Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

新カント主義刑法思想と日本法理運動

2022-04-04 | 旅行
 新カント主義刑法思想と日本法理運動--小野清一郎の法理学はいかにして「敗北」したか
                                          
 一 時局と法理学
 東京帝国大学法学部教授の小野清一郎は、太平洋戦争開戦の翌年、自身の著書『日本法理の自覚的展開』の「序」において1)、過去30年の法理学的思索を総括し、その到達点を踏まえて更なる思索の深化と展開へ踏み出す決意を記した。そこには、米英との戦争へと突入した当時の法学者の厳しい決意があった。
 小野は述べる。東アジアにおける政治的時局の推移に伴い、学術・文化のあらゆる領域において「日本的なるもの」を捉え直すことが求められている。それは、法律学、ことに法の本質を考察する法理学の分野における喫緊の課題である。法理学における「日本的なるもの」の考察は、その学的対象を時局の推移に関係づけ、それが求める理論的・実践的要請に応えることを目的とする。しかも、それにとどまるものではない。欧米の文化に対する日本の文化、さらには西洋文明に対する東洋の智慧の価値を確認し、その優位性と歴史的使命を自覚し、それを法理学において実践する。そのような積極的な課題が課されている。若かりし頃に西洋の文明と法律学を学び、それに感化され、西洋伝来の法理を講ずることを職責とするようになった。しかし、それだけでは日本法理の精神的実体と論理に迫ることはできなかった。日本史の原初的時代に遡ることによって、そこに純粋の日本的思惟を発見し、それを日本法理の精神的基盤にできるのではないかと逡巡したこともあった。もちろん、日本史の具体的な発展過程を無視した観念的議論の域を超えることはできなかった。日本の真の姿はどこに確認できるのか。それを考え続けた。徐々に見えてきた。そこには美しい雄大な日本の原風景はなかった。自己の歴史的使命を果たさんとして肉体的・精神的に苦悩する凄まじい日本人の姿があった。苦しみながら自己の否定と再否定を繰り返す現実の歴史的発展過程こそが真の日本の姿であった。日本の歴史は、悠久なる東洋文化、ことにインドや中国の文化を摂取し、それを地盤として自己の文化を創造してきた。さらには明治維新以降に継受した西洋文明を契機にして、日本の文化と学芸を世界的な水準にまで引き上げた。今や洋の東西の文化を網羅し、その学識を統合できるのは、日本文化をおいて他にはない。それは日本法理についても同様である。
 日本法理運動は、このような歴史認識に基づいて、自己に課された歴史的使命を次のように規定した。皇国の国是を法理として具体化すること、欧米の帝国主義諸国の植民地主義に抗するために法体制を確立すること、そして日本を中心とする東アジアの法秩序を打ち立て、それを世界的規模の法秩序へと展開することである。それは小野にとって前線にで闘う兵士のごとく命を賭して遂行すべき任務であった。


二 欧化する法理学
 小野清一郎は、1891年(明治24年)に岩手県の盛岡に生まれた。東京帝国大学法学部の牧野英一のもとで刑法学の研究を志し、まずは検察官として刑事実務に従事し、その後、助教授として迎えられ、第一次世界大戦終結後のフランス、ドイツで学んだ。とりわけ、当時のドイツ法学において主流であった新カント主義の価値哲学に基礎づけられた刑法学説に関心を示し、昭和初期の日本においてそれを普及した。それは、存在と当為、現実と理念、事実と価値を峻別し、観念的な法的理念・規範の世界から現実の法制度とその運用の実態を批評し、あるべき法制度を構想する批判精神に満ちた刑法学説であった。それは、多くの刑法学徒を魅了した。
