Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

22判例刑法Ⅰ(02)

2022-04-18 | 日記
004不作為の因果関係(最三決平成元・12・15刑集43巻13号879頁)
【事案の概要】
 被告人Xは、某日の午後11時10分ころ、ホテルでAに覚せい剤の注射をしたところ、Aは覚せい剤による中毒症状と見られる顕著な錯乱状態を呈するにいたり、正常な起居動作をなしえないほどの重篤な状態に陥った。しかし、Xは医師の診察・治療などを求めたり、ホテル従業員にAの重篤状態を知らせることをせず、Aを客室内に放置したまま、翌日の午前2時15分ころにホテルを立ち去った(放置、立ち去りは、救助義務を履行しない不作為)。Aは、同日の午前10時40分ころに死亡しているところをホテルの従業員に発見された。
【問題の所在】
 Xは、重篤な状態に陥ったAをホテルの部屋に置き去りにした。ホテルの部屋にはXとAの2人だけであったので、XがAを救助するなどしなければ、Aの生命・健康への危険を取り除くことはできない。従って、XはAの保護責任者である(刑法218条の保護責任者)。
 XがAをホテルの部屋に置き去りにした行為は、不作為による遺棄にあたる(作為は行為客体に物理的に働き掛けること。置き去りは、行為客体に物理的に働き掛けていないので、不作為である)。218条の保護責任者遺棄罪は、217条の単純遺棄罪と基本的には同じ作為形式の犯罪である(要扶助者を現在の場所から他の危険な場所へ移し替える=移置)。ただし、保護責任者による遺棄については、不作為によって行われることがあると解されている。つまり、保護責任者が「作為」によって要扶助者を遺棄した場合は作為犯であるが、不作為の場合は不真正不作為犯である。従って、本件のXがAを置き去りにした不作為は、保護責任者の不作為による遺棄にあたる。
 Xの不作為による遺棄とAの死亡との間に因果関係があるか。因果関係があれば、Xには保護責任者遺棄致死罪が成立する。XがAに覚せい剤の注射をした行為は、傷害罪の構成要件に該当する行為であり、その行為とA死亡との間に因果関係はないことになるので、傷害罪どまりである。つまり、XはAに傷害罪を行った後に、保護責任者遺棄致死罪を行ったということになる(傷害罪と保護責任者遺致死罪の2罪)。これに対して、Xの不作為による遺棄とAの死亡との間に因果関係がなければ、保護責任者遺棄罪にとどまる。保護責任者遺棄罪が成立する場合、Aの死亡と因果関係があるのは、XがAに覚せい剤の注射をした行為であることになる。その行為は傷害致死罪にあたる(傷害致死罪と保護責任者遺棄罪の2罪)。この場合、Xの第1行為(覚せい剤の注射の作為)からA死亡までの間に、Xの第2行為(ホテルに置き去りにする不作為)が介在した事案として考えることができる。
 Xの不作為による遺棄とA死亡との間には因果関係はあるのか。どのように考えればよいのか。この問題を解くカギは、XがAを病院に搬送するなどの作為義務を履行していたならば、Aの生命侵害を回避することができたであろういと言えるかどうかにある。作為義務を履行していたならば、「十中八九」Aの生命侵害を回避することができたであろうといえる場合に、Xの不作為とAの生命侵害との因果関係を認めることができる。
【裁判所の判断】
 原判決の認定によれば、被害者の女性が被告人によって注射された覚せい剤により錯乱状態に陥った午前零時半ころの時点において、直ちに被告人が救急医療を要請していれば、同女が年若く(当時13才)、生命力が旺盛で、特段の疾病がなかったことなどから、十中八九、同女の救命が可能であったというのである。そうすると、同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であったと認められるから、被告人がこのような措置をとることなく漫然と同女をホテル客室に放置した行為(不作為)と午前2時15分ころから午前4時ころまでの間に同女が同室で覚せい剤による急性心不全のため死亡した結果との間には、刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。
【解説】
 本件は、被告人の不作為による保護責任者遺棄と要扶助者の死亡結果の間の因果関係の成否立が問われた事案である。被告人が被害者を置き去りにした不作為が保護責任者による遺棄にあたるのか。その不作為による遺棄によって、被害者の生命・健康が危険にさらされたとはえいても、果たして死亡結果を引き起こしといえるのかが問題になった。不作為と結果の因果関係を判断する基準を示した重要判例である。
 保護責任者遺棄致死罪の構成要件該当性が認められるには、保護責任者による遺棄と致死との間に因果関係が必要である。因果関係が成立しなければ、保護責任者遺棄罪の構成要件該当性が肯定されるだけである(被害者の死亡は、遺棄の間に行われた行為に起因する)。
 では、護責任者の不作為による遺棄と致死の因果関係の有無をどのようにして判断すべきか。作為による遺棄致死の場合(要扶助者を寒い公園に場所に連れて行ったために凍死した)、作為による遺棄が行なわれなかったならば、要扶助者は凍死することはなかっただろうといえる。このように条件関係が認められる場合、その作為から結果が発生することは経験的に通常ありうるといえるので(経験的通常性あり)、保護責任者による遺棄(作為)と被害者の死亡との因果関係を認めることができる(これは相当因果関係説からの説明)。
 これに対して、要扶助者に対する生命・身体の危険を除去すべき義務を負っている保護責任者(保証者)が、救急医療を要請するなどの期待された作為義務を尽くさず、要扶助者を死亡させた事案で、その期待された作為が可能で、かつ容易であったにもかかわらず(作為の可能性・容易性)、不作為の態度をとり続けたというならば、不作為と結果の因果関係が認められそうである。しかし、そのような作為義務を尽くしても、結果を回避することができない場合(もはや手遅れ)もある。このような場合、作為によって結果を回避することがで可能ではなかったので、不作為による遺棄と死亡との因果関係を認めることはできない。
 このような不作為と結果の因果関係の問題について、裁判では、検察官は被告人が作為義務を尽くしていたならば、結果は回避できたできたであろうと主張し、被告人は作為義務を尽くしたとしても、結果は回避できなかったのではないかと主張するであろう。両者の議論は水かけ論であり、平行線をたどる可能性がある。このような問題について、一定の判断基準を提示したところに本件の最高裁決定の意義がある。それは、作為義務を尽くしていたならば、「十中八九、同女の救命が可能であった」、作為義務を尽くしていれば「同女の救命は合理的な疑いを超える程度に確実であった」という判断基準である。この「十中八九の可能性」、「合理的な疑いを超える程度の確実性」の基準に基づいて判断した結果、本件では不作為と結果の因果関係が肯定された。なお、作為義務を尽くしても結果の回避可能性がなかった場合、不作為による遺棄と致死の因果関係が否定される。ただし、だからといって遺棄それ自体が不問にふされるわけではない。有名タレントの事件では、被告人による置き去り(不作為による遺棄)と被害者の死亡との因果関係を否定しながら、不作為による遺棄罪のみ認められた。


