Rechtsphilosophie des als ob

かのようにの法哲学

22演習刑法Ⅰ(02)

2022-04-18 | 日記
007不作為犯(1)
(1)忘年会シーズンの夜、泥酔したAが道路際に横たわってたところ、その場を通りかかった甲は、こんな寒い中で放置しておいたら命が危ないのではないかと思いながらも、特に助けることなく通りすぎた。その後、Aはアルコールの影響と寒さのために死亡するに至った。少なくとも甲が通りかかった時点で救急車を呼んでいれば間違いなくAは助かったものと考えられる。甲に殺人罪(刑法199条)が成立するか。
(2)乙は、自動車運転中の過失によってBをはねてしまった。乙は、そのまま放置したらBが死んでしまうかもしれないと思いつつ、怖くなってそのまま走り去った。乙に殺人罪が成立するか。
(3)丙は、自動車運転中の過失によってCをはねてしまい、すぐに病院に連れていくためにCを自動車に乗せて走り始めたが、途中で刑事責任を問われることを恐れて山中に遺棄しようと考え、Cが死亡してもかなわないと思いつつ長時間走り続けたところ、車中でCが死亡した。丙がすぐに病院に向かっていれば、Cは助かったと認められる場合、丙に殺人罪が成立するか。
(0)犯罪は、構成要件に該当する、違法で、かつ有責な行為であると定義されます。ある行為が犯罪にあたると主張するには、その行為が構成要件該当性、違法性、有責性という3つの属性を備えていることが必要です。その1つでも満たしていない行為には、それにたとえ重大な問題があろうとも、刑罰を科すことはできません。
 犯罪は構成要件に該当する、違法で、かつ有責な行為であると定義されますが、それはある人が行った行為が構成要件該当性、違法性、そして有責性という3つの法的属性を備えているということです。従って、構成要件該当性などの属性が備わっているか否かの判断を行う前に、行われたのが行為であることが前提です。
 では、行為とは何でしょうか。それはどのように理解すべきでしょうか。行為とは、まずは人間の積極的な動作であると定義できると思います。ある人が一定の身体的な動きを行って行為客体に対して働き掛けて、その客体の状態(法益の状態・存続)に不良的な変化をもたらすこと、すなわち作為が刑法によって処罰される行為であることは明らかです。さらに刑法では、ある人が一定の身体的な動きを行わなくても、その客体の状態(法益の状態・存続)に不良的な変化をもたらした不作為についても処罰されることが明記されています。前者を作為犯、後者を不作為犯といいます。後者の不作為犯は、いかなる不作為が処罰されるのかが条文で明記されていることから「真正不作犯」と呼ばれています。例えば、住居侵入罪(刑30条前段)が作為犯であり、不退去罪(刑130条後段)が不作為犯です。保護責任者遺棄罪(刑218条前段)が作為犯であり、保護責任者不保護罪(刑218条後段)が不作為犯です。侵入や遺棄といった作為には作為犯の条文が適用され、不退去や不保護といった不作為には不作為犯の条文が適用されて処罰されます。
 しかし、一見すると作為犯の形式で定められている犯罪の条文であっても、不作為によってその犯罪を実行できる場合があります。作為犯の法益侵害結果を不作為によって実現できる場合もあります。例えば、父親と母親赤ん坊にミルクを与えずに餓死させた場合、赤ん坊の命を助ける義務があったにもかかわらず、その義務を履行せずに、かつ死亡することを認識していたならば、救命義務に違反した不作為には殺人罪の規定が適用される可能性があります。また、フライパンの油に火が燃え移り、それがキッチンに燃え広がっている時、消火すべき義務を負っているにもかかわらず、火災保険金を騙取するために、そのまま外に出て、家屋が全焼した場合には、消火義務に違反した不作為には義務現住建造物等放火罪のが規定が適用されます。
