懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

アロンソ版「カルメン」その2、チェルノブロフキナ

2006-09-03 20:35:41 | バレエ
2.チェルノブロフキナのカルメン 前半

2004年7月東京、当時プリセツカヤに、この役を踊ることを許された数少ないプリマの一人、タチアナ・チェルノブロフキナがモスクワ・クラシックバレエの群舞に客演の形で、この役を披露した。

宣伝ポスターは、カルメン姿の彼女が、不敵な笑みで挑発ポーズをとる魅力的なものだった。しかしあまり撒かれていなかった。宣伝費もかけていないためか、客席には空席エリアもあり、見ていない人も多いと思う。で、以下配役を記載。

ゴールデンバレエofロシア「カルメン組曲」公演(ほか併演あり)

振付:アルベルト・アロンソ
音楽:ビゼー、(編曲:ロディオン・シチェドリン)

カルメン:タチアナ・チェルノブロフキナ
ホセ:ドミトリー・ザバブーリン
エスカミーリョ:ゲオルギー・スミレンスキー
運命(牛):ナタリア・クラピーヴィナ
隊長:イオン・クローシュ(この人だけモスクワ・クラシックバレエ団、ほかの4人は、モスクワ音楽劇場バレエ団)

パルテノン多摩,公演初日。

幕開きは、舞台後方上に、牛の絵の大きな垂れ幕に真っ赤な照明。
舞台中央にカルメンが悠然と構え、客席を自信たっぷりに見ている。黒のレオタードの衣装。音楽前奏高まって、客席からの視線がカルメンに集中し、カルメンが艶然とねめ返し、その頂点でカルメンが片手を上にあげ、ポーズをバシーッとキメる。
途端に、ビゼー「カルメン」の音楽が高らかに鳴り渡り、プリマが自在に踊りだす。

この冒頭数秒だけで、カルメンは観客の心をわし掴みにしてしまった。

タチアナ・チェルノブロフキナ、セクシーダイナマイト!

まず、顔が美人でゴールデンプロポーション、手足や首の長さはバレリーナの美しさ。でも胴部分はグラビアアイドルのようなスタイルの良さ。こんな人が、サラサラ動くふち飾りのついたレースのスカーフを軽く腰に巻き、踊る度太腿をチラチラさせる黒のレオタード姿で出てくる・・。(これってほとんど反則じゃないでしょーか。)まさにカルメン!

この大輪の花ようなプリマが、トゥで立ち、片脚を高く上げ両手で持つポーズを、音に乗ってシャープに決めると、長い脚がまた美しいこと!踊りが巧い上に、ワンポーズ、ワンポーズを、これ以上ない位見事な位置に、美しくかっこよく決めてゆく。

プリセツカヤのアロンソ版カルメンには、重いテーマの他に、「スターのプリセツカヤを見せる」という特性がある。
冒頭の決めシーン、視線の集め方、ねめ返し方、最初の1ポーズの決め方、そのスターオーラの強烈さ、これだけは、プリセツカヤはチェルノブロフキナにはるかに勝っていた。プリセツカヤのための作品なので、彼女の得意な振付になるので、当然だが。

チェルノブロフキナも、冒頭のオーラは現役プリマでは最高。(プリセツカヤがコーチしてたし)
加えて容姿が役にあっている。ただ、欲を言えば、もっと冒頭のオーラはあっていい。プリセツカヤのが一回見ると忘れられない。

でも、そこから先は、チェルノブロフキナの独壇場だった。

美しくセクシーな容姿に加え、踊りの技術は、若いチェルノブロフキナがプリセツカヤより音もとりやすいし、自在に動ける。今日までに何人かがこの役を踊るのを見たが、舞踊技術、振り付けをシャープに決めるべきときは決め、自在に音をとって踊ること、各ポーズをもっとも美しい位置に決める、といった意味で、この版を技術的にもっとも巧く踊っているのは、チェルノブロフキナだと思う。