 小野の指導教官であった牧野は、19世紀末に台頭した近代学派の刑法思想に依拠し、自身の刑法学説を体系化し終えていた。それはイギリスやフランスで成立した自然科学・実証科学の方法論を人間社会にも応用する刑法学説であり、社会の維持と犯罪の予防という政策的な問題関心に導かれた合目的的な刑法学説であった。牧野と小野の間には、刑法学の対象と課題、依拠する方法論に関して大きな隔たりがあったが、弟子は違う道を歩きながら師匠を超えていくという当時のアカデミズムの流儀に習う限り、対立と論争は純学問的であり、その背景にある思想的・党派的な対立が露見することはなかった2)。
 明治維新当初、日本に流入したのはイギリスやフランスの共和主義的な法制度と法思想であった。それは日本社会の近代化と経済の資本主義化という目的に適ったものであったが、天皇の神権政治と国体に応ずるものではなかった。そのため、共通性が認められた帝政ドイツの制度と思想が取り入れられた。ドイツは、ヨーロッパの中でも後発の資本主義国であり、経済的貧困、文化的退廃、社会的逸脱行為、犯罪など経済的要因に起因する深刻な社会問題に頭を悩ませていた。また、経済社会を土台から変革しようとする反体制的な労働運動にも対応する必要があり、苦慮していた。犯罪対策の方法・手段としての刑罰法規は、犯罪人の性格、教育水準、前科・前歴など個人的属性に合わせて柔軟に解釈・適用されるべきとされた。科される刑罰の種類と量もまた、犯罪人の法敵対的性格と人格的危険性を基準に計量すべきであると論じられた。それは自然的・物理的世界において妥当する科学的・合理的な方法を人間社会や人間行動に応用した必然的結果でもあった。この時期に形成された近代学派の刑法学説の対象と課題は、このように具体的であり、かつ政治的な性質を帯びていた。それゆえ、その研究方法は階級的な性質を帯びざるを得なかった。
 これに対抗する側から、猛烈な批判が向けられた。犯罪が増加し、治安が悪化し、その直接の原因である犯罪に対して国家が対処し得るとしても、国家は刑罰法規を超えて権力を行使することは許されない。刑法は国家が乗り越えることができない壁であり、犯罪人の人権憲章(マグナカルタ)である。国家刑罰権の濫用と恣意的行使を制約する罪刑法定主義は、近代刑法の鉄則であることを肝に銘じるべきである。犯罪の究極的な原因は、資本主義的搾取と収奪を許容する経済体制にあり、これを是正し、平等と福祉を開花させる社会政策こそが最良の刑事政策である。小野と同年の生まれであり、ほぼ同じ時期にドイツで学んだ京都帝国大学法学部の瀧川幸辰は、ロシア革命が日本に及ぼしたマルクス主義の思想的影響を背景に、牧野とは対照的な立場から国家と刑法の階級性を指摘し、その無制約な解釈・適用の歴史的反動性を告発した。
 小野は、新カント主義、とくに西南ドイツ学派の価値哲学の影響を背景に、幼少の頃に開明を受けた仏教教理の「文化主義的正義観」に基づいて、当為としての文化的共同体とその法の理念の視座から、牧野流の刑法学説や現実の刑事実務の文化的野蛮性を批判した。例えば、客観的に観れば法益を侵害しえない行為(不能犯)をも行為者の意思や性格の危険性を理由に未遂犯として処罰しようとする刑法改正の動向を「国家絶対主義のイデオロギー」と非難し、それは18世紀の「警察国家的法律状態」へと舞い戻り、「金融資本主義的又は帝国主義的政治勢力の絶対的支配」を容認することになると厳しく批判した。小野も瀧川と同様に、刑法における罪刑法定主義を堅持し、その意義を強く訴えた。
 純学問的な立場から刑法学上の論争を続けることは、もはや許されなかった。その背景には妥協を許さない思想性と党派性があることが、1933年の「滝川事件」で明らかになった3)。


 三 危機の時代の法理学