 これらの犯罪はいずれも作為犯の形式で定められていますが、犯罪の結果は作為だけでなく、不作為によっても実現できる場合があると、条文を実質的に解釈して、ミルクを与えるべき作為義務に反した不作為に作為犯形式の殺人罪の規定を適用し、また火を消す義務に反した不作為に同じく作為形式の現住建造物等放火罪の規定を適して処罰できます。それが現在の通説です。判例も同じです。作為犯形式の犯罪規定が適用される不作為を「不真正不作為犯」と呼びます。ただし、作為犯形式の条文には、誰の、どのような不作為が処罰されるのかが明記されていないので、それを明らかにすることが必要です。従来までは、法令・契約・事務管理・条理などの形式的な根拠に基づいて、作為義務が誰にあるのかを明らかにできると論じられてきましたが、どのような不作為が問題になるのかを特定してきました。そのような作為義務に反して不作為の態度をとり、致死傷結果を発生させることは重大な権利侵害であると言えますが、その義務は刑法以外の法的義務であって、それに反して重大な結果を発生させたからといって犯罪として扱うことができるのかは異論のあるところです。犯罪として扱うことができるのは、刑法上の作為義務に反して結果を発生させた場合だけであるという批判には耳を傾ける必要があります。そこで近時では、作為義務の発生根拠をより実質的に限定する試みがなされ、いわゆる「保障者説」の見解が有力に主張されています。被害者の権利が危険にさらされているとき、被害者を保護し、またはその危険を除去する義務を負う人(保障者)を事実に即して特定し、その人が作為義務を尽くすことが可能であったのか、また困難ではなかったのかどうか(作為の可能性と容易性)、さらに作為義務に反した不作為と結果の因果関係の有無を判断することによって、不真正不作為犯の成立範囲を限定する試みが続けられています。
(1)甲は、Aが死亡する危険を除去し、Aの生命維持のための作為を行いませんでしたが、甲は通行人であり、Aの生命維持のための法的な義務や契約上の義務はありません。また、Aを救命できるのは甲だけであるといったAの生命を独占的・排他的に支配しているわけでもありません。ましてや、その保護を引き受けたわけでもありません。したがって、甲にはAを救命すべき保障者の地位にあるとはいえません。ゆえに、その不作為は殺人罪の構成要件的行為(実行行為)にはあたらず、殺人罪の構成要件該当性を認めることはできません。
(2)乙は過失運転からBを負傷し、そのまま走り去り、Bが死亡しました。まず乙には過失運転致傷罪が成立します。そして、Bを救護せず、警察にも連絡せず、そのまま走り去った「不作為」は、道路交通法上の救護義務違反罪と報告義務違反罪にあたります(道交法72条)。Bが死亡した結果が救護義務違反の不作為に起因し、殺人罪が成立すると主張するためには、乙がBの救命義務を負う保障者の立場にあることが必要です。乙がBを自車に乗せ、その保護を引き受けるなどして、排他的にBの生命を保護する立場にあれば、保障者の地位を認めることができますが、そのような事実もありません。したがって、乙に救命すべき保障者の地位はないので、救命義務を認めることはできません。Bの死亡は、乙の過失運転が原因であったといえます。この事案は、乙が過失運転によってBを負傷させ(第1行為)、その後、救護義務違反の不作為を介して(第2行為)、Bの死亡が発生した事案であり、Bの死亡は過失運転の危険性が現実化した結果であるといえます。
(3)丙は過失運転によってCを負傷させ(過失運転致傷罪)、Cを病院に運ぶために自車に乗せました。これによってCの生命保護を排他的に支配し、Cの救命義務を負う保障者の地位を認めることができます。またその義務の履行は可能であり、また困難ではなかったので、救命のための作為義務が認められます。病院に搬送すれば「十中八九」救命できたので、作為義務に反した不作為と死亡との因果関係が認められます(丙にはその認識があるので、殺人罪の故意も認められます)。従って、丙の不作為は殺人罪の構成要件に該当します。
008不作為犯(2)
 甲は、宿直室等も備えた営業所の事務室で、火鉢にあたりながら1人で残業していたところ、気分が悪くなったため、火鉢の火をそのままにして、2時間ほど別室で仮眠をとった。目を覚まして事務室に戻ったところ、自己の不始末によって火鉢の火が燃え移り、自席の木製机が燃えているのを発見した。その時の火勢であれば、自ら消火にあたることで容易に火を消し止められる状態であった。それにもかかわらず、甲は、自己の失策の発覚を恐れるあまり、そのまま放置すれば建物全体が燃えてしまうことを容認しつつ、とっさにその場を立ち去った。
(1)甲に、消火をなすべき作為義務と作為可能性を肯定できるか。
