ヘルムート・オルトナー
時間はリセットされなかった(2)
―――ドイツでナチの法律家が罪を問われないまま出発でき、多くの人々がそれに理解を示した理由――
フライスラーの右腕
過去という名の陰から解き放たれるチャンスは幾度かあった。それを提供したのは、(フライスラーの後任で)最も重い責任をとるべき民族裁判所の裁判官であり、元ベルリン高等裁判所判事ハンス・ヨアヒム・レーゼの事件であった。、
彼は1902年に生まれ、ナチの司法装置の中で出世の道を歩んだ。1932年に「最優秀」の成績で司法官試験に合格し、1933年5月に入党し、その一年後には裁判官に任命された。民族裁判所では1942年以降、第一部に配属された。ハンス・ヨアヒム・レーゼは、1メートル60センチほどの小柄で、ポマードをつけた髪にくしでとき、被告人や証人を不審の目で見つめたフライスラーの右腕のような存在であった。フライスラーが判決を書く時には、彼が助言する立場にあった。それに署名し、言い渡した。大声をあげて怒鳴るようなことはしなかった。民族裁判所の長官のように公の舞台に立つことを求めなかった。物静かで、魂の抜けた、そして信頼のおける実務家であった。
フライスラーは、1942年、民族裁判所長官の職を引き継いだ。民族裁判所は、彼のもとで絶滅装置へと変わっていった。彼は平均して――毎日――3件の死刑判決を言い渡した。1943年の秋、一人の聖職者、マックス・ヨーゼフ・メツガーに対する裁判が行われた。全てのキリスト教徒のためのウナ・サンクタ(神聖)運動を提唱し、建白書を書いて、戦後の秩序を提起した人物である。ドイツは民主的になるべきである。産業の国有化を図るのである。このような提起をした。フライスラーは開いた口が塞がらなかった。この神父はヒトラーの力強さに対して公然と疑義を申し立てているのか。最後的勝利に対してもか。彼のような人物は消し去られねばならない。フライスラーは、このように激高して叫んだ。
フライスラーとレーゼは、すでに午前中に「防衛力の毀損」のかどで3人の「民族敵対者」に死刑を言い渡していた。メツガーは、4件目の事案であった――それには10分も要しなかった。即座に死刑判決が確定した。判決文の理由では、次のように述べられていた。「メツガーの全体的な行為態様は、誠に言語道断である。それが法学的に観て反逆罪としての特徴を備えているか否かは問題ではない」。反逆罪の特徴の有無にかかわらず、判決は執行された。1944年4月17日、「ドイツ民族の名の下で」、メツガーは斬首刑によって生命を終えた。
さてレーゼは、あれから23年を経た後で、裁判官時代の過去の埋め合わせをしたのだろうか。責任をとったのか。フライスラーの第1部の元陪席判事に対する捜査はすでに1962年に開始されていた。その当時、彼に対する捜査を行っていたのはミュンヘンの検事局であったが、よくある理由から手続が打切られた。被疑者に故殺罪の故意があったことが証明されなかったからである。2日後、ニュルンベルクの戦犯訴訟で主任検事を務めたロベルト・M・W・ケンプナー博士は、1944年7月20日の反対派の訴追に関与した人物をベルリンの検事局に対して告発した。その中にはレーゼも含まれていた。レーゼは、少なく見積もっても231件の死刑判決に関わっていた。検事局は、1967年1月20日になってようやくベルリン州裁判所に起訴した。検事局は、レーゼが1943年から1944年までの間、「下劣な動機」に基づく自身の行為によって3件の事案で人を殺害し、さらに4件の事案で故殺未遂を行い、それら7件の手続において民族裁判所の職業的な陪席判事として死刑を支持し、証明可能な3件の事案においてそれを執行したとして、その責任を追及した。
1967年7月3日、ベルリン州裁判所は、かつての血塗られた裁判官に対して、3件の謀殺罪の幇助、4件の謀殺未遂罪の幇助の成立を認め、合計で5年の懲役刑を言い渡した。判決理由では、司法による謀殺を行ったのは誰であったかというと、それは第1部において「支配的な影響力」を行使したフライスラーであって、民族裁判所のレーゼ陪席判事はその機会に関与しただけでああったが、しかし陪席判事は判決に対して批判的な発言をせずに、フライスラーの権威に服従したと述べられている。「レーゼは資格のある法律家であり、そのことから彼が正しい刑罰を支持する感覚を持ち続けることが期待されたのであるから、彼は――ベルリン高等裁判所が述べているように――自身の振舞いが不法であ ることを 認識しなければならなかったのである」。
有罪判決を受けて、検事局とレーゼの双方から上告がなされた。
1968年4月30日、連邦通常裁判所(BGH)第5刑事部は、原判決を2枚の紙に理由が書かれただけの決定文によって破棄し、それを第1審の陪審裁判所に差し戻した。その理由において特に問題にされたのは、レーゼは正犯か、幇助犯か、いずれであると理解されるべきかという点にあった。他のナチ裁判で行われた実務とは異なり、この裁判では幇助犯ではなく、共同正犯として扱われた。そのことが意味するのは、それは言うまでもなく――BGHの裁判官によると――「被告人が処罰されるのは、彼が下劣な動機から死刑を支持していた場合だけである」ということである。つまり、ベルリン陪審裁判所は、フライスラーの動機だけが重要であり、レーゼが(フライスラーにそのような動機があることを知っていたという前提で)それを知っていたにもかかわらず、死刑に反対しなかったことを前提にしていたが、それが不当だというのである。
1968年12月6日、ベルリン高等裁判所所長オシュケのもとで開かれたベルリン陪審裁判所の差し戻し後の第1審において、かつての死刑裁判官レーゼに対して無罪が言い渡された。正義の奉仕者の戦慄をもようさせる戯画に無罪が言い渡されたことも問題であったが、それ以上に問題であったのは、若手の判事が口頭で述べた判決理由であった。彼は、恥ずかしそうな顔もせず、また残念そうなそぶりも見せずに連邦通常裁判所の関連する判例に依拠し、雛型とされている裁判例に基づいて意識的に強く述べた。「異常な状態」が続いた過去数年間において、それにもかかわらず、いかに全てが正しく進められたか。その裁判において最終的に明らかにされたのは、そのことであったに違いない。若手の判事は、そのように述べたのである。オシュケが用いた元の口調によれば、「民族裁判所には7人の裁判官がいたが、1人でも法を捻じ曲げた者がいたことなど全く確認されなかった」という。7人のうちの1人とは、レーゼが陪席判事を務めたフライスラーのことである。
オシュケは、口頭で述べた理由において確認した。「いかなる国家も、全体主義的な国家もまた自己主張する権利を持っている。その国家が、通常ではない手段を、威嚇的な手段を講じても、危機の時代にあっては非難されるいわれはない。……」。
ジョークや軽率な発言をしただけで死刑にされ、「血統人種法」に反する行為を行ったために、また最も等級の低いポ―ランド系の「よそ者の労働者」に対して慈悲深い素振りをしたために野蛮な判決を言い渡された――これら全ての無慈悲な判決は、「国家の自己主張権」だったというのだろうか。
無罪判決が言い渡されたのは、レーゼに対してだけではない。民族裁判所全体、つまりナチ司法全体に対して言い渡されたのである。ナチの法律家として悪業をなしたのではなく、要するに義務を果たしたのだ。レーゼは、そのような意識で法廷から去った。そして、この世からも去った。無罪判決に対して検察官が上告している間に、かつての血塗られた裁判官は死んでいった。彼の罪は、まだ償われていない。
しかし、このような方法で民族裁判所を丸ごと免責することに同意できない人物がいた。それは、ロベルト・M・W・ケンプナーである。1979年3月18日、ベルリン検事長は、「1944年7月20日以降に、あるいはそれ以前から、すでにナチの民族裁判所の手続に関与していた全ての被疑者」をさらに刑事告発した。しかし、従前の決定を参照して、この手続もまた即座に打切られた。しかしケンプナーは、それに動じなかった。元ベルリン司法省官僚のゲアハルト・マイヤーが同志となってくれた。1979年10月、州裁判所の検事局は、再び捜査を開始した。民族裁判所の570人の構成員のうちの若干名で、生存している67人の裁判官と検察官を法廷に連れ出すことはまだ可能なのであろうか。
マイヤーは、ケンプナーの自発的行動を支持した。なぜならば、彼は1968年4月30日のレーゼ判決が――とくに民族裁判所を「正規」の裁判所として評価したことに関して――歴史的な真実と全く一致しないことを確信していたからである。そのため、それをめぐって実際に戦後の法律家の間で論争が起こった。連邦通常裁判所の判決によれば、裁判官は、枉法行為が証明された場合にだけ謀殺罪によって処罰された。
しかし、それはほんとど不可能であった。かつての褐色の法律家は、あの当時成立していた法律に従って行動しただけであると指摘した。彼らは、立法者もまた犯罪人でありえたこと、法律も犯罪的でありえたことを認めようとしなかった。もしそうだとしても、ナチの法律家が信頼して請け負い、妥当する法の形式に主観的に革新していた場合には、自身の行為がもたらした結果に責任を負わなくてもよいということになるのだろうか。もしそうだとしても、ナチの法律家が立法者としての国家の意識を実行しているだけであると確信している限り、不法をなしえないことを意味することになるのだろうか。このような法実証主義の形式によって、ナチ司法のあらゆる倒錯現象は免責されるのだろうか。政治的なジョークを理由に人を絞首台に連れて行った裁判官が実際に無罪のままでいいのだろうか。
彼らは無罪のままであった。7年の捜査が続けられた後――ほとんどの被疑者が高齢から死亡した後――、ベルリンの検察官は1986年10月26日に捜査を打切った。