005不作為による放火(最三判昭和33・9・9刑集12巻13号2882頁)
【事案の概要】
 被告人Xは、勤務先の営業所の事務所で股火鉢をしながら残業していたが、酒を飲んだため気分が悪くなり、火の始末をせずに、仮眠をとった。仮眠から戻ると、炭火がボール箱に入れた書類や木製の机に延焼しているのを発見したが、Xは不慮の失火を目撃した驚きと自分の失策の発覚を恐れて、とっさにカバンを持って事務所から立ち去った。そのため火の勢いは拡大し、営業所を全焼させ、近隣の住宅・倉庫7棟を全焼させるなどした。


【問題の所在】
 勤務先の事務所で失火を発生させた場合、その火を消し、その延焼を防止するための作為義務は誰に課されるのか。失火を発生させた者か。それとも火の元責任者か。他の従業員か。
 従業員が複数存在している場合、まずは火元責任者に消火の義務があるといえるが、夜間1人で勤務していた人が失火の原因を作った場合には、その人以外に消火活動を行うことは不可能なので、その人が消火する義務を負う者にあたる。火の延焼を抑え、その火を消す義務を負う「保障者」にあたるといえる。
 では、その保障者は、消火のための作為義務を履行することが可能であったか。防火用水をかけるとか、消防署に通報するなどして消火義務を履行することは可能であったし、また大きな困難もなかった場合には、消火の作為義務に違反した不作為は、作為による放火罪の行為と同じものと見なされる。このように保障者的地位と作為可能性・容易性が肯定されれば、その人に作為義務が課され、作為義務を履行しなかった場合、その不作為は作為による放火と同視される。つまり、その不作為が、作為犯形式の作放火罪の実行行為にあたると判断される。
 また、作為義務を履行していたならば、事務所の全焼を回避することが十中八九できたであろうといえる場合には、不作為と事務所の焼損との間の因果関係を肯定することができる。 


