懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

チェルノブロフキナの「カルメン」 後半

2006-09-20 18:46:46 | バレエ
3. チェルノブロフキナのカルメン 後半
       ~美女とダメンズ二人の顛末

何だか、遠い昔の異国の話というより、”無為に生きる東京の若い女の子”みたいに見えてきた、
チェルノブロフキナのカルメンと、ダサいザバブーリンのホセ。

一瞬は愛し合ったように抱きあうシーン、のあと。

カルメンは、手のひら返すように、ホセからエスカミーリョに関心を移す。
なんでだろ~~~。

この、エスカミーリョ役、プリセツカヤとボリショイバレエ団では、例えばセルゲイ・ラドチェンコらがやっていた。ほんとは、イケメンの役。

(ラドチェンコは漫画家の山岸涼子さんが、一目観て夢中になり、主役プリセツカヤそっちのけで「ラッチェンコ~~!」と客席から叫んでいたというから、その当時客席から見てたら、役に合った色っぽい人だったんでしょうね。脇役も適役の舞台に憧れ。)

で、この日の舞台のエスカミーリョ役は、別にかっこよくもない(かっこ悪くもないけど)ゲオルギー・スミレンスキー。
(いや、友人で約一名カッコいいと言ってたのがいた。)

踊りも上手くも下手でもない。ほんとはここでもっと色男の闘牛士が出た方が、演出上好ましい。

が、しかし妙にこの日の組み合わせに馴染んだ。

今日の舞台は、”美女とダメンズ二人”。(男性キャストがもっとよければ、美女を取り合ういい男2人、ってなるのか?。もっとも原作のホセは、別にいい男には見えないが。)

ザバブーのホセが、イジイジしていて地味な男。対し、このエスカミーリョは、”大したことないのに勘違いしてる青年”に見えた。その分、明るい。

カルメンとエスカミーリョ、二人の踊りで、意味深に、脚と脚を絡ませる振り。
色っぽいカルメンの妖しい誘惑に、カッと体に心に火がつくエスカミーリョ。

「そっか~、やっぱり俺のこと好きなのか~。オレってホントにいい男だもんな!」ってな感じ。
エスカミーリョ、自信たっぷり。そして、単純!!!

いる、いる、こ~いうタイプ!。
カルメンだけでなく、この軽佻浮薄な闘牛士も、少し前、東京に時々いた男たちみたい。
これってほんとにロシア人がやってるの?

客席から見ていると、この美女カルメンと、どうでもい~よ~な闘牛士の男が、・・釣り合うようにはゴメン見えない。
だが男は、自分はかっこいい、と信じてる。(個人的には誰かを思い出す・・・って、え?)

虚構としてなら、ラドチェンコみたいのがキャストされた方が、見て楽しめると思う。
でも、今の東京に、この男女、こんな感じの人っているかも?!?、と思うと。

そんな、”イケメンというより勘違い加減が役に合ってた”エスカミーリョ。
そしてまた、イジイジしてカルメンの真意を図りかねてたザバブーリンのホセよりも、エスカミ-リョの方が、誘惑にカッと燃える所が、お年頃の青年らしさが滲んで納得。

「どこかにいそうな青年像」が、虚構をリアルに見せていた。


時に私は、なんでカルメンが心変わりしたのか、よく知らない。

(プリセツカヤの解釈では、「カルメンがエスカミーリョに関心を持つのは、最初、エスカミーリョがカルメンに興味を示さないからだ」と言っていた。しかし、このモスクワ組は、そんな細かいことは考えてなさそう。)

心変わりしたカルメンは、ホセには、手のひらを返すように冷たい。(よくわからん女だ。)

怒りのホセが、赤いシャツに黒タイツで大きくジャンプしてカルメンとエスカミーリョの踊りに割って入る、ホセ、前半の衣装は青の上着。青は青春や、ホセの真面目さの表象か。そして後半の衣装の赤は、怒りと嫉妬の炎か。

この後、この版は本当は、黒いタイツの「運命」役や、「隊長」らが、舞台全体を支配する重苦しい運命を表現したり、次場面の殺人の「予行演習(?)」のような、リアリスティックではない実験的な場面もある。

が、このモスクワ組の『カルメン』は、「運命」役の女性の個性が、硬質な役に合わず(優美なダンサーだった)、モスクワ・クラシックの群舞が不出来で、その為、総じて主要な3人の男女の恋愛劇が、際立った。

カルメンは、怒るホセに毅然と応じる。
二人が結ばれるシーンより、後半ホセをカルメンが疎ましく思うシーンの方が、観ていて説得力があった。

すがるホセは、カルメン視点で、確かにうざい男に見える。
振られたホセは、ふらふらと「運命」もしくは「牛」という名の役の黒子のような女性に操られるまま、カルメンを刺す。

このシーン、ナイフを使っていないのに、「ナイフが見えた!」と錯覚した。見事な演技。小道具がなくても芝居ができる。

そして、ホセに腹を刺されたカルメンが、驚いたようにホセを見、その顔を手で優しく撫でた一瞬の表情。

「ばかね、あんたったらあたしのこと、そんなに好きだったの?」
とでもいうように見えた。向こう見ずで何をも恐れないカルメンの、一瞬の優しさ。涙が出そうだった。

このカルメンは最後の最後まで、つっぱった女だった。最後に、腰に両手を当てて立ち見得を切るような、得意のかっこつけポーズを決め、そしてぐにゃりと体を折り、ホセの腕の中に倒れ地に伏した。最後まで自分を貫き、あっけなく死んだ。すべてを失い呆然と立ち尽くすホセこそが、哀れでならなかった。