マイヤーの後任の西ベルリンの司法省官僚のルッパート・ショルツは、一般国民に対して、民族裁判所の構成員に対する手続きはもう行われないであろうと伝えた。彼は、「満足しているわけではありません。また、正義を信じていた人々に対して、誠に申し訳ない気持ちです」と態度を表明した。「破滅的な出来事、想像を絶する被害」に対する表明としては、美的でかつ平穏な言葉であった。ジャーナリストのヴァルター・ボェーリヒは、そのように手続打切りの決定にコメントした。
不法な司法の傑出した象徴としての民族裁判所は――もう二度と――被告人席に座ることはなかった。それにもかかわらず、ベルリン検事局は懸命な作業を続けた。113冊の文書ファイル、59人分の個人記録、85冊の関連文書ファイル、150部の捜査書類が運び込まれた。ベルリン検事局が書類の表紙が閉じられたとき――フランクフルター・アルゲマイネ紙によれば、「悲痛な締めくくり、心地よい締めくくり」であった――、検事局には責任はなかった。司法はすでに数年前に、り返しのつかない怠慢と過ちを犯していたからである。ドイツの裁判官は、小さな共産主義政党の構成員に有罪判決を言い渡す作業に従事し、そのために彼らは褐色の同僚たちのことに関わる時間的余裕がなかったのである。裁判所がすでにあの時――連邦議会もまた以前から持っていた――認識に至っていたならば、事態は全く異なっていたであろう。
1985年1月25日、ドイツ連邦議会は、「『民族裁判所』として特徴づけられた機関は、法治国家の意味での裁判所ではなく、ナチの専断的支配を貫徹するためのテロ手段であった」ことを珍しいことに一致して確認した。この決議のきっかけになったのは、すでに2年前に遡る。ミュンヘンの学生グループのレジスタンス活動を描いた『白バラ』というタイトルの映画が上映された。映画の終わりの字幕には、次のように書かれていた。レジスタンスの活動家に言い渡された有罪判決は、連邦通常裁判所の見解によると、「今でも正当である」。当時の連邦通常裁判所長官のゲアハルト・プファイファーは、激しく異議を唱え、その判決が――ある部分は占領法規によっ て、また 他の部分は1949年に連邦法にされたドイツのラント立法によって、さらには部分的には個々の事件での再審請求手続において―――破棄されていることを指摘した。映画の終わりの字幕は、その後訂正され、補足の説明が加えられた。しかし、それによって議論は終わらなかった。
連邦議会内の社会民主党会派が主導して、連邦の立法者が民族裁判所の判決を廃止できるようにすることを訴えた。その当時の――社会民主主義のイデオロギーによって運営された――連邦司法省から、もはや存在しないものを廃止することなどできないと、当時の立法者に対して異議申立が出された。さらに民族裁判所の活動――少なくとも当該裁判所の初期の活動――は別建てで評価されるべきであるとの指摘もなされた。「疑わしきは被告人に有利に」というスローガンがあるが、それに従って完全に行動した刑事部も個々にはあったことを疑う余地がないことを証言する者もあり、それが引き合いに出された。 しかし、社会民主党議員団は動じることなく、少なくとも連邦議会は民族裁判所と距離を置くべきであると求めた。
ことは上手く運んだ。連邦議会議員は――キリスト教民主同盟から緑の党に至るまで――法務委員会の提案に従って、民族裁判所の判断が法的効力を持っていないことについて一致した。「法的効力」という言葉をめぐって、長いあいだ争いがあった。そのような法的効力はもうすでになかったのでは、というのが第1の主張であった――それは法務委員会で論じられたものである。つぎに、立法府である連邦議会がそのような事柄を確認できないのでは、というのが第2の主張であった。そして、民族裁判所は――たとえわすかであっても――無罪判決を言い渡したていた、というのが第3の主張であった(法的効力がないならば、その判決も「法的に無効」として位置付けられてしまう)。とくに司法大 臣のハンス・エンゲルハルトは、これらの理由から民族裁判所と特別裁判所の判決を破棄することに反対する意見を述べた。奇妙な反論であったが、法務委員会の構成員は彼によって説得された。このようにして、判決を破棄しないが、判決実務から距離を置き、それに「法的効力」を認めないということで合意に達した。距離を置くというのは象徴的であった。それを明確にする法律はあったかというと――なかった。
連邦議会の決定は、いずれにせよ日常的に行われていた刑事訴追の実務――それはレーゼの無罪判決だけを指しているのではない――に言及していない。天網恢恢疎にして漏らさずであるにもかかわらず、司法の網はそれよりも緩慢にしか働かなかった。ナチの法律家は今ここにいる。彼らがその網の目にかかることはめったにない。
レーゼと他の血塗られた裁判官は、つまり服を着た謀殺者の典型例は、処罰されなかった。特別裁判所や軍事裁判所の多くの裁判官は、いずれにせよ処罰されねばならないと当惑しながらも、不処罰に当惑する者はいなかった。処罰していたならば、雪崩のような現象が起こったに違いない。「民族裁判所判事のレーゼが謀殺をするなどありえない」と、放送ジャーナリストで編集者のイェルク・フリードリヒは書いた。「さもなくば、連邦ドイツの司法は数百人の謀殺者によって支えられてきたことになる。……」。まさにそれが恥ずべき現実であった。
重い責任を負うべき元民族裁判所判事が今再び法を語っている、しばしば重要な地位に立って法を語っている、そのことを煩わしく思う人は明らかにいなかった。
例えば、民族裁判所判事のパウル・ライマース博士は、124件の死刑判決に関わった。オットー・ラーマイヤーは、民族裁判所の訴追官として少なくとも78件の死刑判決に関わった。この二人の執行官は、ラーフェンスブルクの州裁判所に勤務し、1963年まで法文化のために改めて奉仕することが許された。
例えば、民族裁判所の訴追官であったゲアハルト・レーンハルト博士のようなナチの法律家は、少なくとも47件の死刑判決に関与したが、1960年までノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセの上級州裁判所の判事であった。民族裁判所の検察官のヘルムート・イェーガー博士は、少なくとも4件の死刑判決に関わったが、1966年までミュンヘン上級州裁判所の判事を務めた。同じように、民族裁判所の第1検察官のクルト・ナウケ博士は、少なくとも19件の死刑判決に関わったが、後にハノーファーの上級検察官に就任した。民族裁判所の第1検察官兼鑑識係官のヴァルター・レーマーもまた、少なくとも25件の死刑判決に関わった――その中にはレジスタンス・グループの「白バ ラ」に所属していたアレクザンダー・シュモーレルとクルト・フーバー教授に対する死刑判決も含まれていた。レーマーは、ミュンヘン=シュターデルハイム刑務所の死刑執行官でもあった。1944年8月11日付けの彼の執行報告書がある。「死刑囚ヴィルバルト・ブラートル――執行までの時間を正確に計算すると、単独房を出てから1分13秒を要した。執行の委託を受けたレーマー第1検察官(署名)」。戦後、この執行官はストップウォッチを手にしたまま経歴――連邦司法省の課長および部長――をさらに重ねることができた。
ヨハネス・ローレンツ――民族裁判所の州裁判所長――も少なくとも3件の死刑判決に関与した。彼はその経歴を中断することなく、1979年まで西ベルリン高等裁判所判事として法治国家に仕えた。
民族裁判所の訴追官であったエドムント・シュタルクは、少なくとも50件の死刑判決に関与したが、その後同僚のライマースやラーマイヤーと同じように田園風景のラーフェンブルクに職を見つけ、1968年まで州裁判所長として再び法を語ることが許された。ベルリン州裁判所判事で、民族裁判所の上級検察官であり、かつ刑の執行に際して責任者であったパウル・エンマーリヒ博士は、ザーリュブルッケンの州裁判所判事に就任し、その後は退職し年金生活に入った。裁判にかけられた者は1人もいなかった。第三帝国の司法は、以前として未解決な事件である。
ナチ司法に対する無罪判決は、例外的な現象ではなく、原則であった。不法を追認する作業は、ルーティーンワークになった。テロ判決は「法治国家的に観て非難の余地はない」と宣言され、「なおも主張できる」と見られた。無数あるうちの――3つの典型的な事例を紹介する。
カッセル特別裁判所判事は、ある男性に「人種汚辱罪」のかどで死刑を言い渡したが、その判事に対する裁判において、1952年3月28日、カッセル州裁判所は、「その当時の戦局の諸関係を考慮に入れなければならず」、その関係が「あらゆる種類の法違反者に対して感情面での雰囲気を作り出した」ということを持ち出した。「法律の錯誤」は、 その時には主張されなかった。特別裁判所の所長は、1950年に尋問に対して、もう一度自分がなした判決を擁護した。「私が当時言い渡した判決を、私は今日でもなおも堅持します」。裁判所は、彼に同意し、その判決において明確に述べた。「血統保護法の適用は、その当時においては疑う余地がなく適法に行われ」、そして特別裁判所判事が「裁判官職の清廉潔白さを誇るドイツの伝統から逸脱した」とは言えない。判決は無罪であった。
その当時、アメリカ軍がフランケン地方のブレットハイムという小さな村の付近に進駐する数時間前にある事件が発生したが、その真相が1960年4月23日にアンスバッハ州裁判所で究明された。当時は市長とナチ党地方集団指導者は、間近に迫りつつある崩壊に直面していたため、即決裁判所の判事として死刑判決に署名するのを拒否した。彼らは命を犠牲にする対価を払って、それを拒否した。そして2人に対する死刑は遅滞なく執行された。アンスバッハ州裁判所の認定によれば、二人は「義務違反」の行動をした。なぜなら、「両者は被告人に配慮することによって、村の住民の防衛意思とドイツ民族の防衛意思を麻痺させ、堕落させたからである」――これが戦後の法律家が用いた元々の口調であった。結果的は こうである。両者を死刑に処したことに法的に異議を申し立てることはできない――これが戦後の法律家の見解である。
