Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

第7回講義「現代と人権」(2013.11.08.)

2013-11-09 | 日記
 第7回 現代と人権   日本のプラグマティズム--生活綴り方運動(その1)

 今回から3回に分けて、昭和初期のプラグマティズムの思想と運動について考えていきたいと思います。これまでは、「白樺派」の観念論にもとづく社会運動と日本共産党の唯物論にもとづく革命運動を素材にしながら、歴史の一時期において、当時の人々がどのような考え、社会や政治に働きかけたのかを見てきました。「白樺派」の人たちは、観念的な理想主義にもとづいて、「宇宙の意志」に導かれて「新しき村」の創造に取り組みました。日本共産党は、社会主義・共産主義の理論、哲学的には唯物論にもとづいて、日本社会の現状を分析して、その構造と矛盾を明らかにしながら、その変革のために取り組みました。
 久野さんも鶴見さんも、それらの運動の積極面と消極面、歴史的な意義と限界について、自分の考えを述べています。とくに、「白樺派」の観念論と日本共産党の唯物論を対比させて、科学的・理論的に考えれば、唯物論に優位性があることを認めています。ただし、それを実際の社会運動において実践するのが非常に困難であることに対しても厳しい視線を向けています。まさに、「言うは易し、行うは難し」というような感じです。現在の日本社会においても、原子力政策から自然エネルギー政策へと転換するなどの課題において、なぜ科学的で客観的な主張や理論が実社会において実現しにくいのかという問題に直面しています。そのような意味において、戦前の観念論・唯物論の運動の成果は、現代の問題を考える上でも、非常に教訓的ではないかと思います。

(1)はじめに
 久野さんと鶴見さんによれば、プラグマティズムは、明治、大正の時代にアメリカから取り入れられた思想です。ただし、昭和の時代に入って下火になったといいます。なぜ下火になったかというと、プラグマティズムの課題や目指していたテーマが、昭和の時期までに日本に移入された唯物論や実存主義によって解決されたと見られていたからです。つまり、日本の政治を変革する運動や学問的に哲学を探求する人々にとって、プラグマティズムは必要ではないと見なされていたようです。しかし、その時代にプラグマティズムの思想が無視されていたかというと、そうではありません。実業家のあいだで、また技術者や自然科学者のなかで、社会学者、心理学者といった人々の関心を引いていたようです。とくに、教育関係者はプラグマティズムを重視していたようです。社会の全体を考える人は関心を受けなかったようですが、自分の身の回りの問題を考える人々は、プラグマティズムの思想に関心を示したというのは非常に興味深いところです。
 教育関係者がプラグマティズムに関心を持ったのは、なぜでしょうか。その理由に一つには、高等師範学校の教師たちがアメリカ式教育理論を取り入れる過程において、その思考方法としてのプラグマティズムを取り入れたという事情があったようです。しかし、それとは別に、小学校教師たちが「生活綴り方運動」を進めるにあたって、プラグマティズムを取り入れたという経過もあります。高等師範学校の教師と小学校の教師が、教育の理論としてプラグマティズム取り入れたというのですが、ここには大きな違いがあります。高等師範学校とは、小中学校の教員を養成する学校であり、現在では教育大学や大学の教育学部にあたります。また、高等師範学校の教師が教育する生徒は旧制高校・中学の生徒であり、現在でいうなら大学の1・2回生に相当します。このようなエリートの生徒を教育するために、アメリカ式のプラグマティズムを取り入れたということです。これに対して、小学校の教師がプラグマティズムを取り入れたのは、エリート教育を進めるためにではありません。むしろ、その逆です。小学校の教師は、生徒たちとの出会いと日常的なふれあいのなかから、「生活綴り方運動」を進めるために、自発的にプラグマティズムの思想を取り入れました。つまり、小学校の教育において、先生と生徒のふれあいのなかから「生活綴り方運動」が生まれ、それを進める理論として、プラグマティズムが取り入れらたというのです。ここには、白樺派の「新しき村」の運動や日本共産党の革命運動などとは異なる課題があります。白樺派や日本共産党は、理想や理論にもとづいて社会を変革するためにはどうすればいいか、ということを考えましたが、「生活綴り方運動」は、小学校の生徒に対してどのように教育すればよいか、という問題関心からプラグマティズムに接近していきました。これらの運動を単純に比較することはできませんが、決して無関係ではありません。