世界バレエフェスティバルのステパネンコは、悪くはないが、踊りが流れていた。

というわけで、この反則なまでの美女は、舞踊的には完璧なので、細かい振付の話は割愛する。後は表現のこと。このチェルノブロフキナは、演技力は女優バレリーナといわれていて申し分ない。ただ、役作りは・・。

見た目は堪らない美女・カルメン。でも性格はかなり悪い。中身だけなら酷い女に見える。対するホセ役のザバブーリンは、長身で脚は長いが、凡庸な青年に見える。女の子に騒がれそうな雰囲気もなく、どんくさく真面目そうで、まるでカルメンとは釣り合わない。

プリセツカヤの相手役ホセは、いつもいい男がやっていた。ザバブーリンの個性がこの日の「カルメン」の方向を決定づけた。「釣り合わない男と女」

とても性格が悪く、それでも男は惚れてしまう、という夢のような物語設定に、チェルノブロフキナのパーフェクトビューティーっぷりは、現実感を与えていた。

それにしてもカルメンが、勝ち誇ったような表情でホセを誘惑する動機が分からない。ホセに男性として惹かれているようにはまるで見えない。ホセが魅力に乏しいからだ。それで、カルメンはホセを好きでもないのに気を引いて、男が自分の魅力に参ってしまうのを、楽しんでるように見えた。ううむ、中身はかなりやな女に見える・・・。

現実的で堅実なザバブーリンのホセは、最初、カルメンの軽い誘惑を受け入れない。カルメンがにっこり笑って美脚を見せ付け、足先で投げキッスのようにふっとホセの方に秋波を送っても、自分の魅力に自信たっぷりな女が半分からかってるようにも、小ばかにしてるようにさえ見える。ホセは「そんなものは僕は欲しくないんだ」というように顔を背ける。ホセはカルメンが欲しいので、抱きたいので、からかって足先の投げキッスくらいでは、というわけだろうか。

では、とカルメンは、ホセに誘惑をしかける。

プリセツカヤは、カルメンをプリマに指導する際、衛星放送で放映された映像によると、「もっとアグレッシブに!攻撃的に!」と強く煽っていた。そのためチェルノブロフキナも登場からしばらくは、いつも不敵で勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。挑戦的で強い目線。

それが、中盤、ちょっと雰囲気が和らぎ、カルメンの誘惑に刺激されながら応じるのを迷うホセを誘う時。

「まあまあ、そんな難しく考えなさんなよ」とでもいうような、肩の力を抜いたムードになった一瞬、このプリマ本来の個性、甘さや愛嬌が際立った。椅子に座ったホセの背後から両手の人差し指で、「つん!」とホセの肩をつつくと、ドッキリしたホセの全身を貫く甘い痺れが、見る側にも伝わってくる。カルメンは時々、こんな風にちょっとホセの体をさわるところがあって・・・。そうかと思うと、笑顔。か~わいい顔して笑う、(笑顔がカワイイ)この女性。気まぐれなのか、本気なのか・・・。

堅実なホセは、彼女の本気度を測りつつも、段々にその気になってきて、ついに二人はホセがカルメンを高くリフトし、愛の高揚を高らかに歌い上げる「花の歌」曲のパートのアダージョ、ラスト音楽高まってホセがカルメンを抱き上げる。これで二人に一瞬愛が通ったのか?つい、気を許して感動してしまう。

ところで話は前後するが、カルメンの色仕掛け。

最初の方で、カルメンがホセの手をぐいっと掴んで、わざと自分の大きな胸をぐいぐいぐいっと触らせてウフフと笑い、中盤、闘牛士エスカミーリョの手をカルメンが掴んで、自分の太ももをズイズイズイッと触らせフフフと笑い、・・ってな調子。

これを初日見たときは私も驚き。え~っ、プリセツカヤのカルメンに、こんな振付あったっけ~!