ベルリン州裁判所もまた、1944年7月20日の暗殺者に対する民族裁判所の判決に対して、ほとんど非難を向けなかった。「7月20日のレジスタンス活動家たちは、最小限度の手続上の要件を顧慮することなく、外見的に手続が踏まえられたことをもって死刑に処せられた。このことは、彼らが謀殺されたも同然である」という主張に対して、1971年にベルリンの裁判官は、彼らに対する死刑判決が公判前にすでに決まっていたにもかかわらず、そのような主張は決して裏付けられているとはいえないと評価した。数千件の事例のなかから3件を紹介する。
ナチス・ドイツの時代、1600件を超える死刑判決が平服を着た刑事裁判所によって言い渡され、その3分の2以上が執行された。軍服を着た軍事裁判所は、3万件以上の死刑判決を言い渡した。ドイツ司法史の別の時代と比較するとき、この数字を確認することの意義が明らかになる。1907年から1932年までの期間、ドイツでは合計で1547人の被告人に死刑が言い渡された。そのうち執行されたのは377件であった。
1933年以前までは3種の犯罪にしか死刑は定められていなかったが、1944年には40種を超える犯罪に死刑が科されるようになった。そして、狂信的な裁判官がためらうことなく被告人を死に追いやった。1941年から1945年までだけを見ても、ドイツの刑事裁判所はおよそ1万5千件の死刑判決を言い渡した。そのほとんどが、特別裁判所と民族裁判所によるものであった。
しかしながら、戦争が終わって、死の裁判官には恐れるものなど何もなかった。逆に、ナチ司法に対する裁判手続において、被告人たちは同僚裁判官の特別の感情と理解をあてにすることが許された。言い渡された判決は、戦後の司法にとっては表面的なものであった。「あの当時、適用した法は適用すべき法であった」と正当化したが、その理由が成り立たないにもかかわらず、言い渡された判決はやはり野蛮というには十分であった。
妨害された捜査、気前の良い理解、手ぬるい有罪判決、無数の無罪判決――第三帝国の法律家の行動が問題にされたとき、戦後の司法を特徴づけたのは、このような全ての事柄であった。「違法性の意識の欠如」という公式を用いれば、それが当時のナチの「法擁護者」の身の潔白の証明書になった。彼らが同僚裁判官同士の連帯を計算に入れることができたのは言うまでもない。彼らが持っていた際立った職業上の連帯意識がそれを保障した。彼らの争いを好まない性格は、ほとんどのドイツ人の支持を得た。その限りでいえば、司法は民族よりの判断をした。裁判官が行った犯罪は、刑法によって裁かれなかったの。その理由の一部には、民族の大規模な集団によって心的に押しのけられたことがあった。
歴史健忘症
そして、今日ではどうだろうか――ナチ体制の終焉から70年以上が経ったのだろうか。第三帝国における司法の役割が問題視されるたびに、ているあの当時現場に居合わせた今でも生き残っている者、共同して実行した者、付和随行した者は、言い訳、歪曲、相対化の傾向に陥っている。彼らは、(自己の義務を果たしただけであり、災いがより大きくなるのをしばしば回避した)誠実な保守的法律家と(ナチ時代の司法の諸側面のうち、犯罪的側面だけに責任がある)法服を着たナチの法律家とを区別することに躍起になっている。このような愚かな区別は、「時間のリセット」以降、耐え難いほど重大であった事態を正当化するための出汁に使われるしかなかった。まさに保守的な法律家が「目の前にある法律を法と見做すような粉飾」をこらすことによって、あらゆる法文化が消滅し、そしてナチによって倒錯した状況に置かれることになった条件を作り上げたのである。
事態は依然として当時のままである。第三帝国において司法に従事していた数千人の法律家のうち、確信的なナチは半数以下であった。しかし、ヒトラーの独裁を安定化し、保障したのは、大多数の法律家であった。そのような法律家がナチ国家の要請に応えたにもかかわらず、ヒトラーは司法の成果に決して満足しなかった。
法と司法に対するヒトラーの立場は、根深い嫌悪感によって常に固められていた。その嫌悪感は、法律や裁判所といったものは、彼の行動の範囲を狭めるだけだという危惧に起因していた。しかし、法律家は自らがヒトラー体制の抵抗勢力ではなく、その共同参画者であることを示した。法律と命令は、ナチの時々の気分によって廃止され、効力を持った。それだけでなく、資格の剥奪という厳しい措置がとられたり、屈辱的な目に会わせるなどといったことも行われた。法律家の半数以上は、総統と党に服従した――破局的な最後を迎えるまで。
戦後、不法の遺産を担った者は誰もいなかった――それを担わなければならなかった者がほとんどいなかったからである。ブレーメンの法律家のインゴ・ミュラーが的確に定式化したように、法律家とナチとの共犯関係は、「法律家のところにナチの心情ではなく、ドイツ保守主義の確信があったために、微罪であると過小評価された」。伝説はそのようにして生まれた。「半」レジスタンス活動家がそのように宣伝し、責任ある司法が無罪にされた。歴史健忘症は、全ての職域における認識を特徴づける指標となった。
確かに言えることがある。それは、過去十数年、事態を解明する数多くの書物と研究業績が公表されていることである。それらによって、第三帝国における司法の不可解な役割に関する深くかつ批判的な取り組みが進められている。また、発掘されることなく埋もれたままであったドイツの法的伝統が新しい民主的な法文化を発展させるきっかけになっている。とくに1970年代はそうであった。今日の裁判官の世代は、法治国家の思想によって確固たる基盤に立っている。国家の権威に対して徹底した批判的な観点を備えている。
責任を負うべき者を刑法によって償わせる時代は、過ぎ去った。法服を着た褐色の実行犯のほとんどは、もうこの世にはいない。生き残っている最後の老年者を裁判所に連れ出したところで、戦後司法の怠慢と無能ぶりを埋め合わすことはできない。
従って、我々に課された義務が残されているとすれば、それは次のようなものであろう。ナチの不法な司法――ギュルトナー、ティーラック、フランク、ローテンベルガー、フライスラーなどの名前――を、そして不法な司法を可能にし、それを導いたのが何であったかを記憶することである。(完)
注釈と参考文献
・脱ナチ化に関しては、Entnazifizierung vgl. Wolfgang Benz, Zwischen Hitler und Adenauer, Frankfurt am Main 1991, S. 109ff. Ebenfalls die kenntnisreiche Arbeit von Jörg Friedrich, Die kalte Amnestie, Frankfurt am Main 1988, insbesondere S. 132f. sowie S. 357f.も同様に豊富な知識を提供している。
・ニュルンベルク法律家裁判の解説は次の文献に依拠した。Müller, a. a. O., S. 270ff. sowie Diestelkamp, a. a. O., S. 131ff. 訴追官の引用については、vgl. Müller, S. 272 und 273.
・フリッツ・バウアーの経歴と業績に関しては、vgl. Steinke, Ronen, Fritz Bauer – oder Ausschwitz vor Gericht, München 2013(ローネン・シュタインケ〔本田稔訳〕『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』〔アルファベータブックス、2017年〕).本書は非常に印象深いものである。
・いわゆるワルトハイム裁判に関しては、vgl. den Aufsatz von Falco Werketin, Scheinjustiz in der DDR – Aus den Regieheften der »Waldheimer Prozesse«, in: Kritische Justiz, Heft 3, 1991, S. 330ff. sowie Der Spiegel, Heft 37, 1992, S. 93ff.
・ドイツ民主共和国の司法が党と国家保安省(シュタージ)から影響を置けていたことを再現するものとしてジャーナリストの映画解説が詳しい。 Günther Klein, Der, wer kämpft für das Recht, der hat immer recht. Erstsendung im ZDF am 25. November 1992.
・1947年の法曹会議で行われたエバーハルト・シュミットの演説は、Senfft, a. a. O., S. 172. から引用した。連邦通常裁判所の除幕式に寄せられたデーラーとペーターセンの祝辞については、173頁。アデナウアーの引用は、174頁。
・フィアロン、バルドゥス、シャフホイトレ、カンターなどの経歴について書かれたものとしては、例えば次の文献を見よ。Bernt Engelmann, Deutschland-Report, Göttingen 1991. ドイツ人実行犯の経歴の連続性に関しては、Helmut Ortner, Gnadenlos deutsch, Frankfurt, 2016.