【裁判所の判断】
 原判決が認定した第1審判決の事実認定は、次の通りである。被告人の重大な過失によって右原符と木机との延焼という結果が発生したものというべきである。この場合、被告人は自己の過失行為による右物件を燃焼させた者として、これを消火するのはもちろん、右物件の燃焼をそのまま放置すれば、その火勢が右物件の存する右建物にも燃え移らないようこれを消火すべき義務があるといわなければならない。……被告人は自己の過失により右原符、木机等の物件が燃焼されつつあるのを現場において目撃しながら、その既発の火力により右建物が燃焼せられるべきことを認容する意思をもって、あえて被告人の義務である必要かつ容易な消火措置をとらない不作為により、建物についての放火行為をなし、よってこれを燃焼したものであるということができる。


【解説】
 故意に火をつけた場合であれ、過失によって火をつけた場合であれ、その人にはその火を消す義務がある。その火が他の物に延焼したならば、その延焼した火も消さなければならない。自分で消火できなければ、消防に通報するなどして消火しなければならない。
 本件の事案では、被告人Xは暖をとるために、火鉢の火を起こした。事務所には、被告人以外に誰もいなかったのであるから、被告人は事務所から出る場合には、その火が消えていることを確認しなければならない。火が消えていなければ、それを消さなければならない(消火のための作為をなすべき地位=保障者的地位あり)。
 では、火を消すことは可能であったか。火鉢の火は水をかけるなどの作為によって消えるので、それは可能である(作為の可能性あり)。しかも、コップ一杯の水で十分であるから、その作為はまた容易である(作為の容易性あり)。


 以上から、被告人には消火義務が認められる(作為義務あり)。
 その義務を行なわずに、放置した結果、火が延焼し、建物が全焼した場合、その不作為は現住建造物放火罪にあたり、作為によって放火した行為と同視される。従って、たとえ保障者的地位が認められても、作為の可能性や容易性が認められなければ、作為義務はないので、事務所を立ち去る不作為は、作為義務に違反した不作為とはいえない。


 例えば、ホテルの宿泊客が部屋で寝たばこをし、火を消さずに就寝したところ、たばこの火がカーテンに燃え移ったとする。その時点、コップの水をかけて消火できたにもかかわらず、失態が発覚するのを恐れて逃走し、そのためにホテルが全焼した場合、その客は客室の火を消すべき保障者の地位にあり、その消火義務は可能で、かつ容易であるので、客には消火のための作為義務が課される。その義務を履行しない不作為の態度をとったことは、作為犯形式の現住建造物等放火罪の実行行為性を認めることができる。しかも、その作為義務を履行していたならば、ホテルの全焼を十中八九回避することができたといえるので、客の不作為とホテルの全焼の因果関係を認め、現住建造物等放火罪の構成要件該当性を認めることができる。


 しかし、コップの水をかけても、風呂の水をかけても、消し止められないほどの勢いで燃えていたた場合、客が火を消す保障者の地位にあったとしても、消火のための作為は可能であるとはいえないであろう。可能であっても、それは容易ではない。したたって、客が部屋から走って逃げ、ホテルが全焼しても、客の不作為が現住建造物放火罪の構成要件に該当しているとはいえない。
 では、ホテルの全焼は何が原因で発生したのか。この場合、ホテルの全焼は、寝たばこをした作為またはタバコの火を消さなかった不作為から発生したということができる。客は不注意にも寝たばこをしたのであるから、ホテルを全焼させる意図(放火の故意)はなくても、その不注意は過失にあたる。従って、客の寝たばこをした作為は失火罪の構成要件に該当するといえる。
 客の寝たばこ(第1の作為)の後、客の消火義務違反(第2の不作為)が介在して、ホテルの全焼という結果が発生しているように見えるが、第2の不作為は消火義務ではないので、その不作為は放火罪の構成要件には該当しない。ホテルの全焼は、第1の作為によって発生したと考えられる。






006不作為による殺人(最二決平成17・・7・4刑集59巻6号403頁)
【事案の概要】
 被告人Xは、手のひらで患部をたたいてエネルギーを患者に通すことによって自己治癒力をたかめる「シャクティパット」という独自の治療を行う者であった。
 Xは、BからAに対してその治療をしてほしいと依頼され、治療するために、入院中のAを連れ出して、ホテルに運ばせた。
 Xは、Aの容態を見て、このままでは死亡する危険があることを認識した。しかし、入院中のAを退院させたことなどの誤った指示が露呈することを避けるために、未必の殺意をもって、シャクティ治療を施すだけで、たんの除去や水分の点滴などAの生命維持のために必要な医療措置を受けさせなかった。
 そして、Aを約1日放置し、たんによる気道閉塞にもとづく窒息により死亡させた。