(2)プラグマティズムとは何か
 プラグマティズムとは何でしょうか。久野さんと鶴見さんによれば、プラグマティズムとは、アメリカのパースという哲学者が1870年代に提唱した考えです。パースさんは、思想や理論にはどのような意味があるかを考え、それを人間の行動と結びつけることによって明確できると主張しました。例えば、意味のはっきりしない思想や概念が出てきたら、その思想や概念が人間の行動に対してどのような影響を持っているのかを考えれば、その思想や概念の意味が分かるといいます。もしも、どのような影響もないならば、その思想や概念には意味はありません。このように人間の行動との関係において、思想の思想たるゆえんがあると考えるところに、プラグマティズムの特徴があります。
 久野さんと鶴見さんは、プラグマティズムの思想をこのように理解したうえで、その特徴を次のようにいいます。プラグマティズムは、思想が行動に影響や意味を与えるだけでなく、行動が思想に影響を与え、その内容を豊かにします。社会全体に関わる大きな基本問題だけでなく、日常生活に関わる小さな応用問題を考えることができるように、思想の硬直化や動脈硬化を避けなければなりませんが、プラグマティズムはそのような思想の流派であるといいます。例えば、ある人が現在の日本社会の状況を見たとき、これではいけない、もっと改善しなければならないと考えたとします。変革するために、どこを、どのように変えれば、社会が良くなるかを考えます。その考えたものを体系的にまとめたものが思想です。その思想は、社会を変革するために実践に移されることを予定していますが、それによって社会がすぐに改善されるとはいえません。社会の基本構造は分かり易くできているかもしれませんが、様々な複雑な問題が付随しています。それゆえに、その複雑な問題を分析して、それを思想へと取り入れて、レベルアップさせて、社会に立ち向かっていかなければなりません。このように思想と行動は相互に影響しあう関係にあります。そして、思想が硬直化したり、動脈硬化を起こさないようにして、日常生活に関わる小さな問題を受け入れることができるようにするために、社会の政治や経済の基本問題を理論的に明らかにするだけでなく、毎日の生活上の様々な応用問題にしっかりと取り組み、その内容を思想に反映させることが必要になってきます。そのような意味において、プラグマティズムは、頭の固い理論ではなく、柔軟な理論だといえます。このような主張には、34頁に書かれているように、戦前の日本共産党の唯物論が目の前で生じている様々な事柄について捉える問題意識を持ち切れなかったに対する批判が込められています。ただし、プラグマティズムが唯物論の代わりになり得るというのではありません。むしろ、プラグマティズムは、それを捕捉する役割を担いうるという意味で理解できると思います。
 このようにプラグマティズムは、思想から行動へ、そして行動から思想へ、そして再び思想から行動へと向かいます。これに対して、「生活綴り方運動」は、逆です。「生活綴り方運動」では、生活の記録を書くという「行動」がまずあります。そして、行われた行動に対する反省として、「あのように書くべきであったので、今後はこのように書こう」という提案が出され、それにもとづいて書き方の「思想」が形成され、それが再び行動へと反映されます。この場合は、行動から思想へ、そして思想から行動へ、そして再び行動から思想へと向かうことになります。そもそも、プラグマティズムの「プラグマ」とは、「行動」を意味しますので、プラグマティズムは行動主義、行動第一主義と訳すことができます。その意味では、「生活綴り方運動」は、アメリカ哲学としてのプラグマティズムよりも、徹底したプラグマティズムの運動であるということができます。アメリカのプラグマティズムが、哲学から無意味な議論を追い出すために、「読み方の方法」として工夫されたのに対して、日本のプラグマティズム、「生活綴り方運動」は、自分の生活の真の姿を描き出すための「書き方の方法」の理論として出発したと言えます。アメリカのプラグマティズム哲学は、思想や概念のなかに意味のない事柄が入ってこないようにするための防禦的な側面が強かったのですが、「生活綴り方運動」は、生活の改善をすすめるための攻勢的な側面が強かった言えます。