あとで手持ちビデオで調べたら、あった、あった。胸触らせるシーンの方は。でもプリセツカヤの方はそのシーン全く印象に残らず、色気より「闘うカルメン」の鮮烈な生き様の勝ったカルメン。
(演技もタチアナさんと違って偶然を装って、あ、間違って胸に手がいっちゃった、ととぼけて誘惑してるような上手な演技。チェルノブロフキナのは、はっきりやってたから、よほどカルメンに魅力がないと、ホセから見てわざとらしくて気持ちが引けてしまう。)

舞台は広いので客席から見てこの演技、タチアナさん位胸の大きいプリマが望ましく、あんまりない人がやると、芝居として効かないでしょー。

特にこの日は、私が劇場行ったら、なんと席が最前列中央だった!あのレオタードのプリマが、この芝居を眼前で・・。

それで、
”え~、なにこれ、R指定?!”
みたいな気分に。チェルノブロフキナのカルメンが、平気な顔して確信犯のように、こ~ゆ~芝居をするので。

いや~、こ~れ~はっ、男に、こーゆーことしちゃ、いかんでしょう~。反則です、この誘惑行為はっ。

それで、あわれザバブーリンのホセは、最初抵抗したにもかかわらず、カルメンの意のままに。

このあたりから、見てるこっちはもう、カルメンよりホセがかわいそうで、タイトル「ホセ」に変更したいくらいだった。
こんな誘惑で恋してはいけない美女・カルメンに幻惑されてしまったホセの、切ないソロの踊りこそ、私的にはこの日の白眉。長く心に残った。

世界バレエフェスでよく踊られるプティ版「カルメン」の、今回もアレッサンドラ・フェリ、ロバート・テューズリー二人によって踊られたアダージョの曲の所が、アロンソ版ではホセのソロとして踊られる。

世界バレエフェスでアロンソ版を踊ったメルクリエフは代役。なのでこのパートの作品の印象が残った人はないと思う。ビデオのプリセツカヤのイケメン相手役ですら、ここの印象はそこそこ。かつてホセ役を踊ったガリムーリンも同様。

有名でもないザバブーリンが、私の見た中で一番見事にここを踊った。
「カルメンしか欲しくない」。
ビゼーの名曲の中、大きく広げられた両腕、長い脚のハーフトゥのアラベスクのポーズ。恋してはいけない美女をどうしようもなく愛してしまったホセの切ない想いが伝わってくる。3日目ゆうぽうと公演では見ていて泣けてしまった。

そう、結局感情移入できたのはホセ。主人公はホセのようだった。でも、このホセに矛盾に満ちた感情が引き起こるのは、カルメンが振るいつきたくなるような美女のせい。チェルノブロフキナのカルメンは究極のファムファタルだった。およそ舞台芸術で、私があれ以上のファムファタル役を見ることは二度とないだろう。

いわば、美貌の無駄使い、のようなカルメン。無軌道で無目的で、何のためにホセを、またエスカミーリョを誘惑するのかよく分らない。いつも人生の勝利者のように勝ち誇っていて、そのくせあっけなく殺されてしまう。

馥郁たるその美貌ゆえ、その無意味さが切ない。

でも何だかこのカルメン、ロシア人が演じているのに、まるで・・例えば少し前の東京の若い女の子の話のようだとも思った。そのリアルさゆえ、いっそう切なかった。
あの若い美女には、本当の愛がない。

東京で、キレイで、でもそれを道具に使い、セックスも男をいいように使う道具のようで、本当の快楽も知らない、そういう若い女の子と釣られるバブリーな男をイメージできる時代もあった。奔放もしくは自堕落に生き、無目的な生を生き、未だ人生の意味を知らずといったような・・・。若く怖いもの知らずで、死をも恐れない。