・元民族裁判所陪席判事ハンス=ヨアヒム・レーゼに対する捜査に関する引用は、次のものによる。Müller, a. a. O., S. 281ff. sowie den Ausführungen von Gerhard Meyer, Für immer ehrlos, in Hillermeier, a. a. O., S. 115f. 民族裁判所の法律家に対する捜査の詳細な資料は、次のものに見られる。Jahntz/Kähne, a. a. O., Gerd Denzel, Die Ermittlungsverfahren gegen Richter und Staatsanwälte am Volksgerichtshof seit 1979, in Kritische Justiz, Heft 1/1991, S. 31ff.また、とくに連邦通常裁判所の役割に関しては、Günther Frankenberg/ Franz J. Müller, Juristische Vergangenheitsbewältigung – Der Volksgerichtshof vorm BGH, in Redaktion Kritische Justiz (Hrsg.), Der Unrechts-Staat II, a. a. O., S. 225ff.
・民族裁判所の法律家が無罪にされたことについては、vgl. Walter Boehlich, Ein Ende ohne Schrecken, in Konkret, Heft 12/1968司法省のルッパート・ショルツの引用については、Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 23. Oktober 1985 und Der Spiegel vom 27. Oktober 1986(その中にはルドルフ・ランプレヒトの引用がある).
・「民族裁判所」と「特別裁判所」は、ナチの不法体制の道具として特徴づけられたが、ドイツ連邦議会がその判決の無効をテーマにして法務委員会を開催した。その決定勧告は次のものに掲載されている。Drucksache 10/2368 des Deutschen Bundestags, 10. Wahlperiode.
・緑の党会派の連邦議会議員ハンス=クリスチャン・シュトレーベレの重要な質問を参照せよ。Nicht einmal die Zahl der gefällten Todesurteile ist bekannt am 3. und 4. April in der Frankfurter Rundschau dokumentiert wurde.
・平服を着た刑事裁判所と軍服を着た軍事裁判所で言い渡された多くの死刑判決については、Gerhard Fieberg, Justiz im nationalsozialistischen Deutschland, Köln 1984, S. 54. 在野の研究者のフリッツ・ヴュルナーは、事実に即した研究によって、ナチの軍事裁判所の歴史資料を整理し、フィーベルクに対して印象的な反論を向けている。
・ヴュるナーは、その著書で死刑判決の件数(1万という「奇妙な数字」ではなく、3万以上である)と訂正している。Die NS-Militärjustiz und das Elend der Geschichtsschreibung, Baden-Baden 1991.
・Ingo Müller vgl. a. a. O., S. 295f.からの引用。
解説
1.本稿について
本稿「Helmut Ortner, Keine Stunde Null-- Warum NS-Juristen in Deutschland straffrei ausgingen - und fast alle damit einverstanden waren」は、2017年12月17日(日)に東京でヘルムート・オルトナー氏が行った講演「現前する過去、記憶する義務」を大幅に加筆したものである。
2017年12月17日、刑事司法及び少年司法に関する教育・学術研究推進センターは、第5回講演会「司法の戦後責任――ドイツと日本の比較」を企画した。日本側からは広渡清吾氏(東大名誉教授)が「日本とドイツはどのように違うか――『過去』と『現在』のかかわり」といテーマで報告し、ドイツ側からはヘルムート・オルトナー氏が「現前する過去、記憶する義務」というテーマで報告した。オルトナー氏は、この企画において、戦後ドイツ社会が取り組んできた過去の克服とその記憶について説明したが、戦前の戦争と人権侵害に対して戦後の司法がどのように取り組んできたのかという点については、時間の関係から十分に説明することができなかった。 講演後、 本田が通訳の方を介して、司法の戦後責任に関するオルトナー氏の見解を知りたいと申し出たところ、その点に関して数年前に発表した文章を加筆・補正したものを公表することができるとの返事をいただいた。それが本稿である。
2.オルトナー氏の経歴について
ヘルムート・オルトナー氏は、1950年、ドイツのゲンドルフに生まれ、オッヘンバッハ・アム・マイン造形大学、ダルムシュタット専門単科大学において教育社会学と犯罪学を専攻し、1978年以降、ジャーナリスト・著述者として、また多くの専門誌の編集者として数多くの著作を発表してきた。『ヒトラー暗殺未遂犯』は10を超える国・言語で翻訳され、世界的に読まれている。また、近年発表された『ヒトラーの裁判官 フライスラー』が日本語訳され、日本の論壇でも注目され始めている。現在、フランクフルト・アム・マインに在住し、主としてドイツの歴史認識と過去の記憶というテーマでナチ時代の司法の問題を中心に取材と執筆活動を行っている。今回の日本での公演は、ヘルムート・オルトナー(須藤正美訳)『ヒトラーの裁判官』(白水社、2017年)の出版がきっかけとなって企画され、講演の通訳はその翻訳者である須藤正美氏によって行われた。須藤氏が本田の意思をオルトナー氏に正確に伝えてくれたことに記して感謝する。
3.本稿の意義について
本稿の表題にある「Stunde Null」とは、1945年5月8日にナチス・ドイツが連合国に降伏した瞬間を指す。つまり、戦前が終わり、戦後が始まった瞬間、戦争が終わり、平和が訪れた時点、ナチスのレジームが崩壊し、新たな時代が始まった瞬間である。戦争と独裁、抑圧と差別の時代と決別し、平和と民主主義、自由と平等の時代が始まった時代を象徴する言葉として、ドイツ歴史学や公法学では「Stunde Null」(零時)という言葉が多用されている。戦後の歩みは、時代がリセットされ、新たな時代が始まった「零時」から時を刻み始めている。
オルトナー氏は、その言葉に「Kein(e)」(~~はない)という否定の冠詞をつけ、そのような歴史認識に疑問を投げかけている。戦争が終わり、戦前の歴史が幕を閉じたのは事実である。それを否定する者はいない。しかし、戦前が終わったからといって、それで戦後が始まったといえるのか。戦争の前後において両者を分け隔てる「零」の時間帯があるとしても、その時間は自然の時間のように無条件に進行しないのではないか。歴史の時計の針は止まったままではないのか。その証拠に、ナチスの法律家は戦後のドイツにおいて無罪放免にされているではないか、司法界、法曹界、法学界もそのことを疑問視していないではないか。オルトナー氏は、本稿の副題において、そのような辛辣な問題を提 起している。
元ナチの法律家に無罪の判決言い渡したのは、どのような裁判官だったのか。それは、戦前から戦後にかけて、ナチ時代から連邦共和国にかけて、司法省、裁判所・検事局の高位の官職についていた法律であった。戦前が終わり、戦後が始まった。ナチスのレジームは崩壊し、新たな政治体制が確立した。それは事実である。しかし、ドイツ司法の基本構造、とくに人的支配構造はほとんど変わっていない。その意味において、戦後ドイツ司法はリセットされなかった。「零時」はなかった。戦前のドイツ司法は終わったが、戦後のそれは始まっていない。これがオルトナー氏の主張の核心である。
4.オルトナー論文の掲載について
このようなオルトナー氏の主張は、ドイツでは必ずしも多数派の意見ではないかもしれない。しかし、外務省の戦後史の研究に端を発し、2013年以降、ドイツ連邦司法省(ハイコ・マース元連邦司法大臣・現外務大臣)によって戦後司法省に関する研究が進められている。その中で、とくに1950年代・60年代の司法省内部の人的連続性の実態が史料から明らかにされ始めている。それによって、安楽死やホロコーストに関与したナチの法律家が戦後のドイツで無罪放免にされた理由、それを可能にした人的背景が明らかにされている。その意味でオルトナー氏の主張は、ジャーナリストとしての批判的な視点から、ドイツにおける刑事司法史の研究と同じ方向性を示しているといえる。それは、日本のみならず、非ドイツ語圏の国々においても議論するに値するものである(戦後外務省の研究は、Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Heynes und Moshe Zimmermann, DAS AMT UND DIE VERGANGENHEIT, 2000.〔エッカルト・コンツェ/ノルベルト・フライ/ペーター・ヘイズ/モシュ・ツィンマーマン[稲川照芳/足立ラーペ/手塚和彰訳]『ドイツ外務省〈過去と罪〉第三帝国から連邦共和国体制下の外務官言行録』(えにし書房、2018)。戦後連邦司法省の研究は、Manfred Görtenmaker / Christoph Saffering, Die Akte Rosenburg, 2916.なお、近年のドイツ連邦司法省の取組に関しては、ハイコ・マース(本田稔訳)「フリッツ・バウアー 『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」立命館法学373号〔2017年〕487頁以下、ハイコ・マース(本田稔訳)「ローゼンブルクの記録」立命館法学374号〔2017年〕386頁以下を参照されたい)。