(3)生活綴り方運動とは何か
 次に、「生活綴り方運動」について見ていきます。「生活綴り方運動」の起源は、教育者である芦田恵之助の教育実践にさかのぼります。芦田さんは、京都府の福知山の小学校で教師をしていた人ですが、1896年、23才のときに大洪水に見舞われ、小学校の校舎が壊れるという被害を受けます。校舎の復旧工事は行われましたが、改修資金が足りなかったため、スムーズに進まなかったようです。そこで、芦田さんは一か月の休暇をとって、京都市内に出て寄付を集めてまわります。そのときに、水害の実情を「丙申水害記」につづり、寄付してくれた人に手渡したようです。芦田さんは、その経験を通じて、実生活を書き表して、相手に伝えることの必要性を実感し、教育において普及することを自覚的に追求していきました。そして、1898年に京都市で開催された作文指導方法の懸賞論文に応募して、一等に入選します。その後、東京高等師範学校の附属小学校に転勤することになりましたが、ノイローゼになったようです。東京へ転勤したのは、懸賞論文で一等に入選し、教育者として高い評価を受けたからですが、ノイローゼになったのは、少し複雑な事情があったようです。というのは、小学生に対する作文指導力を買われて、福知山の小学校から東京高等師範学校の附属小学校に転勤したのはよかったのですが、芦田さんに求められたのは、教師の側から見た作文の書かせ方の指導であって、書き手である小学生の作文の書き方の指導ではなかったようです。芦田さんは、文部省が決めた「型」に合わせて作文の書かせ方を指導することに生き甲斐を感じなくなり、ノイローゼになったようです。
 芦田さんは、そのような状態から脱するために、岡田虎二郎という人を訪ね、そこで「静座」を始めます。「静座」とは、「静かに座る」と書きます。座禅を組んで、心身ともに和らいだ状態で物事を考え、自分を見つめることです。そのような思考と自省を積み重ねて、悩みや問題を解決する糸口をさぐるのが「静座」です。岡田虎二郎という人は、人から相談を受けて、一緒になって考え、解決の糸口を探る活動を行っていました。久野さんと鶴見さんの見方によれば、これが禅宗の方法、東洋的な観念論から出発していると同時に、プラグマティズムの性格を持っていると言います。相談を持ちかけてきた人に対して、「あなたの抱えている問題は、○○の問題なので、××とやっていけば解決しますよ」と、医者のように処方箋を書いて、薬を投与するような方法をとりません。本人が自分の問題を気づき、それを自分の力で解決していけるように、援助に徹します。それは1950年代のアメリカで成立したカウンセリング方法とも共通性を持ち、今では「岡田式静静坐法」と呼ばれて、受け継がれています。
 芦田さんは、岡田さんのところで静座するなかで、次のようなことを学んだといいます(78頁)。芦田さんは、自分のことを振り返り、自分の体験にもとづいてつかみ取った確実なものが非常に少ないことに気づきました。それまで生徒の前でわがもの顔で語ってきたことは、書物で読んだり、人から聞いたりしたことで、自分の経験や体験にもとづくものではなかったというのです。本で読んで得た知識を生徒の前で話すというのは、教師として当然のことなのですが、それだけでは力が弱いというか、迫力に欠けるわけです。このことを岡田さんに話したところ、「それでよいのじゃないか」と、意外な答えが返ってきました。芦田さんは、生徒に話していたことが他人からの受け売りで、自分の経験にもとづいていないので、非常に不安であると訴えると、岡田さんは「無いものが無いと信ずるほど確かなことはない。真に求める心は、その無に徹しなければ、出てくるものではない。無から有の生ずる義をよくよく悟らなければならない」と答えたといいます。この言葉は非常に意味の深い言葉だと思います。私たちは他人と比較して、あれがない、これがないと自信をなくすことが多いです。その不足を補うために、本を読んだり、知識を身につけたりします。それは当たり前のことなのですが、それで満足してはいけないということです。本を読んだり、人の話を聞いて、知識を身に付けたような気持ちになっても、自分の経験や体験は「無い」のです。この「無い」という事実を直視して、そこから出発して、自分だけのオリジナルな知識を身につける努力をしなければならないのです。その出発点は、「無いものは無い」ということを体験的に知るところにあります。その作業を通じて、自分の頭で考えて、自分の知識を作りあげていくことができるということを岡田さんは伝えたかったのだと思います。非常に教訓的な話だと思います。