(2)甲に、現住建造物等放火罪(刑法108条)の故意が認められるか。
(3)甲に不作為による放火罪が認められるためには、故意のほかに、「既発の火力を利用する意思」が必要か。
(0)不作為が作為犯の構成要件に該当していることを論証するためには、どのようにすればよいでしょうか。いわゆる保障者説という学説は、次のように論じます。第1に、その不作為の態度をとった人が、構成要件的結果(法益侵害)を回避すべき義務を負う地位にあり(保障者的地位)、第2にその義務を履行することができ(作為の可能性)、かつそれが容易であった(さほど困難ではなかった)場合に、その人に結果回避のための作為義務を認めます。そして第3に、その不作為から結果が発生した(因果関係がある)といえるには、期待された作為義務に出ていれば、その結果発生を回避することが十中八九、可能であり、その可能性が合理的な疑いを超える程度に明らかでなければなりません(結果回避の十中八九の可能性、その合理的な疑いを超える程度の明白性)。第1の要件と第2の要件がそろっている場合には、その不作為は作為犯の構成要件的行為(実行行為)と同視できます。そして、第3の要件がそろえば、その不作為と結果の因果関係を認めることができます。
 例えば、Xが深夜のホテルの客室内で13才の少女Aに覚せい剤の注射をしたところ、Aが錯乱状態に陥りました。客室内にはXしかおらず、Aに対応することができるのはXだけでした。また、Xはホテルのフロントの係員に連絡するなどして救急車の手配をすることが可能であり、かつ客室内電話もあったので容易でした。それにもかかわらず、Xは怖くなり、Aが死ぬことはないだろうと思いつつ、ホテルを立ち去りました。翌日の朝、覚せい剤による心臓発作のために死亡していることを発見されました。鑑定の結果、Aは錯乱状態に陥った直後に病院で救急措置を受けていたならば、死亡することはなかったことが判明した。
 このような事案では、錯乱状態にあるAを保護できるのは甲だけであるので、Aを保護すべき保障者の地位にあるといえます。また、そのための措置を講ずることは可能であり、容易であったともいえます。したがって、甲にはAを保護すべき作為義務が認められ、その義務に反した不作為は、保護責任者遺棄罪の「遺棄」に該当すると判断できます。そして、作為義務を果たしていたならば、Aの死亡結果を回避することが十中八九、可能であったことが合理的な疑いを超える程度に明らかなので、不作為による遺棄と死亡との間に因果関係が認められます。以上から、甲には保護責任者遺棄致死罪が成立します。
 ただし、甲がAに覚せい剤の注射をした場所が人里離れた場所であり、電話もなければ、携帯電話の電波も受信できない場所であったなら、甲は保障者の地位にあっても、保護のための作為義務を履行することは不可能であり、かりに可能であっても困難であるといわざるをえません。その場合には甲にはAを保護するための作為義務があったとはいえないでしょう。そうすると、甲はAの保護責任者ではなく、ホテルを立ち去った不作為は遺棄にはあたりません。Aが死亡した原因は覚せい剤注射にあるので、甲には傷害致死罪が成立するといえます。
 また、甲がAの保護責任者であり、その不作為が遺棄にあたるとしても、Aの年齢や健康状態などから、錯乱状態に陥った直後に病院で救急措置を受けていていれば、死亡を回避することができたとはいえない場合もあります。つまり、作為義務を果たしていたならば、Aの死亡結果を回避することが十中八九、可能であったとはいえない、合理的な疑いを超える程度に明らかではない場合です。このような場合は、不作為による遺棄と死亡との因果関係を認めることはできず、保護責任者遺棄罪が成立するにとどまります。ただし、この場合も、Aの死亡結果は覚せい剤の注射が原因で生じたことになるので、甲には傷害致死罪が成立します。覚せい剤注射という作為から死亡結果が発生したので傷害致死罪に該当し、ホテルに置き去りにした不作為は保護責任者遺棄罪に該当します。これら2つの罪の罪数は、併合罪(刑法45条1項前段)として扱われます。ただし、1人の行為者が1人の被害者に対して2個の行為を行っていますが、それは同一の場所で同じ時間帯に行われ、また侵害された保護法益も生命・健康という点で同じなので、2つの犯罪を包括的一罪として扱うこともできます。


