今や定着したダンサーの個人ブログ。
その草分け的存在?だった東京バレエ団のバレリーナ、井脇幸江さんの公式ブログ。
ダンサー生活しながら個人ブログで自分や周囲の報告をするのは、大変だろうと思うけど、見る側にとっては、いい情報提供の場になっている。
ところが、今度しばらく団の公演を休演されるという趣旨のことが書いてあって、ちょっとびっくり、というか、ふうん、というか。
もちろん個人生活の都合とか、観客の預かり知らない、ダンサーさん個々の想いはあるのだろうし、それはそれで尊重されるべきだけど。
だから、場を離れた、ただの観客の感想に過ぎないけど・・・。
私的には、井脇さんの最近の舞台には、色々と感動を覚えていた。
東京バレエ団の名脇役バレリーナ・井脇幸江さんについては、私も随分昔から、東京バレエ団の公演でよく拝見していた。
最初に覚えてるのは、ジゼルのミルタ役とか、眠りのカラボス役とか。
たとえばギエム客演公演とか、スターを主役にした日の脇役で、何度となく見た。
この方に限らないのだけど、一人のダンサーを見続けると、見る側も、発見も学ぶことも多くある。
実はどんなダンサーにも、いや、たいていのダンサーには、才能の一つや二つはある。そして、踊り続けること、役を貰うこと、主役を貰うことも含め、いいポジションにつけること、そして舞台に立ち続けることで、アーティストは多くを得ていく。舞台のエネルギーを吸収し、成長していく。
同じダンサーでも、変化してゆく。私たち観客には、それを見るのもまた、楽しい。
井脇さんの近年の舞台から受けた感動を今ここにすぐに列挙することはできないのだけれど、井脇さんにも、ギエムにも、「舞台に立ち続けることによってダンサーは変わっていく」という同じ感想を持った。
今回のギエムのボレロを私は見ていないが、見た人はあれこれ言っていた。
すでに、以前のブームのファン層の熱狂が冷めつつあるギエム。
舞台に立ち続けることによって彼女が得たものが、今の、彼女についての鎮静の時代の、今回の舞台には出ていたことだろうと思った。
ブーム渦中でない、鎮静の中での、ひたひたとした感動。
それは、以前の「ギエム神話」の熱狂とは全く別次元の、一人の舞台の踊り手が地道に愚直に舞台に立ち続けることによって得たもの、その成果を披露し、判る人はわかる、という類いの感動ではないかと、知人の話から想像した。
もうバレエの世界は、ギエム神話からは解放されていいんじゃないだろうか。
かつてギエムでバレエファンになった顔見知りは、数年前、ギエムもさすがに老けたといっていた。熱狂の時に愛してくれるファンと、その後の円熟の時期に認めてくれる人というのは、必ずしも同じでなくてもいいのだと思った。
芸術に求めるものは、それぞれ違うのだから。
その草分け的存在?だった東京バレエ団のバレリーナ、井脇幸江さんの公式ブログ。
ダンサー生活しながら個人ブログで自分や周囲の報告をするのは、大変だろうと思うけど、見る側にとっては、いい情報提供の場になっている。
ところが、今度しばらく団の公演を休演されるという趣旨のことが書いてあって、ちょっとびっくり、というか、ふうん、というか。
もちろん個人生活の都合とか、観客の預かり知らない、ダンサーさん個々の想いはあるのだろうし、それはそれで尊重されるべきだけど。
だから、場を離れた、ただの観客の感想に過ぎないけど・・・。
私的には、井脇さんの最近の舞台には、色々と感動を覚えていた。
東京バレエ団の名脇役バレリーナ・井脇幸江さんについては、私も随分昔から、東京バレエ団の公演でよく拝見していた。
最初に覚えてるのは、ジゼルのミルタ役とか、眠りのカラボス役とか。
たとえばギエム客演公演とか、スターを主役にした日の脇役で、何度となく見た。
この方に限らないのだけど、一人のダンサーを見続けると、見る側も、発見も学ぶことも多くある。
実はどんなダンサーにも、いや、たいていのダンサーには、才能の一つや二つはある。そして、踊り続けること、役を貰うこと、主役を貰うことも含め、いいポジションにつけること、そして舞台に立ち続けることで、アーティストは多くを得ていく。舞台のエネルギーを吸収し、成長していく。
同じダンサーでも、変化してゆく。私たち観客には、それを見るのもまた、楽しい。
井脇さんの近年の舞台から受けた感動を今ここにすぐに列挙することはできないのだけれど、井脇さんにも、ギエムにも、「舞台に立ち続けることによってダンサーは変わっていく」という同じ感想を持った。
今回のギエムのボレロを私は見ていないが、見た人はあれこれ言っていた。
すでに、以前のブームのファン層の熱狂が冷めつつあるギエム。
舞台に立ち続けることによって彼女が得たものが、今の、彼女についての鎮静の時代の、今回の舞台には出ていたことだろうと思った。
ブーム渦中でない、鎮静の中での、ひたひたとした感動。
それは、以前の「ギエム神話」の熱狂とは全く別次元の、一人の舞台の踊り手が地道に愚直に舞台に立ち続けることによって得たもの、その成果を披露し、判る人はわかる、という類いの感動ではないかと、知人の話から想像した。
もうバレエの世界は、ギエム神話からは解放されていいんじゃないだろうか。
かつてギエムでバレエファンになった顔見知りは、数年前、ギエムもさすがに老けたといっていた。熱狂の時に愛してくれるファンと、その後の円熟の時期に認めてくれる人というのは、必ずしも同じでなくてもいいのだと思った。
芸術に求めるものは、それぞれ違うのだから。