このようなオルトナー氏の論稿をそのままの形で日本の法学会誌に掲載する(さらには日本語訳をする)ことは、司法の戦後責任の問題を日本国内外において議論する重要なきっかけになることは明らかである。また、氏のような司法史研究をしている他の研究者などとの交流の輪を広げる機会にもなりうるであろう。龍谷大学は、2017年12月にヘルムート・オルトナー氏を招いて講演会を開催した数少ない大学の1つである。本稿を掲載できる専門誌は様々ありうるが、その場所として最も相応しいのは、すでにオルトナー氏との交流を進めている「龍谷法学」を置いて他にない。龍谷大学法学会および「龍谷法学」編集委員会が、非会員の手による本稿の日本語訳の掲載を許諾していただいたことに深く感謝する次第である。(2018年5月1日脱稿)
時間はリセットされなかった(2)
―――ドイツでナチの法律家が罪を問われないまま出発でき、多くの人々がそれに理解を示した理由――
フライスラーの右腕
過去という名の陰から解き放たれるチャンスは幾度かあった。それを提供したのは、(フライスラーの後任で)最も重い責任をとるべき民族裁判所の裁判官であり、元ベルリン高等裁判所判事ハンス・ヨアヒム・レーゼの事件であった。、
彼は1902年に生まれ、ナチの司法装置の中で出世の道を歩んだ。1932年に「最優秀」の成績で司法官試験に合格し、1933年5月に入党し、その一年後には裁判官に任命された。民族裁判所では1942年以降、第一部に配属された。ハンス・ヨアヒム・レーゼは、1メートル60センチほどの小柄で、ポマードをつけた髪にくしでとき、被告人や証人を不審の目で見つめたフライスラーの右腕のような存在であった。フライスラーが判決を書く時には、彼が助言する立場にあった。それに署名し、言い渡した。大声をあげて怒鳴るようなことはしなかった。民族裁判所の長官のように公の舞台に立つことを求めなかった。物静かで、魂の抜けた、そして信頼のおける実務家であった。
フライスラーは、1942年、民族裁判所長官の職を引き継いだ。民族裁判所は、彼のもとで絶滅装置へと変わっていった。彼は平均して――毎日――3件の死刑判決を言い渡した。1943年の秋、一人の聖職者、マックス・ヨーゼフ・メツガーに対する裁判が行われた。全てのキリスト教徒のためのウナ・サンクタ(神聖)運動を提唱し、建白書を書いて、戦後の秩序を提起した人物である。ドイツは民主的になるべきである。産業の国有化を図るのである。このような提起をした。フライスラーは開いた口が塞がらなかった。この神父はヒトラーの力強さに対して公然と疑義を申し立てているのか。最後的勝利に対してもか。彼のような人物は消し去られねばならない。フライスラーは、このように激高して叫んだ。
フライスラーとレーゼは、すでに午前中に「防衛力の毀損」のかどで3人の「民族敵対者」に死刑を言い渡していた。メツガーは、4件目の事案であった――それには10分も要しなかった。即座に死刑判決が確定した。判決文の理由では、次のように述べられていた。「メツガーの全体的な行為態様は、誠に言語道断である。それが法学的に観て反逆罪としての特徴を備えているか否かは問題ではない」。反逆罪の特徴の有無にかかわらず、判決は執行された。1944年4月17日、「ドイツ民族の名の下で」、メツガーは斬首刑によって生命を終えた。
さてレーゼは、あれから23年を経た後で、裁判官時代の過去の埋め合わせをしたのだろうか。責任をとったのか。フライスラーの第1部の元陪席判事に対する捜査はすでに1962年に開始されていた。その当時、彼に対する捜査を行っていたのはミュンヘンの検事局であったが、よくある理由から手続が打切られた。被疑者に故殺罪の故意があったことが証明されなかったからである。2日後、ニュルンベルクの戦犯訴訟で主任検事を務めたロベルト・M・W・ケンプナー博士は、1944年7月20日の反対派の訴追に関与した人物をベルリンの検事局に対して告発した。その中にはレーゼも含まれていた。レーゼは、少なく見積もっても231件の死刑判決に関わっていた。検事局は、1967年1月20日になってようやくベルリン州裁判所に起訴した。検事局は、レーゼが1943年から1944年までの間、「下劣な動機」に基づく自身の行為によって3件の事案で人を殺害し、さらに4件の事案で故殺未遂を行い、それら7件の手続において民族裁判所の職業的な陪席判事として死刑を支持し、証明可能な3件の事案においてそれを執行したとして、その責任を追及した。
1967年7月3日、ベルリン州裁判所は、かつての血塗られた裁判官に対して、3件の謀殺罪の幇助、4件の謀殺未遂罪の幇助の成立を認め、合計で5年の懲役刑を言い渡した。判決理由では、司法による謀殺を行ったのは誰であったかというと、それは第1部において「支配的な影響力」を行使したフライスラーであって、民族裁判所のレーゼ陪席判事はその機会に関与しただけでああったが、しかし陪席判事は判決に対して批判的な発言をせずに、フライスラーの権威に服従したと述べられている。「レーゼは資格のある法律家であり、そのことから彼が正しい刑罰を支持する感覚を持ち続けることが期待されたのであるから、彼は――ベルリン高等裁判所が述べているように――自身の振舞いが不法であ ることを 認識しなければならなかったのである」。
有罪判決を受けて、検事局とレーゼの双方から上告がなされた。
1968年4月30日、連邦通常裁判所(BGH)第5刑事部は、原判決を2枚の紙に理由が書かれただけの決定文によって破棄し、それを第1審の陪審裁判所に差し戻した。その理由において特に問題にされたのは、レーゼは正犯か、幇助犯か、いずれであると理解されるべきかという点にあった。他のナチ裁判で行われた実務とは異なり、この裁判では幇助犯ではなく、共同正犯として扱われた。そのことが意味するのは、それは言うまでもなく――BGHの裁判官によると――「被告人が処罰されるのは、彼が下劣な動機から死刑を支持していた場合だけである」ということである。つまり、ベルリン陪審裁判所は、フライスラーの動機だけが重要であり、レーゼが(フライスラーにそのような動機があることを知っていたという前提で)それを知っていたにもかかわらず、死刑に反対しなかったことを前提にしていたが、それが不当だというのである。
1968年12月6日、ベルリン高等裁判所所長オシュケのもとで開かれたベルリン陪審裁判所の差し戻し後の第1審において、かつての死刑裁判官レーゼに対して無罪が言い渡された。正義の奉仕者の戦慄をもようさせる戯画に無罪が言い渡されたことも問題であったが、それ以上に問題であったのは、若手の判事が口頭で述べた判決理由であった。彼は、恥ずかしそうな顔もせず、また残念そうなそぶりも見せずに連邦通常裁判所の関連する判例に依拠し、雛型とされている裁判例に基づいて意識的に強く述べた。「異常な状態」が続いた過去数年間において、それにもかかわらず、いかに全てが正しく進められたか。その裁判において最終的に明らかにされたのは、そのことであったに違いない。若手の判事は、そのように述べたのである。オシュケが用いた元の口調によれば、「民族裁判所には7人の裁判官がいたが、1人でも法を捻じ曲げた者がいたことなど全く確認されなかった」という。7人のうちの1人とは、レーゼが陪席判事を務めたフライスラーのことである。
オシュケは、口頭で述べた理由において確認した。「いかなる国家も、全体主義的な国家もまた自己主張する権利を持っている。その国家が、通常ではない手段を、威嚇的な手段を講じても、危機の時代にあっては非難されるいわれはない。……」。
ジョークや軽率な発言をしただけで死刑にされ、「血統人種法」に反する行為を行ったために、また最も等級の低いポ―ランド系の「よそ者の労働者」に対して慈悲深い素振りをしたために野蛮な判決を言い渡された――これら全ての無慈悲な判決は、「国家の自己主張権」だったというのだろうか。
無罪判決が言い渡されたのは、レーゼに対してだけではない。民族裁判所全体、つまりナチ司法全体に対して言い渡されたのである。ナチの法律家として悪業をなしたのではなく、要するに義務を果たしたのだ。レーゼは、そのような意識で法廷から去った。そして、この世からも去った。無罪判決に対して検察官が上告している間に、かつての血塗られた裁判官は死んでいった。彼の罪は、まだ償われていない。
しかし、このような方法で民族裁判所を丸ごと免責することに同意できない人物がいた。それは、ロベルト・M・W・ケンプナーである。1979年3月18日、ベルリン検事長は、「1944年7月20日以降に、あるいはそれ以前から、すでにナチの民族裁判所の手続に関与していた全ての被疑者」をさらに刑事告発した。しかし、従前の決定を参照して、この手続もまた即座に打切られた。しかしケンプナーは、それに動じなかった。元ベルリン司法省官僚のゲアハルト・マイヤーが同志となってくれた。1979年10月、州裁判所の検事局は、再び捜査を開始した。民族裁判所の570人の構成員のうちの若干名で、生存している67人の裁判官と検察官を法廷に連れ出すことはまだ可能なのであろうか。
マイヤーは、ケンプナーの自発的行動を支持した。なぜならば、彼は1968年4月30日のレーゼ判決が――とくに民族裁判所を「正規」の裁判所として評価したことに関して――歴史的な真実と全く一致しないことを確信していたからである。そのため、それをめぐって実際に戦後の法律家の間で論争が起こった。連邦通常裁判所の判決によれば、裁判官は、枉法行為が証明された場合にだけ謀殺罪によって処罰された。