(1)の事案では、甲が残業していた事務所のある建物には宿直室などが備えられ、人が寝起きすることができるものなので、それは現住建造物にあたります。甲は、事務室内で自己の過失から失火を発生させました。その場には他の従業員はいませんでした。失火により机に火を延焼させ(先行行為あり)、その失火に対応できるのが甲1人だけでした(排他的支配性)。このことから甲には消火すべき保障者の地位にあるといえます。また、その時点において消火が容易であったことから、作為の可能性と容易性を認めることができます。それゆえ、消火の作為義務に反した不作為は、現住建造物等放火罪の構成要件的行為(実行行為)にあたります。また、建物の全焼は現住建造物等放火罪の構成要件的結果(現住建造物の焼損)にあたります。さらに、その不作為と結果の因果関係が認められれば、現住建造物等放火(既遂罪)罪の構成要件該当性を肯定できます。
 この事案を具体的に見ていくと、火は木製の机に燃え移っただけで、消火するのは可能で、かつ容易であったといえます。しかし、火がカーテンなどに燃え広がったような場合、火の勢いが一気に拡大すると、簡単には消せません。近づくと危険な状況であるならば、作為義務を履行することが可能であったか、可能であったとしても容易であったかは問題になるでしょう。それが否定されるならば、保障者的地位が認められても、作為の可能性・容易性が否定されるので、作為義務を認めることはできません。建物の全焼は失火罪として扱われます。
(2)刑法38条1項は、「罪を犯す意思のない行為は罰しない」と定め、犯罪として処罰されるのは行為者に「罪を犯す意思」、すなわち故意のある場合であることを明記しています。故意とは、自らの行為(作為または不作為)から一定の法益侵害が発生することの認識または予見です。この事案では、甲は「そのまま放置すれば建物全体が燃えてしまうことを容認し」ていました。積極的に建物を全焼させようと目論んでいたわけではありませんが、「燃えてしまってもやむを得ない」と認識していたので、放火罪の(未必の)故意が認められます。
(3)建物が全焼することの認容に加えて、「既発の火力を利用する意思」が必要でしょうか。判例のなかには、故意とは別に、そのような意思について言及したものがありますが、自己の行為(作為または不作為)から一定の法益侵害結果が発生することを認識・予見していれば、故意が認められるので、既発の火力を利用する意思は、火力によって建物が全焼する因果経過の認識であり、結果発生の認識の一部であると理解すればよいでしょう。