 1933年2月、帝国議会衆議院議員の宮澤裕は、予算委員会の席上、直接名指しを避けながらも、特定の個人と分かる形で4人の教官を「赤化教授」であると非難し、文部省に対して彼らを免職するよう要求した。その4人には2人の刑法学者が含まれていた。一人は、その学説がマルクス主義的であり、また日頃の言動が体制批判的で、ぞんざいな瀧川であった。瀧川は歯に衣着せぬ物言いをするというより、歯に着せる衣を持ち合わせない人格であったという。彼が10歳年下の君子を「天皇君」と呼び捨てにしても、驚く者はいなかったほどである。そして、宮澤議員によって「赤化教授」と指弾されたもう一人は、牧野であった。その理由は明らかではないが、その刑法学説の基礎にある自然主義・実証主義、総じて合理主義的な科学的自然観を国家と法、社会と人間の領域にまで応用的できると確信する国家観が、日本古来の国体の思想と相容れなかったからであろう。また日本古来の伝統や文化、生活様式や民間信仰なども究極的には歴史的な産物であるとして、欧米諸国のそれと比較可能な考察対象にし、その絶対性と不可侵性を軽んじたからであろう。いずれにせよ、1933年8年5月、文部省はこのうち瀧川を休職処分にする判断を言い渡した。これによって反体制的な学問が危機に見舞われたことは周知のところである4)。
 では、小野はどうであったか。小野は、「文化主義的正義観」の法理念に基づいて現実の刑法制度を批判したが、彼は「赤化教授」には数えられなかった。追放されたのはマルクス主義の批判的な法律家であった。客観的に存在するものは、生成・発展・消滅の弁証法的過程にある。存在するものは内的矛盾を契機として自らを否定し、存在すべき理性的な高次のものへと必然的かつ合法則的に変化・発展する。かかる社会発展の弁証法的認識論に基づいて現実の法制度の内的・矛盾的契機を暴露し、その崩壊後の法制度を展望する科学的な法律観は、既存の法制度の存続にとって脅威であった。これに対して小野が依拠した新カント主義の価値哲学はどうであったか。彼が理念的に構想した文化主義的正義観と文化的共同体の法理念は確かに現実の正義観や法的実践とは異なり、それに対して批判的であったが、それは観念の世界からの批判であり、その限りにおいて既存の法制度に痛痒を感じさせない人畜無害な批判でしかなかった。国家絶対主義、警察国家、金融資本主義・帝国主義と語気を強めて厳しく批判しても、文部省は小野の言葉を歯牙にもかけなかった。
 白けたムードが漂った。小野の業績一覧を見ると分かるが、彼の研究業績は1935年前後まで空白である。彼は口を閉ざし、沈黙した。


 四 沈黙する法理学
 1新カント主義とは何か
 そもそも新カント主義とは、いかなる哲学的理論であったのか。それは、カントの批判哲学の甦生であった。哲学的批判とは、対象の批判的認識であり、批判的反省であった。認識する主体は、その客体たる対象から距離を置き、そこから対象を認識する。したがって、距離を置いているという意味において認識は間接的である。反省は、その客体である対象から超然とした場所に立ち、その位置から対象を洞察する。したがって、超越的であるという意味において反省は媒介的である。認識と対象との間には直接性はなく、反省と対象との間にも直接性はない。つねに間接的・媒介的である。
 対象を批判的に認識・反省できるのは、批判の基準となる文化と価値が先験的に存在するからである。対象は生々しく荒々しい存在である。それは何なのか。いかなる意味を有するのか。対象の意味は、それ自体において明らかにすることはできない。対象が何であるか、それがいかなる意味を有するかは、文化や価値を通じてのみ認識され、反省することができる。カントにおけるのと同様に、新カント主義において問題になりうるのは、対象それ自体ではなく、対象をどのように認識するか、いかに反省するかである。対象は存在することだけでは意味を持たない。文化と価値を介した認識と反省によって意味が与えられ、それによって成立する。確かに対象はそこに存在するが、そこに存在する対象は意味を持たない。意味ある対象は文化と価値を介した認識の中に、知性に基づく反省の中にのみ存在する。存在と当為、現実と理性、事実と規範、客観と主観、行為と意味などの二元論は、新カント主義の理論的特徴を端的に指摘したものということができる5)。


 2近代における自然主義と実証主義
 では、新カント主義とは、どのような時代に登場した哲学的理論なのか。それは19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパ、とくにドイツの哲学界を席巻した一大学派であった。