しかし、それはほんとど不可能であった。かつての褐色の法律家は、あの当時成立していた法律に従って行動しただけであると指摘した。彼らは、立法者もまた犯罪人でありえたこと、法律も犯罪的でありえたことを認めようとしなかった。もしそうだとしても、ナチの法律家が信頼して請け負い、妥当する法の形式に主観的に革新していた場合には、自身の行為がもたらした結果に責任を負わなくてもよいということになるのだろうか。もしそうだとしても、ナチの法律家が立法者としての国家の意識を実行しているだけであると確信している限り、不法をなしえないことを意味することになるのだろうか。このような法実証主義の形式によって、ナチ司法のあらゆる倒錯現象は免責されるのだろうか。政治的なジョークを理由に人を絞首台に連れて行った裁判官が実際に無罪のままでいいのだろうか。
彼らは無罪のままであった。7年の捜査が続けられた後――ほとんどの被疑者が高齢から死亡した後――、ベルリンの検察官は1986年10月26日に捜査を打切った。
マイヤーの後任の西ベルリンの司法省官僚のルッパート・ショルツは、一般国民に対して、民族裁判所の構成員に対する手続きはもう行われないであろうと伝えた。彼は、「満足しているわけではありません。また、正義を信じていた人々に対して、誠に申し訳ない気持ちです」と態度を表明した。「破滅的な出来事、想像を絶する被害」に対する表明としては、美的でかつ平穏な言葉であった。ジャーナリストのヴァルター・ボェーリヒは、そのように手続打切りの決定にコメントした。
不法な司法の傑出した象徴としての民族裁判所は――もう二度と――被告人席に座ることはなかった。それにもかかわらず、ベルリン検事局は懸命な作業を続けた。113冊の文書ファイル、59人分の個人記録、85冊の関連文書ファイル、150部の捜査書類が運び込まれた。ベルリン検事局が書類の表紙が閉じられたとき――フランクフルター・アルゲマイネ紙によれば、「悲痛な締めくくり、心地よい締めくくり」であった――、検事局には責任はなかった。司法はすでに数年前に、り返しのつかない怠慢と過ちを犯していたからである。ドイツの裁判官は、小さな共産主義政党の構成員に有罪判決を言い渡す作業に従事し、そのために彼らは褐色の同僚たちのことに関わる時間的余裕がなかったのである。裁判所がすでにあの時――連邦議会もまた以前から持っていた――認識に至っていたならば、事態は全く異なっていたであろう。
1985年1月25日、ドイツ連邦議会は、「『民族裁判所』として特徴づけられた機関は、法治国家の意味での裁判所ではなく、ナチの専断的支配を貫徹するためのテロ手段であった」ことを珍しいことに一致して確認した。この決議のきっかけになったのは、すでに2年前に遡る。ミュンヘンの学生グループのレジスタンス活動を描いた『白バラ』というタイトルの映画が上映された。映画の終わりの字幕には、次のように書かれていた。レジスタンスの活動家に言い渡された有罪判決は、連邦通常裁判所の見解によると、「今でも正当である」。当時の連邦通常裁判所長官のゲアハルト・プファイファーは、激しく異議を唱え、その判決が――ある部分は占領法規によっ て、また 他の部分は1949年に連邦法にされたドイツのラント立法によって、さらには部分的には個々の事件での再審請求手続において―――破棄されていることを指摘した。映画の終わりの字幕は、その後訂正され、補足の説明が加えられた。しかし、それによって議論は終わらなかった。
連邦議会内の社会民主党会派が主導して、連邦の立法者が民族裁判所の判決を廃止できるようにすることを訴えた。その当時の――社会民主主義のイデオロギーによって運営された――連邦司法省から、もはや存在しないものを廃止することなどできないと、当時の立法者に対して異議申立が出された。さらに民族裁判所の活動――少なくとも当該裁判所の初期の活動――は別建てで評価されるべきであるとの指摘もなされた。「疑わしきは被告人に有利に」というスローガンがあるが、それに従って完全に行動した刑事部も個々にはあったことを疑う余地がないことを証言する者もあり、それが引き合いに出された。 しかし、社会民主党議員団は動じることなく、少なくとも連邦議会は民族裁判所と距離を置くべきであると求めた。
ことは上手く運んだ。連邦議会議員は――キリスト教民主同盟から緑の党に至るまで――法務委員会の提案に従って、民族裁判所の判断が法的効力を持っていないことについて一致した。「法的効力」という言葉をめぐって、長いあいだ争いがあった。そのような法的効力はもうすでになかったのでは、というのが第1の主張であった――それは法務委員会で論じられたものである。つぎに、立法府である連邦議会がそのような事柄を確認できないのでは、というのが第2の主張であった。そして、民族裁判所は――たとえわすかであっても――無罪判決を言い渡したていた、というのが第3の主張であった(法的効力がないならば、その判決も「法的に無効」として位置付けられてしまう)。とくに司法大 臣のハンス・エンゲルハルトは、これらの理由から民族裁判所と特別裁判所の判決を破棄することに反対する意見を述べた。奇妙な反論であったが、法務委員会の構成員は彼によって説得された。このようにして、判決を破棄しないが、判決実務から距離を置き、それに「法的効力」を認めないということで合意に達した。距離を置くというのは象徴的であった。それを明確にする法律はあったかというと――なかった。
連邦議会の決定は、いずれにせよ日常的に行われていた刑事訴追の実務――それはレーゼの無罪判決だけを指しているのではない――に言及していない。天網恢恢疎にして漏らさずであるにもかかわらず、司法の網はそれよりも緩慢にしか働かなかった。ナチの法律家は今ここにいる。彼らがその網の目にかかることはめったにない。
レーゼと他の血塗られた裁判官は、つまり服を着た謀殺者の典型例は、処罰されなかった。特別裁判所や軍事裁判所の多くの裁判官は、いずれにせよ処罰されねばならないと当惑しながらも、不処罰に当惑する者はいなかった。処罰していたならば、雪崩のような現象が起こったに違いない。「民族裁判所判事のレーゼが謀殺をするなどありえない」と、放送ジャーナリストで編集者のイェルク・フリードリヒは書いた。「さもなくば、連邦ドイツの司法は数百人の謀殺者によって支えられてきたことになる。……」。まさにそれが恥ずべき現実であった。
重い責任を負うべき元民族裁判所判事が今再び法を語っている、しばしば重要な地位に立って法を語っている、そのことを煩わしく思う人は明らかにいなかった。
例えば、民族裁判所判事のパウル・ライマース博士は、124件の死刑判決に関わった。オットー・ラーマイヤーは、民族裁判所の訴追官として少なくとも78件の死刑判決に関わった。この二人の執行官は、ラーフェンスブルクの州裁判所に勤務し、1963年まで法文化のために改めて奉仕することが許された。
例えば、民族裁判所の訴追官であったゲアハルト・レーンハルト博士のようなナチの法律家は、少なくとも47件の死刑判決に関与したが、1960年までノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセの上級州裁判所の判事であった。民族裁判所の検察官のヘルムート・イェーガー博士は、少なくとも4件の死刑判決に関わったが、1966年までミュンヘン上級州裁判所の判事を務めた。同じように、民族裁判所の第1検察官のクルト・ナウケ博士は、少なくとも19件の死刑判決に関わったが、後にハノーファーの上級検察官に就任した。民族裁判所の第1検察官兼鑑識係官のヴァルター・レーマーもまた、少なくとも25件の死刑判決に関わった――その中にはレジスタンス・グループの「白バ ラ」に所属していたアレクザンダー・シュモーレルとクルト・フーバー教授に対する死刑判決も含まれていた。レーマーは、ミュンヘン=シュターデルハイム刑務所の死刑執行官でもあった。1944年8月11日付けの彼の執行報告書がある。「死刑囚ヴィルバルト・ブラートル――執行までの時間を正確に計算すると、単独房を出てから1分13秒を要した。執行の委託を受けたレーマー第1検察官(署名)」。戦後、この執行官はストップウォッチを手にしたまま経歴――連邦司法省の課長および部長――をさらに重ねることができた。
ヨハネス・ローレンツ――民族裁判所の州裁判所長――も少なくとも3件の死刑判決に関与した。彼はその経歴を中断することなく、1979年まで西ベルリン高等裁判所判事として法治国家に仕えた。
民族裁判所の訴追官であったエドムント・シュタルクは、少なくとも50件の死刑判決に関与したが、その後同僚のライマースやラーマイヤーと同じように田園風景のラーフェンブルクに職を見つけ、1968年まで州裁判所長として再び法を語ることが許された。ベルリン州裁判所判事で、民族裁判所の上級検察官であり、かつ刑の執行に際して責任者であったパウル・エンマーリヒ博士は、ザーリュブルッケンの州裁判所判事に就任し、その後は退職し年金生活に入った。裁判にかけられた者は1人もいなかった。第三帝国の司法は、以前として未解決な事件である。
ナチ司法に対する無罪判決は、例外的な現象ではなく、原則であった。不法を追認する作業は、ルーティーンワークになった。テロ判決は「法治国家的に観て非難の余地はない」と宣言され、「なおも主張できる」と見られた。無数あるうちの――3つの典型的な事例を紹介する。
カッセル特別裁判所判事は、ある男性に「人種汚辱罪」のかどで死刑を言い渡したが、その判事に対する裁判において、1952年3月28日、カッセル州裁判所は、「その当時の戦局の諸関係を考慮に入れなければならず」、その関係が「あらゆる種類の法違反者に対して感情面での雰囲気を作り出した」ということを持ち出した。「法律の錯誤」は、 その時には主張されなかった。特別裁判所の所長は、1950年に尋問に対して、もう一度自分がなした判決を擁護した。「私が当時言い渡した判決を、私は今日でもなおも堅持します」。裁判所は、彼に同意し、その判決において明確に述べた。「血統保護法の適用は、その当時においては疑う余地がなく適法に行われ」、そして特別裁判所判事が「裁判官職の清廉潔白さを誇るドイツの伝統から逸脱した」とは言えない。判決は無罪であった。