(4)生活綴り方運動の基本原則
 芦田さんは岡田さんのところで学んだあと、1913年、40才の時に、『綴り方教授』という本を書きます。明治時代の教育界を支配していた教師の押し付け的で、紋切り型の教育を批判して、自分で自分の文章を綴ることが基本であると主張しました。当時は、教師が生徒に作文のテーマを与えるとき、すでに教師は生徒に「このような内容で書きなさい」ということを暗に指示していたようです。それは押し付け的な指導であって、生徒の自発性を引き出す指導ではありません。そして、綴り方だけでなく、読み方についても、教師は生徒に対して「このように読んで理解しなさい」ということを押し付けていました。読書の方法、読み方の方法についても改革するために、44才のときに『読み方教授』を書きました。当時の歴史的背景を考えれば、明治時代の教育、しかも「教育勅語」にもとづく教育が行われていたわけですから、生徒をその枠組から解放して、自由に作文を書かせたり、自由に読書させるというのは画期的であると同時に、批判的であったと思います。そのために芦田さんは攻撃の的になったようです。
 芦田さんの後をついで、「生活綴り方運動」を担ったのは、鈴木三重吉さんでした。鈴木さんは、1918年から1936年まで、『赤い鳥』という綴り方を中心とする児童雑誌を発行し続けました。鈴木さんは、1882年生まれで、夏目漱石の門下生をしていた24才のときに、『千鳥』という作品で文壇にデビューした文学者ですが、子どもが書く文章に当時の一流作家の文章の水準を超えるみずみずしさを感じ取ったことから、芦田さんの後を継いで運動に入っていったようです。1935年に鈴木さんは、『綴方読本』という書物をまとめています。1935年というのは、日本が中国に対して戦争を仕掛けていった時代であり、滝川事件に見られるように、学問の自由や言論の自由が押しつぶされつつあった時代です。この時代の文部省の押し付け的な教育方針に対して、鈴木さんが批判的な立場をとっていたことが、82頁から87頁までの文章でよく分かります。
 教師たちは、生徒がうまく作文を書けない、といって口をこぼしているが、それは生徒ではなく、教師に問題があるからである。教師は、生徒には書けない難しいテーマを提示している。文章というのは、自分の経験したことした書けないのであり、子供であれば、なおさらそうである。そんなことも分からずに、子どもの難しい作文を、空想的な作文を書かせているのが教師である。「忍耐」だとか、「春」だとか、「国旗」をテーマにした作文は、たとえ経験したことがあっても、また見たり聞いたりしたことがあっても、それを総括して自分の言葉で書き表せるようなものではない。例えば、国旗というテーマで書かれた生徒の作文を見れば、どのような問題があるのかがよくわかる。そこには、「教育勅語」の精神を子どもに詰め込み、それにもとづいて機械のように考えさせ、文章を書かせる作文指導がうかがわれる。それは、生徒に自分の生活を自分の頭で考えさせ、語らせる指導ではない。
 鈴木さんは、このように考えて、作文の方法、すなわち綴り方は「生活の記録である」という基本的な立場に立ちます。「忍耐」にせよ、「春」にせよ、「国旗」にせよ、それは作文のテーマになりうるものですが、小学生が生活の体験にもとづいて、実感のこもった作文を書けるというと、難しいでしょう。したがって、作文の基本は、生徒が自分の生活実感のこもった文章がかけるようなテーマであることが必要です。しかしながら、生徒が自分の生活実感から文章を書く場合、考えたことや、感じたことといったものは、非常に断片的になりがちです。怖かったとか、楽しかったというような表現で終わってしまう可能性があります。そういう意味で、鈴木さんの教授方法は、感想文と作文を分けて、作文の方法を中心にしてえ、感想文については、小学生の綴り方としては除外しています。