 19世紀ドイツにおける産業革命の進行は、それまでの封建的な政治的伝統に支配されていた人々を解放し、その多くを資本主義的生産関係へと統合した。学問的思索を通じて教養を育む人文主義の伝統は衰退し、細分化され専門化された実用的な学問が資本主義的生産力を向上する動力として動員された。ゲーテやフンボルトに代表される調和的な自然哲学はロマン主義の脈絡において語られるだけになった。ヘーゲルの逝去に伴い、統合的で体系的・自己完結的な学術は失速し、学問の細分化に拍車を掛けた。巨大な哲学的思想に統合され居場所を与えられてきた数々の学問領域は、その解体と共に個別科学へと分化した。自己の理論的正当性を裏付けるためは、もはや哲学的基礎づけは不要となり、自らがその正当性を主張し、その存在の必要性を示すことを迫られた。経済的実用性、社会性必要性、科学的実証性などが学問の中心課題になった6)。
 本質や実体をめぐる思索は旧い時代の哲学的思考だとして退けられ、事実に即した実験と実証、原因と結果の因果法則性が学問の関心事になった。無から有へ、そして有から他へと変化・発展する事物の法則、その契機・動因の組成構造、法則的可能性と現実的可能性、その予測可能性などを解明することが学問の課題であり、それは自然科学の分析と総合、実証科学の実験と実証によって担保された。存在する対象はすべて自然的な存在であり、それは因果法則に従って生成・発展・消滅する事象である。それは事実的存在であり、因果法則によって説明される以外に意味などない。認識とは、対象としての事実の認識であり、それ以外に意味や価値などを問題にする必要はない。生の食材が調理されて初めて食品になるのと同じように、直接的な対象、即自的な存在もまた加工され、構成されて初めて有意味的な存在になると論ずるものもあるが、それは合理主義的科学とは別次元のお喋りでしかない。ヘーゲル没後のヨーロッパの思想界の主流は、自然科学的な科学観と実証主義的な事実観によって支配され始めたと言っても過言ではない7)。
 ヘーゲルは、『法哲学綱要』の序文において「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と現実と理性の弁証法的統一を論じたとき、彼は「有るもの」全てが「理性的なもの」であり、また「有るもの」全てが「現実的なもの」であるとは考えていなかったはずである。かつて古代ローマの歴史において奴隷制が現に有り、実在していた。しかし、有るということだけで、それが理性的なものであることの存在証明にはならないはずである。それが理性的でなければ、非現実的でしかない。眼の前に有るものは、晩かれ早かれ理性によって突き動かされて現実的なものへと変化・発展するに違いない。このような理性と現実の弁証法は、反理性的・反現実的なものが理性的現実へと自己変革を遂げることを予見する革命的思想であったはずである8)。
 しかし、近代以降の市民階級にとっては、またヘーゲル没後のドイツ市民階級にとっても、そのような議論は形而上学でしかなかった。眼の前に事実として有るものが、現実的なものである。それゆえに、それは理性的なのである。それ以上でもなければ、それ以下でもない。眼の前に有るからといって、それが現実的であると言えるのか、そもそも有るとはいかなる意味か、現実的とはどういうことをいうのか、それらを明らかにしなければ理性について語ることなどできないのではないか、といったことを論ずる必要はない。眼の前に有る以上、それは現実なものであり、それゆえに理性的なのである。現実は、経験に解消できる。経験こそ現実を実証する唯一の根拠である。理性的であることの根拠も同じである。存在は当然に為るべくして為った当為的存在である。現実的なものは理性的なものである。現実は因果法則に基づいて生成する事象であって、それに形而上の規範的意味を問うことは無用である。


 3進化論的社会理論とマルクス主義