【裁判所の判断】
 被告人は、自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた上、患者がホテルにおいて、被告人を信奉する患者の親族から、重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあったものと認められる。その際、被告人は、患者の重篤な状態を認識し、これを自らが救命できるとする根拠がなかったのであるから、直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を負っていたものというべきである。それにもかかわらず、未必的な殺意をもって、上記医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させた被告人には、不作為による殺人罪が成立し、殺意のない親族との間では、保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯となると解するのが相当である(XとBは共同してAを放置し、死亡させた。その際、Aには未必の殺意があったが、Bには遺棄の認識しかなかった)。




【解説】
 犯罪には、作為犯と(真正)不作為犯がある。
 作為犯の典型例は、殺人罪である。
 真正不作為犯の典型的な例としては、不退去罪(刑130)と保護責任者不保護罪(刑218)がある。


 いずれも、条文によって、どのような作為が犯罪にあたるのか、どのような不作為が犯罪として処罰されるのかが明記されている。


 作為犯の構成要件に該当するのは作為であり、不作為犯の構成要件に該当するのは不作為である。
 では、不作為が作為犯の構成要件に該当するという場合があるか。これが不真正不作為犯の問題である。学説・判例は、不作為が作為犯の構成要件に該当する場合のあることを認める。


 では、作為犯の構成要件に該当する不作為とは、どのようなものか。それは、作為義務に反した不作為である。被害者の生命が危険にさらされているとき、生命への危険を除去する義務を負う者、それを救助・保護すべき義務を負う者(保障者的地位)が、その義務の履行が可能であり(作為の可能性)、かつ容易であった(作為の容易性)場合、作為義務が認められる。その作為義務に反して不作為の態度をとるならば、その不作為は(作為犯の形式で定められた)殺人罪の構成要件に該当すると判断される。このように、な作為義務があったにもかかわらず、被害者が死亡することを容認しながら、不作為の態度をとって被害者を死亡させた場合、それは作為によって殺害したのと同視することができる。赤ん坊にミルクを与えずに、餓死させた母親の不作為は、ミルクを飲んでいる赤ん坊からミルクを取り上げ、餓死させた母親の作為と同視することが可能である。


 では、なぜ母親にミルクを与える義務があるかというと、それは母親が赤ん坊の生命維持のための作為を行なう立場(保障者的地位)にあり、母親にその作為をなすことが容易であり(作為の容易性)、かつ可能であったからである(作為の可能性)。このような作為義務が課されていることは、法的には民法上の監護義務の基づいて認定することができるが、さらに事実上も母親の女性が赤ん坊の世話をしていることからも監護の継続義務は生ずる。


 その作為義務に反した不作為と死亡結果との間に因果関係があるか否かを判断するためには、作為をなしていれば、死亡の結果を回避することが(十中八九)可能であったといえなければならない(結果の回避可能性)。


 本件では、被告人Xが被害者Aの生命を救助すべき地位にあり(保障者)、その救命義務は可能で、かつ容易であった(作為の可能性と容易性)。またAが死んでもやむを得ないという未必の殺意もあった(これは殺人の故意)。また、親族BはAの保護責任者であった(保護責任者遺棄罪における行為主体)。病院から退院させた=遺棄した。殺意はなかったが、遺棄の認識はあった。XとBは、共同してAに必要な医療措置を施すことなく、ホテルに放置して死亡させた(救助していれば、十中八九、救命できた)。


 Xの不作為は殺人罪の構成要件に該当する。死亡の未必の故意もある。従って、殺人罪が成立する。Bの不作為は保護責任者遺棄致死罪の構成要件に該当する。ただし、殺意はなかった。従って、保護責任者遺棄致死罪が成立する。


 Xの犯罪の構成要件とBの犯罪の構成要件は類型的に異なるが、重なる部分がある。保護責任者遺棄致死罪の限度において重なっている。その部分については、共同正犯(刑60)が成立する。つまり、XとBは保護責任者遺棄致死罪の範囲において共同正犯が成立し、Xには殺人罪の単独の正犯が成立する。Xの保護責任者遺棄致死罪と殺人罪は観念的競合(刑56条1項前段)の関係に立つ。