 鈴木三重吉さんの「生活綴り方運動」の基本的な考えについて、皆さんはどのように感じましたか。私が感じたことを2つ紹介しておきたいと思います。第1点は、当時の文部省の教育方針と「生活綴り方運動」との関係についてです。第2点は、実生活の実感のこもった作文を書くためには、ありのままの生活を写し出すという方法がとられるという点です。それは、生活のリアリな有様を描く芸術的な方法だという点です。
 第1点目の文部省と「生活綴り方運動」との関係ですが、先ほども言いましたように、太平洋戦争が終わるまでの日本の教育制度は、「教育勅語」にもとづく国家主義的なものでした。このような教育においては、小学生もまた国家や社会に役に立つような人間として成長していくことが期待されていました。子どももまた、そのように育てられているので、小学生の時分から、物事を考えるときには、どのように考え、行動することが期待されているかを意識したと思います。したがって、教師が作文のテーマを与え、小学生がそのテーマにもとづいて作文を書くときに、小学生は、どのような作文を書けば、教師の期待に応えることができるかを考えるわけです。先生や大人の期待にこたえるために、子どもは先生に褒めてもらえるよう、一生懸命に背伸びをして文章を書くといった感じです。先生にほめてもらえると、非常に光栄なこと、名誉なことなのです。自分の子どもが作文を書いて、先生にほめられたとか、地元の作文集に載せてもらったとか、役場で表彰状をもらったなら、親も大喜びするわけです。私も経験がありますが、子どもが小学校の低学年のころ、国語の授業で書いた作文が良かったようで、担任の先生がクラスの代表作として地元の作文コンクールに応募しました。そのとき、担任の先生が、私の子どもに、「ここは、こうして書いた方がいいんじゃないかな」と、文章を直したんです。先生としては、コンクールで入選してほしいため、善意で書き変えの指導をしたのだと思いますが、私の子どもは、そのことを良く思わなかったようで、「あの作文は自分が書いたんじゃない、先生が書きなおした」と不満そうに言っていました。善意であっても、子どもにとっては「押し付け」でしかなかったようです。今の教育においても、善意で書き変えをするよう指導するわけですから、昭和初期の頃の教育であれば、文部省の言う通りの教育をおこなうよう強い圧力がかけられたことは容易に想像できます。そのような時代に、自分の実生活の実感のこもった作文を書くよう生徒に指導することは、文部省と対立することは避けられなかったと思います。芦田さんも、鈴木さんも、天皇制に反対するとか、国家の政策に反対して、社会主義を主張していたわけではありません。子どもには、生き生きとした作文を書く能力があることを確信して、そのための指導を行っただけです。それが当時の教育方針と対立したのは残念ですが、「生活綴り方運動」には、人間の理性というか、自然のままの人間を大切にする姿勢があるように思います。それは国家中心ではなく、人間中心の教育方針とも言えます。
 第2点目は、「生活綴り方運動」は、芸術至上主義運動であったという点です。「生活綴り方運動」が芸術至上主義運動であったというのは、これはどういう意味でしょうか(87頁)。芸術という言葉を聞いた時に、思い浮かべるのは、絵画、音楽、演劇などでしょう。それらは、一般には美を追求する創作活動ですが、美の追求に尽きるものではありません。芸術とは、人間の真の姿を探求し、それを表現します。人間に美しさが備わっているならば、芸術はそれをリアルに表現します。同時に人間に醜くさがあるならば、芸術はそれをもリアルに表現します。ありのままの人間をありのままに表現しようとするところに芸術の本質があるのです。「生活綴り方運動」は、子どもに体験と経験にもとづいて、生活をいきいきと書き表すことを目指しています。書き表すのは、例えば朝起きて東の空に見た朝日であるとか、姉や弟と一緒に朝ごはんを食べたときのことです。上手くお箸を使えない弟のために、姉がこうしなさい、ああしなさいと母親のように世話を焼いていたこと。学校で友達と一緒に給食を食べ、好き嫌いの多い友達のこと、よくお代わりをする友達のこと。夕方に弟とお風呂に一緒に入って、からだを洗ってあげ、ひざをけがしている理由を聞いたこと。転んでけがをして、泣いたこと。夜寝るとき、寝床で今日一日あったことを話し合いながら、知らない間に眠りについたこと。このような日常生活のなかにある生き生きとした子どもの表情をリアルに表現するところに「生活綴り方運動」の重要性があるのだと思います。その意味で、「生活綴り方運動」には高い芸術性があります。
