泣くのは好きじゃない。
けれど、涙は時として心を浄化させるということを思い出した作品である。
(DVD「ミリキタニの猫」と画文集「peace cats」)
映画にはおよそらしくない人々(アメリカ人なのに)が次々に登場してくる。
一口に言えば商業主義とは無縁、真逆の価値観によっているからかもしれないが
善良な市民が次々に映し出される。
ニューヨークでの上映では「このフィルムには奇跡がつまっている」という感想が寄せられた。
やはり奇跡と呼ぶしかないような稀な事らしい。
翻って我が国でならこの奇跡は起きるか? こころもとないかぎりだ。
戦後六十年以上が過ぎ、今年もまたヒロシマ・ナガサキの日に鐘は鳴り人々は黙祷した。
書けば一行だが六十年の歳月ははかりしれなく重い。
「良心」を「奇跡」と言い換える人々。
ジミー・ミリキタニの闘争と祈りを他人事としてきた者にできることは、たまには美しい涙を流し、
おのが人間を悪の世界から取り戻すことくらいだ。
主人公、ジミー・ツトム・ミリキタニはカリフォルニア生まれの日系二世(米国籍)。
真珠湾攻撃によって運命は一転し、敵性外国人として強制収容所送りになった一般市民である。
市民権を剥奪された(戦後、剥奪そのものが無効となったが)当時の多くの日系米国人の
一人である。そして兵士ではなく、画家である。
絵のなかに、現実生活に、猫がときおり登場する。
とても印象的な悲しく美しい猫の存在。ミリキタニの魂のような猫が。
話は変わるが、うちの食客猫のシマコはどうやら病気らしい。
親分の主治医であるドクター高木に電話で相談したが、治癒不可能かもしれない。
同じ話を懇意にしているペットショップの人にも薬を買いに行ったついでに聞いてみた。
ドクター高木は医者らしく細かい説明をしてくれ、野良だから診察に連れていけない事情にも
応じて薬を処方してあげると約束してくださった。
けれどペットショップの人は、「あなたに感染るといけないわ」とわたしの心配をしてくれた。
あまり生活圏にちかづけちゃダメ、と。
生活圏って、森に住んでいる場合はどうなるんだろう? なんてぼーっと考えながら店を出た。
かわいい、かわいい、と大事にされいつも清潔なのがペットなのだろう。
シマコはペットではなくプライド高い野良である。気高い路上生活者の画家と同じだ。
シマコのいかにも不健康な顔を目の当たりにして、心配は募るばかりであるが
「あんたはなんてかわいいの」と変わりなく思うので、そう話しかける。
このごろは尻尾の先でちょっと返事をくれるようになった。
一年に二度も赤ちゃん産めば、そりゃあ疲れっちまうよなあ、と言うと尻尾はさらに揺れる。
免疫不全ならば不治の病だが、これまで産んだシマコの子たちは元気だからと否と希望的
観測を抱きたい。もしや最悪の事態であっても、いままでと何ら変わりないのだけれど、
この動揺はなんてこった!
看取った友人の最期、それに父の病床での姿など思い出されてならない。最期というのは
ゆっくりとやってくる。それまでの時間つきあわねばならぬコチラ側、生き延びる者は何を
観、何を感じていたか。そのことである。
できるだけのことはしてあげようと思う、その「できるだけのこと」というのは
どこからどこまでなのかと思う。
野良猫を保護し親猫は去勢してリリースし、子猫は里親を探すという大変な労力を厭わず
続けている人は単に猫好きだからというだけではないだろう。
おそらく命に対する敏感さが原動力なのだと思う。そうでなければ継続しているわけがない。
想像以上にはるかに面倒なことなのだ。寝る時間を割いて育てるのだし、里親の面接をして
送り届け、そしてその後を案じる。案じ続ける。拾った猫の一生を気にかける。
こんなことをしている人をもの好きだと思っている人も意外に多い。
とんでもない、誤解もいいところだ。
森に暮らす猫は町中とは事情が違う。
少なくとも猫が繁殖するには厳しすぎる環境である。
だから都会の野良のように洗濯ネットで捕獲して病院へ運び去勢してリリース、
子猫は人の手に(里親探し)という方法は選択しない。
けれどもしないのがいいのか、したほうがいいのか悩んだ。
悩んでいるうちにふと気づいた。
シマコの命につきあわせてもらっていること。元気なときと同じくらい、病気の今
かえって生きる源のような力をこちらがもらっていること。
そして死も生も、シマコの定めであること。
感染るから遠ざけよ、という言葉と強制収容所へ人間を送り込む感性は同種ではないか?