009不作為犯(3)
 甲は、甲の母親乙と妻Aとともに暮らしていたが、かねてより乙とAの不和に悩みを募らせてきた。ある晩、乙が、酒に酔ったAの頭を階段に打ち付けるなどして外傷を負わせたところ、物音に気づいた甲が駆けつけた。その際、甲は、Aの頭部から多量の出血があることと、呼吸がまだあることを確認したものの、乙の犯行が発覚してしまうことを恐れ、救急車を呼ばないことを決意し、止血措置等も行うことなくそのまま放置した結果、Aは死亡するに至った。


(1)甲が負傷したAを発見した時点で、救急車を呼ぶなど、速やかな救命措置を施していれば、Aの死亡は確実に回避できたと認められる場合、甲に保護責任者不保護致死罪(刑法219条)が成立するか。
(2)甲が速やかに救命措置を施したとしても、Aの死亡が回避できた可能性は50パーセント程度だった場合はどうか。


(0)行為と結果の因果関係は、行為と結果の間に条件関係があることを前提にた上で判断されます。相当因果関係説における折衷説においては、ある行為からその結果が発生することが社会生活上の経験から見て通常ありうるといえるかどうかを問題にし、津上ありうると言える場合に因果関係を認めます。
 例えば、「高速道路事件」の事案を例に取ると、行為者が被害者に暴行を加えたために、被害者が逃走し、追跡する行為者から逃れるために高速道路内に進入して、走行する自動車に轢かれて死亡した事案では、行為者が被害者に暴行を加え追跡しなかったならば、被害者は高速道路内に進入することもなく、また自動車に轢かれて死亡することもなかたっといえます(条件関係あり)。ただし、被害者が行為者の追跡から逃れるために、高速道路内に進入するというのは、経験的に通常ありうるかどうかは議論の分かれるところです。判例では、被害者が高速道路内に侵入して逃げようとする行動に出ることは、著しく不自然とまではいえないと判断し、暴行と死亡との因果関係を認め、傷害致死罪の構成要件該当性を認めました。この因果関係の認定を折衷説に基づいて説明すると、行為者が被害者に暴行を加え、逃げる被害者を追跡する行為を行えば、被害者が高速道路内に進入して逃れようとすることは、社会生活上の経験から見てありえないことではないので、暴行と死亡の因果関係が認められることになります。また、「危険の現実化説」に基づいて判断すると、行為者が被害者に暴行を加え、逃げる被害者を追跡する行為を行うという行為は、被害者を逃げ場のないところに追いつめ、高速道路内に進入して逃れようとする行動を引き起こす危険性があり、被害者が高速道路内に進入して自動車に轢かれて死亡したのは、そのような危険性が現実化したものであるので、暴行と死亡の因果関係が認められることになります。
 上記の例は作為犯の事案ですが、不作為犯の場合は異なる考慮が必要です。作為犯の場合の条件関係は、上記の説明のように、「その作為が行われなかったならば、結果は発生しなかったであろう」と判断され、その認定は容易ですが、不作為犯の場合、「期待された作為が行われたならば、結果は発生しなかったであろう」と判断できるかどうかは容易ではありません。「期待された作為が行われたならば、結果は発生しなかったであろう」と判断できれば、不作為と結果の因果関係を認めることができますが、「期待された作為が行われたとしても、結果は回避できなかったかもしれない。結果は発生したかもしれない」という場合もあるからです。このような不作為犯の因果関係は、不真正不作為犯(殺人罪や放火罪など)だけでなく、真正不作為犯(不作為による保護責任者遺棄致死罪罪)の場合にも問題になります。設問は、保護責任者が要扶助者の保護をなさなかった保護責任者不保護致死罪の事案です。これに対して、錯乱状態に陥った少女をホテルの客室に残して立ち去る不作為は、不作為による保護責任者遺棄の事案です。


(1)負傷したのはAであり、甲はその夫である。甲とAは夫婦であり、同居している。つまり、日常生活を共にする緊密な関係がある。甲がそのような関係にあるAが負傷しているとき、救急車を手配するなどして自ら病院に搬送することが求められます。つまり、甲は負傷したAを保護する排他的な地位にあるので、刑法218条にいう保護責任者にあたるといえます。また、甲がAに救急措置をとって保護義務を果たすことは可能であり、容易でもあったといえます。したがって、甲が負傷したAを救急車を呼ぶなどして救命措置を講ずるなどの保護義務を尽くさなかった不作為は、保護責任者不保護罪の構成要件的行為にあたると認定できます。
 では、保護義務に違反した甲の不作為とAの死亡との間に因果関係があるでしょうか。因果関係が認められれば、保護責任者不保護致死罪(刑法219条)が成立しますが、因果関係が認められなければ、保護責任者不保護罪(刑法218条)にとどまります。甲が負傷したAを発見した時点で、救急車を呼ぶなど、速やかな救命措置を施していれば、Aの死亡は確実に回避できたと認められるならば、甲に保護責任者不保護致死罪が成立するといえます。
さらに問題になるのは、乙の行為です。乙の行為はAの死亡とどのような関係にあるのでしょうか。乙のAに対する暴行がなければ、甲による不保護の不作為もなく、Aが死亡することもなかったといえるので、乙の暴行とAの死亡との間に条件関係があります。しかし、乙の暴行後に甲が妻のAに救急措置を講じないという不作為の態度に出ることは通常予想しうるところではないでしょう。しかも、甲がAの負傷を発見した時点で救急措置を講じていたならば、Aが死亡することは確実に回避できたと認められるので、乙の暴行がAの死亡へと向かう因果の経過は、甲の不作為によって中断したと認定することができるでしょう。


(2)不作為と結果の因果関係を判断する方式は、「期待された作為が行われたならば、結果の回避は十中八九、可能であった」、そして「そのことが合理的な疑いを超える程度まで明らかであった」か否かという判断方法です。これは保護責任者遺棄致死罪の事案において定式化されたものであり、いわゆる「十中八九の救命可能性」の判断方法ともえいます。この「十中八九の救命可能性」というのは、100パーセントのうちの80ないし90パーセントと数字で表されていますが、80ないし90パーセントの救命可能性という意味ではなく、ほぼ確実な程度の救命可能性と理解すべきでしょう。このように解するならば、Aの死亡が回避できた可能性は50パーセント程度だった場合は、ほぼ確実な程度で救命可能であったとはいえないので、因果関係は否定されることになります。
 そうすると、すでに述べたように、甲がAの負傷を発見した時点で救急措置を講じていても、Aの死亡は50パーセント程度しか回避可能でなかったので、Aの死亡は乙の暴行が原因で発生したと判断されます。