 このような現実と理性の経験的一致は、19世紀初頭以降の自然科学研究の飛躍的な発展とそれによって推進された産業革命によって実証されたかに見えた。自然科学的知識の進展・拡張・伝播は、前近代のキリスト教的あるいは王権神授的な封建的・身分的支配から無知蒙昧な人間を解放し、彼らを近代社会の担い手たる市民として自立させたと言われてきた。人々は、それまで囚われてきた魔術的・神話的世界観や形而上学的思惟を乗り越え、科学的・実証的世界観と合理主義的思惟を獲得し始めた。魔女裁判も宗教戦争も過去のものになり、平和と幸福は平静と柔和な知性によって人間社会にもたらされるに違いないと信じられた。
 しかし、バラ色の近代的世界像は徐々に色あせた。自然科学的知識の進展は人間を前近代の呪縛から解き放ったが、彼らの両足には資本主義的生産関係の鉄鎖かせがはめられ、資本家による搾取と収奪の餌食として捧げられた。自然科学の進展と産業革命が推し進めた資本主義経済は、一方の極においては富と財、富裕と余暇、健康と美容、夢と希望などの快楽と幸福を集積しながら、他方の極には貧困と負債、窮乏と忙殺、疾病と病理、暴力と絶望などの不快と不幸を沈殿させた。幸福も不幸も眼の前に事実として有り、それは現実的なものである。しかし、それは理性的ではない。他者の不幸の上に君臨する幸福が理性的でないのは言うまでもない。眼の前に有るものは現実的であるが、それは理性の対立物になっている。そうすると、今一度、現実的とは、理性的とはどのような意味なのかを明らかにしなければならない。眼の前に有るものが現実なものなのか。理性的なのか。経験は現実を実証する唯一の根拠であるというが、人々が経験している現実は過酷であり、現実が実証するのは資本主義的野蛮だけである。
 このような過酷な現実は批判にさらされることになる。資本主義的自由競争の過酷な現実は、人間社会の進化の過程において必然的に生ずる。自然界や生物界におけるのと同様に人間界も弱肉強食と適者生存の原理に従わざるをえないが、市場メカニズムに対する不適者を適者たらしめ、労働力と技能において弱者を強者へと引き上げる社会政策が講じられれば、彼らをも自由放任主義のもとに包摂することができるはずである。たとえ資本主義的法秩序から弾き飛ばされた人々であっても、刑務所の監視・管理体制において、刑務作業を通じて、社会的生活習慣と社会規範を習得し、労働習慣と労働規範を獲得するならば、労働市場へと再び舞い戻ることができるであろう。受刑者は、その個別の特性に応じた刑罰の特別予防効果によって教化され、社会復帰を遂げることができるであろう。ダーウィンの進化論に着想を得た社会理論は、資本主義の現実を自然科学によって克服できると本気で信じて、科学の言辞を用いて資本主義経済のメカニズムを正当化する議論を続けた。
 これに対してマルクス主義は、資本主義の過酷な現実は、資本主義的生産関係における賃労働と資本の基本矛盾を止揚すること以外には解決できず、それは階級的に組織されたプロレタリアートによる革命運動を媒介にすることなしには成し遂げ得ないと主張した。資本の論理と無政府主義が貫徹する資本主義経済は、それゆえに一方では急速な生産力を強化し、価値増殖を増強する資本主義の生成・発展の肯定的契機を持ちながら、同時に他方では資本主義経済の消滅を加速化し、その内部からそれ自体を変革する労働者階級という否定的契機を生み出す。人間社会は自然史の一コマであり、それもまた自然史の発展過程において因果法則に基づいて合法則的に変化・発展する歴史の一部である。資本主義は、人間の社会史において登場した歴史の一コマであり、それは過去から現在へ、そして未来へと変化する人類史の過渡期でしかない。人間社会は、必ずや資本主義の限界を乗り越えることができるに違いない。経済社会の理性的設計図に基づいて、それを計画・管理する新しい経済社会のメカニズムを機動させるに違いない。その担い手は、労働者階級において他にない。このように説かれた9)。


 4新カント主義の「淋しさ」と「孤独」