その当時、アメリカ軍がフランケン地方のブレットハイムという小さな村の付近に進駐する数時間前にある事件が発生したが、その真相が1960年4月23日にアンスバッハ州裁判所で究明された。当時は市長とナチ党地方集団指導者は、間近に迫りつつある崩壊に直面していたため、即決裁判所の判事として死刑判決に署名するのを拒否した。彼らは命を犠牲にする対価を払って、それを拒否した。そして2人に対する死刑は遅滞なく執行された。アンスバッハ州裁判所の認定によれば、二人は「義務違反」の行動をした。なぜなら、「両者は被告人に配慮することによって、村の住民の防衛意思とドイツ民族の防衛意思を麻痺させ、堕落させたからである」――これが戦後の法律家が用いた元々の口調であった。結果的は こうである。両者を死刑に処したことに法的に異議を申し立てることはできない――これが戦後の法律家の見解である。
ベルリン州裁判所もまた、1944年7月20日の暗殺者に対する民族裁判所の判決に対して、ほとんど非難を向けなかった。「7月20日のレジスタンス活動家たちは、最小限度の手続上の要件を顧慮することなく、外見的に手続が踏まえられたことをもって死刑に処せられた。このことは、彼らが謀殺されたも同然である」という主張に対して、1971年にベルリンの裁判官は、彼らに対する死刑判決が公判前にすでに決まっていたにもかかわらず、そのような主張は決して裏付けられているとはいえないと評価した。数千件の事例のなかから3件を紹介する。
ナチス・ドイツの時代、1600件を超える死刑判決が平服を着た刑事裁判所によって言い渡され、その3分の2以上が執行された。軍服を着た軍事裁判所は、3万件以上の死刑判決を言い渡した。ドイツ司法史の別の時代と比較するとき、この数字を確認することの意義が明らかになる。1907年から1932年までの期間、ドイツでは合計で1547人の被告人に死刑が言い渡された。そのうち執行されたのは377件であった。
1933年以前までは3種の犯罪にしか死刑は定められていなかったが、1944年には40種を超える犯罪に死刑が科されるようになった。そして、狂信的な裁判官がためらうことなく被告人を死に追いやった。1941年から1945年までだけを見ても、ドイツの刑事裁判所はおよそ1万5千件の死刑判決を言い渡した。そのほとんどが、特別裁判所と民族裁判所によるものであった。
しかしながら、戦争が終わって、死の裁判官には恐れるものなど何もなかった。逆に、ナチ司法に対する裁判手続において、被告人たちは同僚裁判官の特別の感情と理解をあてにすることが許された。言い渡された判決は、戦後の司法にとっては表面的なものであった。「あの当時、適用した法は適用すべき法であった」と正当化したが、その理由が成り立たないにもかかわらず、言い渡された判決はやはり野蛮というには十分であった。
妨害された捜査、気前の良い理解、手ぬるい有罪判決、無数の無罪判決――第三帝国の法律家の行動が問題にされたとき、戦後の司法を特徴づけたのは、このような全ての事柄であった。「違法性の意識の欠如」という公式を用いれば、それが当時のナチの「法擁護者」の身の潔白の証明書になった。彼らが同僚裁判官同士の連帯を計算に入れることができたのは言うまでもない。彼らが持っていた際立った職業上の連帯意識がそれを保障した。彼らの争いを好まない性格は、ほとんどのドイツ人の支持を得た。その限りでいえば、司法は民族よりの判断をした。裁判官が行った犯罪は、刑法によって裁かれなかったの。その理由の一部には、民族の大規模な集団によって心的に押しのけられたことがあった。
歴史健忘症
そして、今日ではどうだろうか――ナチ体制の終焉から70年以上が経ったのだろうか。第三帝国における司法の役割が問題視されるたびに、ているあの当時現場に居合わせた今でも生き残っている者、共同して実行した者、付和随行した者は、言い訳、歪曲、相対化の傾向に陥っている。彼らは、(自己の義務を果たしただけであり、災いがより大きくなるのをしばしば回避した)誠実な保守的法律家と(ナチ時代の司法の諸側面のうち、犯罪的側面だけに責任がある)法服を着たナチの法律家とを区別することに躍起になっている。このような愚かな区別は、「時間のリセット」以降、耐え難いほど重大であった事態を正当化するための出汁に使われるしかなかった。まさに保守的な法律家が「目の前にある法律を法と見做すような粉飾」をこらすことによって、あらゆる法文化が消滅し、そしてナチによって倒錯した状況に置かれることになった条件を作り上げたのである。
事態は依然として当時のままである。第三帝国において司法に従事していた数千人の法律家のうち、確信的なナチは半数以下であった。しかし、ヒトラーの独裁を安定化し、保障したのは、大多数の法律家であった。そのような法律家がナチ国家の要請に応えたにもかかわらず、ヒトラーは司法の成果に決して満足しなかった。
法と司法に対するヒトラーの立場は、根深い嫌悪感によって常に固められていた。その嫌悪感は、法律や裁判所といったものは、彼の行動の範囲を狭めるだけだという危惧に起因していた。しかし、法律家は自らがヒトラー体制の抵抗勢力ではなく、その共同参画者であることを示した。法律と命令は、ナチの時々の気分によって廃止され、効力を持った。それだけでなく、資格の剥奪という厳しい措置がとられたり、屈辱的な目に会わせるなどといったことも行われた。法律家の半数以上は、総統と党に服従した――破局的な最後を迎えるまで。
戦後、不法の遺産を担った者は誰もいなかった――それを担わなければならなかった者がほとんどいなかったからである。ブレーメンの法律家のインゴ・ミュラーが的確に定式化したように、法律家とナチとの共犯関係は、「法律家のところにナチの心情ではなく、ドイツ保守主義の確信があったために、微罪であると過小評価された」。伝説はそのようにして生まれた。「半」レジスタンス活動家がそのように宣伝し、責任ある司法が無罪にされた。歴史健忘症は、全ての職域における認識を特徴づける指標となった。
確かに言えることがある。それは、過去十数年、事態を解明する数多くの書物と研究業績が公表されていることである。それらによって、第三帝国における司法の不可解な役割に関する深くかつ批判的な取り組みが進められている。また、発掘されることなく埋もれたままであったドイツの法的伝統が新しい民主的な法文化を発展させるきっかけになっている。とくに1970年代はそうであった。今日の裁判官の世代は、法治国家の思想によって確固たる基盤に立っている。国家の権威に対して徹底した批判的な観点を備えている。
責任を負うべき者を刑法によって償わせる時代は、過ぎ去った。法服を着た褐色の実行犯のほとんどは、もうこの世にはいない。生き残っている最後の老年者を裁判所に連れ出したところで、戦後司法の怠慢と無能ぶりを埋め合わすことはできない。
従って、我々に課された義務が残されているとすれば、それは次のようなものであろう。ナチの不法な司法――ギュルトナー、ティーラック、フランク、ローテンベルガー、フライスラーなどの名前――を、そして不法な司法を可能にし、それを導いたのが何であったかを記憶することである。(完)
注釈と参考文献
・脱ナチ化に関しては、Entnazifizierung vgl. Wolfgang Benz, Zwischen Hitler und Adenauer, Frankfurt am Main 1991, S. 109ff. Ebenfalls die kenntnisreiche Arbeit von Jörg Friedrich, Die kalte Amnestie, Frankfurt am Main 1988, insbesondere S. 132f. sowie S. 357f.も同様に豊富な知識を提供している。
・ニュルンベルク法律家裁判の解説は次の文献に依拠した。Müller, a. a. O., S. 270ff. sowie Diestelkamp, a. a. O., S. 131ff. 訴追官の引用については、vgl. Müller, S. 272 und 273.
・フリッツ・バウアーの経歴と業績に関しては、vgl. Steinke, Ronen, Fritz Bauer – oder Ausschwitz vor Gericht, München 2013(ローネン・シュタインケ〔本田稔訳〕『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』〔アルファベータブックス、2017年〕).本書は非常に印象深いものである。
・いわゆるワルトハイム裁判に関しては、vgl. den Aufsatz von Falco Werketin, Scheinjustiz in der DDR – Aus den Regieheften der »Waldheimer Prozesse«, in: Kritische Justiz, Heft 3, 1991, S. 330ff. sowie Der Spiegel, Heft 37, 1992, S. 93ff.
・ドイツ民主共和国の司法が党と国家保安省(シュタージ)から影響を置けていたことを再現するものとしてジャーナリストの映画解説が詳しい。 Günther Klein, Der, wer kämpft für das Recht, der hat immer recht. Erstsendung im ZDF am 25. November 1992.
・1947年の法曹会議で行われたエバーハルト・シュミットの演説は、Senfft, a. a. O., S. 172. から引用した。連邦通常裁判所の除幕式に寄せられたデーラーとペーターセンの祝辞については、173頁。アデナウアーの引用は、174頁。
・フィアロン、バルドゥス、シャフホイトレ、カンターなどの経歴について書かれたものとしては、例えば次の文献を見よ。Bernt Engelmann, Deutschland-Report, Göttingen 1991. ドイツ人実行犯の経歴の連続性に関しては、Helmut Ortner, Gnadenlos deutsch, Frankfurt, 2016.
