≪ 2015・6・20 掲載記事 ≫
95歳の御高齢になっても、祝福したくても、直接出来ない今の状況の、原節子こと、會田昌江おばあちゃん。
「離れ」、はたまた、「施設」。
どちらにいるにしても、自分が一体誰なのか? 分からなくなくなっている可能性も、捨てきれない。
かつてなら、足も腰も、元気に動いた。
裏の木戸を開け、左の写真にある小路を歩き、好きなタバコを自分で買いに行った。
この自動販売機で買ったり、ワンカートン欲しければ、雑貨店に入り、同年代の女性と、世間話を交わしながら、購入。
そして、トコトコと離れに帰って行った。
実の姉の命日には、高台に位置するお墓まで、よいしょ、よいしょと昇り詰め、下の写真のように開けた絶景を、しばし、一息ついて、ながめたことであろう。
紅葉のシーズンには、色鮮やかな木々と葉が拡がり、いつも行っては、わたしはため息をつくほど見つめた。会えぬ、むなしい想いも薄れたものだ。
また一方で、雪景色も素晴らしかった。
足腰が衰え始めた頃には、この車庫から車が出てきた。後部座席には、會田昌江の姿があった。
外出には、車が欠かせなかった。時には、甥の息子が運転し、元女優をなごませた。
それが・・・・・・・月日は流れて・・・・・・
改めて、連絡を入れた。
誕生日の翌日には、お見舞いに行ったフシが見られる。
---17日は、會田さんの誕生日でしたが、御存じでしたか?
「・・・・・もちろん、知ってますよ」
「大丈夫ですよ」
---大変失礼なことをお聞きしますが、もし、もしもですよ、會田さんが、お亡くなりになった時には、マスコミにはどのように、伝えるおつもりですか? それとも、まったく伝えないままに終わらせるかも?と
「そんなこと、まったく考えていません。私たちが、先に逝くかもしれないし」
う~ん・・・・・・
どこかが、抜く、カタチになりそうだ
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この記事の、2か月半後
2015年9月5日
昭和の大女優、原節子は、神奈川県内の病室で、肺炎をこじらせ、95歳の命を閉じた。
だが・・・・・・・・・・・・
それが、公に知らされたのは、その80日後
11月25日であった
やっぱり、か・・・・・・・・・・・・・・