 新カント主義は、19世紀後半のこのような議論に直面しながら、いずれにも与することはなかった。進化論的な社会理論であれ、マルクス主義の革命理論であれ、それらが対象とする事実や現実は自然科学や実証科学のそれと同様に没価値的な事実や現実である。それが自然や動物のように、あるいは自然史の1コマとして進化・発展を遂げるとしても、その進化・発展の指針は何なのか。その方向と現在の位置を確認するための羅針盤はどこにあるのか。それが理性の方向へと進歩し、野蛮へと後退しないために、人間社会の行く末と国のあり方を制御・統制する技法はあるのか。進化の過程や社会の変化・発展の因果的法則性や歴史必然性を受け容れられるか否かを判定する基準がなければ、その是非を判断することはできないのではないか。問われているのは、進化と変化の因果法則性、その必然性と合法則性ではなく、その妥当性ではないのか。自然科学や実証科学の対象は、その内在的な法則に従って変化・発展しているのは確かであるが、人間の社会を同じように論ずることはできない。人間社会には固有の歴史、伝統、文化、生活様式などが定着し、それが共同生活における道徳、倫理、価値と諸個人の精神生活のあり方を決定している。存在するものが当然にして為るべくして為ったものであるかと言えるか、現実的なものが理性的であると判断できるか、眼の前にある事実的なものを妥当なものとして受け容れることができるか否かは、歴史的に形成された文化、価値、社会的倫理を規準にしなければ判断しえないのではないか。人間の認識の外部において生起した客観的な実在は、認識主体の主観の中にある価値基準に照らすことで、初めて意味を持ちうるのではないのか。新カント主義の方法二元論は、進化論的社会理論やマルクス主義の革命理論が置き去りにした価値と妥当性を認識批判の基準として取り戻し、それを社会科学に、さらには法学に導入して、カント以来の批判的な認識論に今一度舞い戻ろうとしたのである。
 新カント主義が批判的であるためには、文化と価値を必要した。文化と価値は、現実と事実に対して間接的であった。現実と事実が客観的であるなら、文化と価値は主観的であった。新カント主義は、現実と事実をそれ自体において捉えるのではなく、文化と価値を通じて、意味ある現実と事実として捉え直した。したがって新カント主義の批判精神は観念論のそれであった。
 確かに新カント主義は、物自体から脱して、そこから距離を置き、カントのように批判的でありえた。それは哲学者の誇りでもあったであろう。生々しい現実や混沌とした生に埋没することなく、文化、価値などの先験的な形式に基づいて、それを時には厳しく、また時には優しく論評し、批判し、提言することによって批判的でありえた。それに哲学者は優越感を感じたのかもしれない。しかし、芸術が物自体に触れずに美を追求できないのと同じように、哲学もまた現実や事実を表面的になぞるだけでは本質に迫ることはできないはずである。重要なことは生きた具体に立ち入って、それを肉迫することであって、死んだ抽象を遠目に眺めても、それは自己満足の域を出ない。哲学者の誇りはやがて淋しさに変わるだけである。現実や事実の全体を視野に収められるのは、そこから距離を置いて超越的な位置にいる者だけであるが、それは優越ではなく、孤独なだけである。
 文化や価値は形式であり、それは方法であった。現実と事実は実体であり、それは対象であった。実体なき形式、対象なき方法にどれほどの意味があるのか、現実は生き生きとし、事実は混沌としている。しかし、文化と価値には活気のある生もなければ、深い苦悩もない。「文化においては生は躍動しない」。歓喜もなければ、興奮もない。それは時局の推移から置き去りにされた批判哲学の「淋しさ」と「孤独」の意味であった10)。


 五 「敗北」の法理学