長くなったので一たん切ります。






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アロンソ版「カルメン」その1、プリセツカヤ

2006-09-03 16:46:27 | バレエ
やっと「懐かしの」というタイトルを裏切らない内容に。

遡る事2年前、2004年7月、美女カルメン、IN 東京のお話。
その前に。

1.プリセツカヤのカルメン
ここで言うアロンソ版「カルメン」は、元は、当時ソ連国立ボリショイバレエのプリマだったマイヤ・プリセツカヤのために振付られた。
彼女のカルメンは、私も昔ビデオで見て、その時は強烈な印象を受けた。

「カルメン」は、改めて原作を読むと、巷のカルメンのイメージと原作自体が、そもそもズレがあると気付く。時代の感性に制約された一人の作家の想像力の産物に過ぎなかったものが、時代を超え人々の集団的想像力の中で、より自由で魅惑的なものに、変貌を遂げたのではないかと、思っている。

今、「カルメン」の一般的なイメージといったらどうだろうか。おおざっぱには、
「自由で奔放なラテン系の女」「情熱的な恋をするジプシーのいい女」といったところだろうか。

プリセツカヤの「カルメン」は、このオーソドックスなカルメン像と異なり、彼女の個性を優先した独創的なものだ。両者に共通するのは、火のような激しい生き様である。舞台全体の印象も、炎が燃え盛っていたような、激しさと緊張感が残った。

両者の相違は、プリセツカヤのは「恋」よりも生の闘争に力点がシフトされているということだ。プリセツカヤには、この作品に限らず、自己表現の希求が常にあった。

アロンソ版プリセツカヤの「カルメン」は、色っぽいイイ女というよりも自由を希求する女闘士のイメージである。振付もプティ版に比べ、硬質で直線的。

今の時代にアナクロなソ連の体制批判をやるつもりは、毛頭ない。自分が闘ってもいない人間が、安全圏から過去の他国の批判をやるには、私は勉強不足である。10年以上前、感銘を受けたプリセツカヤについても、彼女が得た名声に上乗せする称賛をやるほど、私も暇ではない。

そうでなく客観的な話として、アロンソ版は、元々は「生の闘争」「自由の希求」という重いテーマを持ったものだという、作品理解は踏まえておきたい。今名声に包まれて、80歳を過ぎ手をふる踊りでルジマートフらのガラコンサートに出演していたプリセツカヤと、初演当時、亡命をせず、ソ連の体制の中で自分の表現を追及したプリセツカヤとでは、表現者として存在も立場も違う。

アロンソ版カルメンのテーマ、闘争と自由の希求とを、表層的に抽象的に捕らえるのもひとつの行き方だが、プリセツカヤが、作品の一部に暗にこめた意味は、彼女自身の生き様と重なって苛烈であり、それを知って鑑賞するのも芸術の本来の意義に通じると思う。

でもね、結構重くてシビアです。
たとえば、カルメンがぐるりと囲いのある闘牛場の中のイメージの装置の場所で、一部闘牛の振りも入る踊りの中で殺されるのは・・。
マイヤ談「愚かな群衆が、カルメンが殺されるのを喜んで見ている」というような理解になるらしいです。

それは、もちろん、権力との軋轢の中で、実のところ民衆はマイヤの味方ではなく、権力がマイヤの芸術を封じるのを拍手喝采し見世物のように眺めている、そんな風に彼女には感じられたのかもしれない。

でも、その民衆とは、私も入るんですよね。
たしかに、衆愚って言葉はあって、民衆とは権力にマニュピュレートされる存在っていえばいえるし、そういう現実は今でも自分のまわりにころがってるわけだけど。

でも、マイヤみたいに、「愚かな群衆」って、スパーッと切れないですね、私は。
もちろん闘っていたころの彼女を評価するにやぶさかでないけれども。

マイヤの現実の問題は、置くとして、初演者の役の解釈としては、このあたりは踏まえておきたいです。今回、堅い話で、つまんなかったらすいません、次回は色っぽくいきます。




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