想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

キモチよい新年を

2012-01-04 13:22:49 | Weblog
想像力はどうやって表れるんだろうかと考えた
ところ、やっぱり人は頭の中に浮かんだ言葉で
自分の目や耳がとらえた形や物事のイメージを
置き換える作業をしているのであるね。



もしも人に言葉がなかったらどうするんだろうか。
目に映るものは感情を誘い、その感情を表すために
身体を震わせ奮わせ振るわせる。ふるいかたも色々
あって言葉がなくてもふるうことはできるけれど、
ふるいかたのひびき、ひびきがこまやかに分かれて
いることに気づくかどうか。


(ぷ~ちゃんアンヨが悪いのに雪に奮い喜びを
全身で表しています、たぶん良い雪なんでしょう)

ひびきの違いに気づいた人がああこれはあれ、
あれはこれ、と覚えるようになって、いつかしか
言葉(記号)を作ったのではなかろうか。
言葉のもともとは、ひびきであることは確かです。

観音さま、あのやさしいおだやかなお顔の仏様を
観音と漢語に訳する以前のサンスクリット語で
なんといったか知らないけれど、意味をそのままに
漢語に置き換えてはいるんだろうから。で、意味は
音、ひびき、ほとけのひびき、神さまのひびきを
伝えている姿であるね。
それを拝んでいるとき、たしかに人の気持ちは静かで
ざわざわした気持ちは澄んでくるのではなかろうか。

仏の世界とこちらがわを繋いでいるはたらきを観音
と名づけた言葉。それをお姿に彫ったらどうしても
不動明王の憤怒の顔とはならなかったんだろう。
ひびきを感じ取ること、そして形にすること。
あちらとこちらを繋いでいる仕事。
言葉がそれを助け、完成させ、また次へ伝わっていく
助けをしている。

言葉がなければ頭からっぽで、想像は生まれない。
ひびきを失くした現代人は目先、鼻先の触覚しか
使わなくなったから言葉だけが頼りになった。
言葉を知ることは入り口であり、出口である。

そんなことを除夜の鐘が鳴る前後、あらためてでは
あるけれど思っていた。
「ひふみの祝詞」の、ひふみよいむなやこともち
ろらねし~をゆっくりと上げて。
今年も言葉を知り、言葉を大事に、と思う。

なにもかも「再」とつきそうな新年が始まったが
再生ではなく、新生のほうが力強い気がする。
新しき年、キモチの良い事がたくさんありますよう、
お祈り申し上げます。
キモチの気は脳みそではなく心の方へ持っていく
であります。




コメント (2)
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