 小野は沈黙を破り、口を開き、そして批判した。批判の矛先は、現実の法体制や牧野ではなかった。近代刑法の罪刑法定主義を高唱する瀧川の法律観が標的にされた11)。法と道義の峻別、法と宗教の区別、国家と市民社会の対立、権力と人権の対抗を前提にした西洋的法律観を退け、国家的道義と神道を踏まえた国家と民族共同体、その正義観と法律観、それに固有の「罪刑法定主義観」を対置させた。小野は言う。「私の法律学的態度は、何よりも歴史的・精神的な現実としての現行法を如実に認識せんとすることにある」。「わが民族の道義的精神を表現し、其の文化を保護し、進展せしむる軌範としての現行法を能う限り深く理解し、領解することによって其の実践的意義を明らかにしようとするものである」。「今わが日本民族は古き東洋文化の総合的把持者として、又西洋近世文化の明敏なる修得者として、新たなる極東の文化圏を確立すべき任務を負わされている。法律学の一角からこの世界史的過程にささやかなる貢献を為すことこそは筆者の心からに念願である」。
 小野はこの言葉を『法学評論・上』(1938年)の序文に記した。そして、その下巻(1939年)の序文では、法理学は憲法や刑法の根底にある具体的な精神的理義を明らかにすることを課題とし、その理義は国家的・民族的な人倫生活および文化の条理であり、道義であり、法理であると述べて、近代西洋の法理学を学んでも、その意義を獲得しえないと断じた。現行法は必然的であるがゆえに現実的である。必然的なものは究極的には理念的であるがゆえに現実的なものになる。小野は存在と当為、現実と理性の新カント主義的二元論と決別し、存在と当為の、現実と理性の一元論へと向かった。その先には日本法理運動に向かう道があった12)。
 1945年8月15日、日本は連合国の強大な軍事力と破壊的な兵器体系の前に敗北し、日本法理運動もその世界史的任務の中断を余儀なくされた。1946年9月、小野は連合国の占領政策のもとにおいて、戦時中の言動を理由に大学から追放処分を受けた。そのため、日本法理運動は理論的に総括されることなく、法思想史の一部とされてしまった。日本の法理をめぐる思索、苦悩、決断の一切が、その意味を問われることのないまま「敗北」の一言で切り捨てられた。
 日本が戦った戦争は「総力戦」であった。軍事力だけでなく、科学・技術、思想・文化・イデオロギーの総力を挙げて戦った戦争であった。日本の軍事力は、欧米のそれに敵わなかった。しかし、それが戦争の大義名分が「間違っていた」ことの根拠になるものではない。日本法理運動の精神が、欧米の法理学的精神に打ち負かされたことの証明にはならない。残念ながら、小野が追放されたために、そのことを問い直す機会は奪われたままである。西洋の物質的文明と東洋の精神的智慧の関係、国家と法、国家と個人の関係は、法と宗教、法と道義の関係はいかに捉えられるべきか。法理と民族性、精神性の関係についてはどうなのか。これらの問題は未解決のままである。日本法理運動の問題提起はまだ答えられていないように思われる13)。


1)小野清一郎『日本法理の自覚的展開」(1942年、有斐閣)1頁以下参照。
2)牧野英一、小野清一郎、瀧川幸辰など近代日本の刑法家の経歴と業績については、吉川経夫・内藤謙・中山研一・小田中聰樹・三井誠編著『刑法理論史の総合的研究』(1994年、日本評論社)が詳しい。
3)昭和初期の刑法学界の様相を詳しく論ずるものとしては、佐伯千仭・小林好信「刑法学史」鵜飼信成・福島正夫・川島武宜・辻清明『講座日本近代法発達史11』(1967年、勁草書房)270頁以下、小林好信「戦時下の刑法学についての覚書--刑法学史の一齣として」天理大学学報(学術研究会誌)第69号(1970年)1頁以下参照。
4)「赤化教授」事件から「滝川事件」に至る経緯に関しては、松尾尊兊『滝川事件』(2005年、岩波現代文庫)7頁以下参照。ただし、その理由については明らかにされていない。また、前掲・佐伯・小林283頁は「赤化教授」として瀧川の名前を挙げているが、牧野については言及していない。
5)新カント主義の諸潮流とその内容に関しては、「理想」643号(1989年)の「特集:新カント学派」が詳しい。