・元民族裁判所陪席判事ハンス=ヨアヒム・レーゼに対する捜査に関する引用は、次のものによる。Müller, a. a. O., S. 281ff. sowie den Ausführungen von Gerhard Meyer, Für immer ehrlos, in Hillermeier, a. a. O., S. 115f. 民族裁判所の法律家に対する捜査の詳細な資料は、次のものに見られる。Jahntz/Kähne, a. a. O., Gerd Denzel, Die Ermittlungsverfahren gegen Richter und Staatsanwälte am Volksgerichtshof seit 1979, in Kritische Justiz, Heft 1/1991, S. 31ff.また、とくに連邦通常裁判所の役割に関しては、Günther Frankenberg/ Franz J. Müller, Juristische Vergangenheitsbewältigung – Der Volksgerichtshof vorm BGH, in Redaktion Kritische Justiz (Hrsg.), Der Unrechts-Staat II, a. a. O., S. 225ff.
・民族裁判所の法律家が無罪にされたことについては、vgl. Walter Boehlich, Ein Ende ohne Schrecken, in Konkret, Heft 12/1968司法省のルッパート・ショルツの引用については、Frankfurter Allgemeine Zeitung vom 23. Oktober 1985 und Der Spiegel vom 27. Oktober 1986(その中にはルドルフ・ランプレヒトの引用がある).
・「民族裁判所」と「特別裁判所」は、ナチの不法体制の道具として特徴づけられたが、ドイツ連邦議会がその判決の無効をテーマにして法務委員会を開催した。その決定勧告は次のものに掲載されている。Drucksache 10/2368 des Deutschen Bundestags, 10. Wahlperiode.
・緑の党会派の連邦議会議員ハンス=クリスチャン・シュトレーベレの重要な質問を参照せよ。Nicht einmal die Zahl der gefällten Todesurteile ist bekannt am 3. und 4. April in der Frankfurter Rundschau dokumentiert wurde.
・平服を着た刑事裁判所と軍服を着た軍事裁判所で言い渡された多くの死刑判決については、Gerhard Fieberg, Justiz im nationalsozialistischen Deutschland, Köln 1984, S. 54. 在野の研究者のフリッツ・ヴュルナーは、事実に即した研究によって、ナチの軍事裁判所の歴史資料を整理し、フィーベルクに対して印象的な反論を向けている。
・ヴュるナーは、その著書で死刑判決の件数(1万という「奇妙な数字」ではなく、3万以上である)と訂正している。Die NS-Militärjustiz und das Elend der Geschichtsschreibung, Baden-Baden 1991.
・Ingo Müller vgl. a. a. O., S. 295f.からの引用。
解説
1.本稿について
本稿「Helmut Ortner, Keine Stunde Null-- Warum NS-Juristen in Deutschland straffrei ausgingen - und fast alle damit einverstanden waren」は、2017年12月17日(日)に東京でヘルムート・オルトナー氏が行った講演「現前する過去、記憶する義務」を大幅に加筆したものである。
2017年12月17日、刑事司法及び少年司法に関する教育・学術研究推進センターは、第5回講演会「司法の戦後責任――ドイツと日本の比較」を企画した。日本側からは広渡清吾氏(東大名誉教授)が「日本とドイツはどのように違うか――『過去』と『現在』のかかわり」といテーマで報告し、ドイツ側からはヘルムート・オルトナー氏が「現前する過去、記憶する義務」というテーマで報告した。オルトナー氏は、この企画において、戦後ドイツ社会が取り組んできた過去の克服とその記憶について説明したが、戦前の戦争と人権侵害に対して戦後の司法がどのように取り組んできたのかという点については、時間の関係から十分に説明することができなかった。 講演後、 本田が通訳の方を介して、司法の戦後責任に関するオルトナー氏の見解を知りたいと申し出たところ、その点に関して数年前に発表した文章を加筆・補正したものを公表することができるとの返事をいただいた。それが本稿である。
2.オルトナー氏の経歴について
ヘルムート・オルトナー氏は、1950年、ドイツのゲンドルフに生まれ、オッヘンバッハ・アム・マイン造形大学、ダルムシュタット専門単科大学において教育社会学と犯罪学を専攻し、1978年以降、ジャーナリスト・著述者として、また多くの専門誌の編集者として数多くの著作を発表してきた。『ヒトラー暗殺未遂犯』は10を超える国・言語で翻訳され、世界的に読まれている。また、近年発表された『ヒトラーの裁判官 フライスラー』が日本語訳され、日本の論壇でも注目され始めている。現在、フランクフルト・アム・マインに在住し、主としてドイツの歴史認識と過去の記憶というテーマでナチ時代の司法の問題を中心に取材と執筆活動を行っている。今回の日本での公演は、ヘルムート・オルトナー(須藤正美訳)『ヒトラーの裁判官』(白水社、2017年)の出版がきっかけとなって企画され、講演の通訳はその翻訳者である須藤正美氏によって行われた。須藤氏が本田の意思をオルトナー氏に正確に伝えてくれたことに記して感謝する。
3.本稿の意義について
本稿の表題にある「Stunde Null」とは、1945年5月8日にナチス・ドイツが連合国に降伏した瞬間を指す。つまり、戦前が終わり、戦後が始まった瞬間、戦争が終わり、平和が訪れた時点、ナチスのレジームが崩壊し、新たな時代が始まった瞬間である。戦争と独裁、抑圧と差別の時代と決別し、平和と民主主義、自由と平等の時代が始まった時代を象徴する言葉として、ドイツ歴史学や公法学では「Stunde Null」(零時)という言葉が多用されている。戦後の歩みは、時代がリセットされ、新たな時代が始まった「零時」から時を刻み始めている。
オルトナー氏は、その言葉に「Kein(e)」(~~はない)という否定の冠詞をつけ、そのような歴史認識に疑問を投げかけている。戦争が終わり、戦前の歴史が幕を閉じたのは事実である。それを否定する者はいない。しかし、戦前が終わったからといって、それで戦後が始まったといえるのか。戦争の前後において両者を分け隔てる「零」の時間帯があるとしても、その時間は自然の時間のように無条件に進行しないのではないか。歴史の時計の針は止まったままではないのか。その証拠に、ナチスの法律家は戦後のドイツにおいて無罪放免にされているではないか、司法界、法曹界、法学界もそのことを疑問視していないではないか。オルトナー氏は、本稿の副題において、そのような辛辣な問題を提 起している。
元ナチの法律家に無罪の判決言い渡したのは、どのような裁判官だったのか。それは、戦前から戦後にかけて、ナチ時代から連邦共和国にかけて、司法省、裁判所・検事局の高位の官職についていた法律であった。戦前が終わり、戦後が始まった。ナチスのレジームは崩壊し、新たな政治体制が確立した。それは事実である。しかし、ドイツ司法の基本構造、とくに人的支配構造はほとんど変わっていない。その意味において、戦後ドイツ司法はリセットされなかった。「零時」はなかった。戦前のドイツ司法は終わったが、戦後のそれは始まっていない。これがオルトナー氏の主張の核心である。
4.オルトナー論文の掲載について
このようなオルトナー氏の主張は、ドイツでは必ずしも多数派の意見ではないかもしれない。しかし、外務省の戦後史の研究に端を発し、2013年以降、ドイツ連邦司法省(ハイコ・マース元連邦司法大臣・現外務大臣)によって戦後司法省に関する研究が進められている。その中で、とくに1950年代・60年代の司法省内部の人的連続性の実態が史料から明らかにされ始めている。それによって、安楽死やホロコーストに関与したナチの法律家が戦後のドイツで無罪放免にされた理由、それを可能にした人的背景が明らかにされている。その意味でオルトナー氏の主張は、ジャーナリストとしての批判的な視点から、ドイツにおける刑事司法史の研究と同じ方向性を示しているといえる。それは、日本のみならず、非ドイツ語圏の国々においても議論するに値するものである(戦後外務省の研究は、Eckart Conze, Norbert Frei, Peter Heynes und Moshe Zimmermann, DAS AMT UND DIE VERGANGENHEIT, 2000.〔エッカルト・コンツェ/ノルベルト・フライ/ペーター・ヘイズ/モシュ・ツィンマーマン[稲川照芳/足立ラーペ/手塚和彰訳]『ドイツ外務省〈過去と罪〉第三帝国から連邦共和国体制下の外務官言行録』(えにし書房、2018)。戦後連邦司法省の研究は、Manfred Görtenmaker / Christoph Saffering, Die Akte Rosenburg, 2916.なお、近年のドイツ連邦司法省の取組に関しては、ハイコ・マース(本田稔訳)「フリッツ・バウアー 『昨日の英雄。それは今日のためにいる』」立命館法学373号〔2017年〕487頁以下、ハイコ・マース(本田稔訳)「ローゼンブルクの記録」立命館法学374号〔2017年〕386頁以下を参照されたい)。
このようなオルトナー氏の論稿をそのままの形で日本の法学会誌に掲載する(さらには日本語訳をする)ことは、司法の戦後責任の問題を日本国内外において議論する重要なきっかけになることは明らかである。また、氏のような司法史研究をしている他の研究者などとの交流の輪を広げる機会にもなりうるであろう。龍谷大学は、2017年12月にヘルムート・オルトナー氏を招いて講演会を開催した数少ない大学の1つである。本稿を掲載できる専門誌は様々ありうるが、その場所として最も相応しいのは、すでにオルトナー氏との交流を進めている「龍谷法学」を置いて他にない。龍谷大学法学会および「龍谷法学」編集委員会が、非会員の手による本稿の日本語訳の掲載を許諾していただいたことに深く感謝する次第である。(2018年5月1日脱稿)