 昭和初期の「生活綴り方運動」には、見てきましたように、当時の文部省の教育方針と対立するリベラルな側面、また生活実感をありのままに表現す芸術的な側面がありました。しかし、この運動が全国的に進められるなかで、鈴木さんの意図を超えて、芸術性を超えた作文を生み出したといいます(87頁)。この運動は、芦田さんが勤務していた東京高等師範学校の附属小学校のようにエリートの子どもが通う小学校だけでなく、普通の小学校、つまり労働者や農民の子どもが通う小学校にも広げられました。そのために、芦田さんや鈴木さんが予想してい芸術的な創作活動を超え、別の傾向を示し始めました。

(5)綴られる生活の社会性と階級性
 『赤い鳥』の1935年1月号に、「はだしタビ」という作文が掲載されていたそうです。当時13才の豊田正子という子どもが書いたものです。どのような内容の作文であったかというと、雪の降る寒い冬の日に、正子は学校に行きたいが、着ていく服がないので、「お母さんのはんてん」を着て行った。下駄やぞうりを履いていけないので、「お父さんの地下タビ」をはいていった。そのような内容の作文です。冬に雪が降れば、傘をさしたり、蓑をかぶったりします。暖かい服を着ていきます。靴をはいていきます。しかし、正子には、傘も蓑もありません。靴もありません。正子の家は貧しいため、子ども専用のものはありません。皆さんが正子だったらどうしますか。雪の降る中、傘をささずに歩いていきますか。薄い着物を着たまま、下駄をはいて行きますか。そうすれば、傘や服を持っていないこと、靴がないことが知られてしまいます。自分の家は貧乏だということが分かってしまいます。学校に行きたいとはあまり思わないのではないでしょうか。休みたいという気持ちになるのではないでしょうか。しかし、正子は、「お母さんのはんてん」を着て、「お父さんの地下タビ」をはいて、学校に行くのです。「お母さんのはんてん」を着ている姿をクラスメートに見られると、かっこう悪いに違いありません。「ダサイ」と言われるかもしれません。また「お父さんの地下タビ」をはいていると、クラスメートはきっと、「おっさんのタビをはいている」と茶化すでしょう。正子は、それを知らないわけではあありません。それを承知の上で、「お母さんのはんてん」を着て、「お父さんの地下タビ」をはいって、雪の降るなか、学校に向かっていったのです。そして、それを「はだしタビ」という作文に書いたのです。
 正子が学校に向かって歩く後ろ姿が目に浮かびます。正子が「お母さんのはんてん」を着ながら授業を受けている姿も見えてきます。正子のありのままの生活がリアルに実感できます。しかし、それは芸術性の高い作文であるというよりは、その当時の社会を浮き彫りにした作文であると思います。正子の家は非常に貧しく、父親が建築労働などの肉体労働で家経を支えています。その父親に、「傘を買ってほしい」とか、「靴を買ってほしい」となかなかいえない。正子は、自分の家が貧しいために、友達が持っているような傘や靴を買えないことを知っています。しかも、正子はそんな父親を嫌ってはいません。父親から「これをはいていけ」といわれて、はいて学校に行っているんです。母親から「これを着ていきなさい」といわれて、着て学校に行くんです。父親のタビをはいたときに、正子は何を実感したんでしょうか。「ああ、父さんは、これをはいて仕事をしているんだな」と感じたのではないでしょうか。また、母親のはんてんを着たとき、何を感じたのでしょうか。大きなはんてんを着て、雪の寒さを吹き飛ばすような温かさ、母親の温かさをの感じとったのではないでしょうか。ここには、貧しくとも素直に育っている子どもが表現されています。貧しさや寂しさを力強く押しのける労働者家族のだんらん、親子の絆が感じられます。
 「生活綴り方運動」は、このように芸術的な運動から社会を写し出す運動へと変化・発展していきます。次回は、その内容をもう少し詳しく見ていきたいと思います。非常に重要なところなので、88頁から98頁までを読んでおいてください。