6)ヘルベルト・シュネーデルバッハ(舟山俊明・朴順南・内藤貴・渡邊福太郎訳)『ドイツ哲学史 1831-1933』(2009年、法政大学出版局)94頁以下は、ヘーゲル没後のドイツ哲学の発展の推移を詳細に跡づけている。思想の巨大な家屋が崩壊するにともなって、そこを根城にしていた諸科学が外に放り出され、新たな居場所を探す羽目になった。もはや誰の世話にもならずに自立し自活しなければならなくなった諸科学がいかなる方法論的模索を強いられたかが興味深く書かれている。
7)三島淑臣『法思想史(新版)』(2003年、青林書院)318頁以下参照。
8)前掲・三島319頁以下、福吉勝男『ヘーゲルに還る』(1999年、中公新書)151頁以下参照。
9)進化論的社会理論が後に国家社会主義の人種理論と結びつき、ヒトラーによって政治利用されたことを指摘するものとして、イヴォンヌ・シェラット(三ッ木道夫・大久保友博訳)『ヒトラーと哲学者--哲学はナチズムとどう関わったか』(2015年、白水社)85頁以下参照。マルクスの理論体系は、20世紀初頭において現実の運動に担われ、ロシアにおいて体制化されたものの、その対立物に転化したことは述べるまでもない。ただしそれを根拠に自由民主主義の勝利を声高に叫ぶことはできない。今日において自由主義に可能性があるのか、社会主義の理論と運動はどのように総括されるべきかについては、藤原保信『自由主義の再検討』(1993年、岩波新書)を参照されたい。ここには、政治思想研究家として藤原が遺したコミンテルン型社会主義運動の批判的総括が記されている。
10)高坂正顕『新カント学派(上・下)』(1933年、岩波書店)3頁以下参照。高坂は、新カント主義の哲学理論として西南ドイツ学派とマールブルク学派をそれぞれ詳細に紹介しているが、それが1933年になってからである点が興味深い。なぜならば、この時期には新カント主義はすでに衰退期に入り、新たに新ヘーゲル主義が台頭し始めていたからである。高坂が新カント主義の陰鬱とした「淋しさ」と「孤独」を指摘できたのは、新カント主義が新ヘーゲル主義の台頭に圧され、その居場所を失いつつあることを彼自身が実感していたからでないかと思われる。
11)小野清一郎「法理学的普遍主義」『法学評論・下』(1939年、有斐閣)59頁以下。
12)小野が新カント主義の存在と当為の二元論からその一元論に向かった背景には、1930年代のドイツ・ゲッティンゲン大学法哲学教室のユリウス・ビンダーやハンス・ヴェルツェルの影響があるように思われる。小野は彼らの主張を肯定的に評価し、彼らの論考の書評を『法学評論・下』に掲載している。ビンダーがドイツ・ヘーゲル主義法哲学の代表的論者であったことを踏まえると、小野もまたその学派から影響を受けていたことが推測される。
 刑法解釈学における新カント主義の影響の現れとして、いわゆる目的論的概念構成方法を挙げることができる。しかし、それはキール学派に親和的であった。それを指摘するものとして、Gerhard Wolf, Befreiung des Strafrechts vom nationalsozialisitischen Denken?, in: Jus, 1996, Heft 3, S.189f., 194(ゲルハルト・ヴォルフ〔本田稔訳〕「刑法は国家社会主義思想から解放されたのか?(二)」大阪経済法科大学法学研究所紀要第35号7頁以下).近時の研究としては、Kai Ambos, Nationalsozialistisches Strafrecht - Kontinuität und Radikalisierung, 2019, S.74 ff.においても、シュヴィンゲ=ツィンマールの目的論的概念構成と国家社会主義刑法思想との親和性が指摘されている。また、ハンス・ヴェルツェルの戦前期の思想的系譜をたどりながら、自然主義と価値哲学に対する批判の今日的意味を問うものとして、Heike Stopp, Hans Welzel und der Nationasozialismus, 2018.が非常に興味深い。
13)この点に関しては、本田稔「刑法のイデオロギー的基礎と法学方法論」本田稔・朴智賢編著『刑法における歴史認識と過去清算』(2014年、文理閣)122頁以下参照。