策から解かれて、世界を見ると、科学や文明が高度に発達していることに気づかされ、日本もまた、積極的にそれらを取り入れていきます。法律や教育など国家の制度の基礎は、その当時に作りあげられました。
犯罪と刑罰に関する法律という側面から、その当時の日本を見ますと、明治元年(1868年)に仮刑律(かりけいりつ)という法律が制定されます。大宝養老律を基礎としたもので、徳川時代の藩の法律を参酌した古色蒼然たるものでした。例えば、死刑の制度としては、絞首(こうしゅ)、刎首(ふんしゅ)、梟首(きょうしゅ)、はりつけ、火あぶりという方法が用いられていました。笞刑(ちけい:むちで打つ)、杖刑(じょうけい:つえで叩く)といった身体刑もありました。このような刑法では、国際社会と歩調を合わすことはできません。改正の必要性が国内外から指摘されます。
明治3年(1870年)に「新律綱領」という法律が制定され、その後、明治6年(1873年)に「改定律例」という法律によって改定、増補されました。1881年に新しい刑法が施行されるまで、新律綱領と改定律例が適用されていました。この新律綱領も死刑を設けていましたが、その方法は絞首と斬首に限られ、また笞打ちの刑などの身体刑は廃止され、懲役刑という形にまとめられました。
Q お伝の犯した罪は、当時ではどのように取り扱われていたのでしょうか。
A お伝が「丸竹」という旅館で後藤吉蔵を殺害し、お金を奪ったのが明治9年(1876年)のことです。この時期は、まだ新しい刑法が施行される前の時代なので、新律綱領と改定例例が適用されていました。
新律綱領は、殺人罪などの重大犯罪に死刑を科し、その方法としては、絞首と斬首という2つの方法がとられていました。お伝が犯したのは、今で言うところの強盗殺人罪です。新律綱領には、人を殺した者には死刑を科すと定め、その首謀者には斬首、追従者には絞首の方法を適用するとしていました。さらに、殺して、財産を奪った場合は、追従者も斬首されるとされていました。お伝は1人で強盗殺人を犯したので、この法律が適用されたと思います。
1881年から施行された新しい刑法も死、強盗殺人には死刑を科していましたが、その方法は絞首に限定されていましたので、お伝に死刑の判決が言い渡されたのは、1879年でした。新しい刑法が制定されるのがもう少し早ければ、お伝も斬首を免れることができたかもしれません。
Q 今の時代からお伝の罪を振り返ってみて、どのように考えることができるでしょうか。
A 現在の刑法でも、強盗殺人には死刑が科される可能性があります。しかし、被害者が1人の強盗殺人に対して、死刑が科されるのは、計画的で用意周到に行なわれた場合や過去に強盗殺人で前科があるような場合に限られます。
また、現在の刑法では、犯罪の成立要件は一方で明確に定められながら、他方でそれに科される刑には一定の幅が設けられています。裁判官は、その刑の幅の枠内で量刑を判断するのですが、その判断にあたって、一定の裁量が認められています。過去に起こった同種の事案の量刑を踏まえながら、今回の事件の刑を判断するわけですが、その場合、被告人の反省しているかどうか、被害者や遺族と和解が成立しているかどうか、更生し社会復帰していける可能性があるかどうか、といったことを総合的に判断します。新律綱領と改定律例の時代は、どうであったというと、強盗殺人を犯した者には斬首と決められていたので、裁判官の裁量が働く余地はなかったのではないかと思います。
柴田錬金三郎さんが非常に興味深いことを描いています。お伝は、事件後、逮捕され、取調べを受けたとき、大ウソをついたので、作成された供述書はでたらめなものだったそうです。判事補の加藤進が、お伝にそれを取り下げさせて、犯行を認める内容の陳述書を作成するために、お伝に向き合ったとき、その美しさ、何とも言えぬ魅力ある優しさに心を奪われたというのです。そして、加藤は、この美しい女性が死刑になるのは耐え難い、なんとかして死刑を免れさせることができないだろうかと考え、お伝に手渡した陳述書を引き戻して、破り捨てたい衝動にかられたといいます。お伝は、男なら一度は自由にしたいと憧れるような美貌、女なら誰もがそうありたいと羨むような魅力を備えた女性でした。自分の職責を全うしなければならない判事補としての加藤と赤裸々な感情を抑えられない一人の男としての加藤という二人の加藤が描かれています。しかし、加藤は、禁断の果実ともいうべき美しさを斥けました。そして、職責を全うするために有罪を証明するための陳述書を作成するのですが、美しいお伝を自分のものにできないのから、いっそうのこと死刑にしてしまえと、彼女を死刑にするために陳述書を作成したのではないかと思われます。お伝が自分のものにならないがゆえに、いないほうがましだと思うほど美しい女性であったがゆえに、お伝は「天性の毒婦」でなければならなかったのです。