若い女の子には、確かにこんな時期がある。
若くてきれいでなにもかも自分の思い通りになって、それで、さほど欲しいものもなく、命にもそんなに執着しない。誇りも高い。

けれどプリセツカヤのカルメンには、「自由の希求」、自由のためなら死も辞さないというテーマがあった。それに比べチェルノブロフキナのカルメンは、テーマの点でもう一つ突き抜けたものが見えてこない。プリセツカヤのカルメンを凌駕する魅力があるだけに惜しまれた。

もし、・・・例えば最後の瞬間、無軌道無目的に生きた愛を知らないカルメンが、ホセに刺され命を失う一瞬、つかのま真実の愛に目ざめる、そして命の火が消えるという表現にしたら・・・。ずっと味わい深く感動的なものになるのではないか?

2年前より時代の価値観はさらに混沌としているように私には見える。今思えば、あれはあれで現代的なのか・・・。

難癖つけてる割には、私もホセとともにこの魅惑的なカルメンに参ってしまい、2日目公演以下、全4公演、すべて行ってしまった。

ホセの心でカルメンを追った4公演!

手放しで絶賛する気はない。どこか中身が足りないと、美貌の無駄使いなカルメンに反発しながら、

それでも。今も心は魅了されて止まない。


4.補足
<カルメンの気に入らなかった所、気になった所>
・カルメンがホセを本当に好きなように見えない。なのに誘惑する。
・さらに、色っぽく迫る割りに、カルメンが性的充足を求めているようには見えない。
・カルメンが何を求めているのか
ただひたすら、男が自分の魅力に参るのを見、自分の魅力を証明するためだけに男を挑発しているように見える。倣岸ではないか。

チェルノブロフキナの解釈が、こうだというわけではないだろう。彼女はプリセツカヤに「アグレッシブに!攻撃的に」と指導され、強気なカルメンを演じた。ただ、「なぜカルメンが攻撃的なのか」までは考え抜かれていない。

しかしプリセツカヤのカルメンには、強くなる理由があった。闘っていたから。攻撃的なのは、敵がいるからだ。

元々プリセツカヤのためのバレエで、時代背景も違うので、仕方ないのだが。
チェルノブロフキナが、コピーでなく演じた点は、称賛以外ない。
ただ、・・欲を言えば、ですね、(こんなにも蠱惑なカルメンに称賛以外を言うのはあれだが。)

むやみにつっぱり、中身のない女のように見える所が、欲をいえば惜しい。なにかプリセツカヤのカルメンのテーマにとってかわる、彼女にあったテーマがあれば、さらに素晴らしくなるだろう。

ただ、彼女の意図とは離れた所で、たまたま、無為に生きる現代の都会の若い女の子に、彼女の形象が重なり、テーマ不在ないしは底が浅く見えることから救ったように見えた。

チェルノブロフキナはカルメンに近い視点で演じ、彼女に批判的な眼差しを持っているようには思えない。彼女はカルメンを丸ごと演じた。私の感想は、それに私が私の価値観を投影したに過ぎない。あの潔さ誇り高さにもっと肯定的な感想を持つ人もいるだろう。いい意味で、見るものの想像力を刺激する、器になってる、表現だった。

もう一つ。
チェルノブロフキナのカルメンを見て、気づかされた。

プリセツカヤのカルメンは強気で何者をも恐れない、と私は思いこんでいた。

でも本当は彼女は恐れていたのだ!
権力を。


チェルノブロフキナのカルメンを見るまで、私はそれをずっと気づかなかった。

何者をも恐れていないのは、チェルノブロフキナのカルメンの方だった。たぶん勝ち誇ってる彼女のカルメンに、大した中身などないのだ。未だ人生を知らず、そして怖いものも知らない。大切なものがないか、大切なものを失くした事がないか。

若い娘特有の怖いもの知らずの潔さ。仇花のカルメン。その小気味よさも一つの美か。

<その他の人物>
主要3人だけが目立ったが、例外は、隊長役イオン・クローシュ。
装置は、舞台全体が闘牛場を思わせる造りで、舞台下側は床が円形で闘牛場、その周りにぐるっと囲いがあり、闘牛場を見下ろす位置に観客席らしい場所がある。細長い椅子も安置してある。

カルメン、ホセ、エスカミーリョらが、下で絡み、争う時、それを見下ろす位置から不気味な音楽と共に、ゆっくりと姿を現すのが、この隊長である。存在感とキレのある踊り、プロポーションが印象的だった。

台本上の意味は詳しく知らないが、カルメンたちが、ただ3人の恋模様を繰り広げるのでなく、何か背後に操るものの存在や、運命の不気味さなど暗示していた。

括りに。
アロンソ版「カルメン」は、音楽がいい。
「カルメン」を語りつくしたビゼーの曲は、聴けば聴くほど心に響く。
シチェドリン編曲は、格調、硬質さ、透明感を与え、このバレエの芸術性に大きく貢献したと考えている。



追記:後年、色んな人の踊った『カルメン』を見てきて、チェルノブロブキナのカルメンがどれほど素晴らしかったか、改めて思い出しました。

昔はプリセツカヤをいいと思ったけれど、一時期以降は、逆転してしまい、どうしようもなく男の心を掻き立てる、唯一無二の形象として、心の宝箱にその残像を永くしまっておきたい、そんな絶対的な「カルメン」でした。
忘れえぬひと。今、皆が見られるような画像が、たぶん残ってないんですね。残念です。








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