帰り道、沈んだ気持ちがなかなか晴れなかったけれど、抗生物質を投与することは決めた。
諦めないで見守り、見守らせてもらっているコチラ側もまた懸命に生きよということだ。
何も知らなかった映像作家リンダ・ハッテンドーフがジミー・ミリキタニに猫の絵を貰い、
彼の予言にも等しい言葉に疑いを挟まず行動し、それによって多くの真実を教わる。
そしてもたらされた想像以上の果実に心変わりすることのないリンダ。
彼女もまた奇跡の人だろう。(彼女はわたしの良心と語ったが)
人と人、人と猫、あらゆる物たち。相互に与えあいながら存在している。
それを気づかせてくれるのは、人間の良心がはたらくとき以外にない。
良心という言葉が平易すぎるならば、仁(おもいやり)と言ってもいいだろう。
ジミーは「日本人のあたたかいこころ」と表現していた。
理不尽が満ちあふれている社会で憤りにもがき、もはや死しかないと思うか。
憤りを原動力に不屈の精神で闘い、希望の地平を諦めないでいられるか。
ふたつの間をいつも迷いながら生きてきたわたしは、とどのつまり諦めないことに気づく。
けれどはじめから闘おうとする力が欲しい。ゆるぎない魂の力だ。
涙、涙、涙。
わたしは泣いて、少し強くなっただろうか。
けれど、涙は時として心を浄化させるということを思い出した作品である。
(DVD「ミリキタニの猫」と画文集「peace cats」)
映画にはおよそらしくない人々(アメリカ人なのに)が次々に登場してくる。
一口に言えば商業主義とは無縁、真逆の価値観によっているからかもしれないが
善良な市民が次々に映し出される。
ニューヨークでの上映では「このフィルムには奇跡がつまっている」という感想が寄せられた。
やはり奇跡と呼ぶしかないような稀な事らしい。
翻って我が国でならこの奇跡は起きるか? こころもとないかぎりだ。
戦後六十年以上が過ぎ、今年もまたヒロシマ・ナガサキの日に鐘は鳴り人々は黙祷した。
書けば一行だが六十年の歳月ははかりしれなく重い。
「良心」を「奇跡」と言い換える人々。
ジミー・ミリキタニの闘争と祈りを他人事としてきた者にできることは、たまには美しい涙を流し、
おのが人間を悪の世界から取り戻すことくらいだ。
主人公、ジミー・ツトム・ミリキタニはカリフォルニア生まれの日系二世(米国籍)。
真珠湾攻撃によって運命は一転し、敵性外国人として強制収容所送りになった一般市民である。
市民権を剥奪された(戦後、剥奪そのものが無効となったが)当時の多くの日系米国人の
一人である。そして兵士ではなく、画家である。
絵のなかに、現実生活に、猫がときおり登場する。
とても印象的な悲しく美しい猫の存在。ミリキタニの魂のような猫が。
話は変わるが、うちの食客猫のシマコはどうやら病気らしい。
親分の主治医であるドクター高木に電話で相談したが、治癒不可能かもしれない。
同じ話を懇意にしているペットショップの人にも薬を買いに行ったついでに聞いてみた。
ドクター高木は医者らしく細かい説明をしてくれ、野良だから診察に連れていけない事情にも
応じて薬を処方してあげると約束してくださった。
けれどペットショップの人は、「あなたに感染るといけないわ」とわたしの心配をしてくれた。
あまり生活圏にちかづけちゃダメ、と。
生活圏って、森に住んでいる場合はどうなるんだろう? なんてぼーっと考えながら店を出た。
かわいい、かわいい、と大事にされいつも清潔なのがペットなのだろう。
シマコはペットではなくプライド高い野良である。気高い路上生活者の画家と同じだ。
シマコのいかにも不健康な顔を目の当たりにして、心配は募るばかりであるが
「あんたはなんてかわいいの」と変わりなく思うので、そう話しかける。
このごろは尻尾の先でちょっと返事をくれるようになった。
一年に二度も赤ちゃん産めば、そりゃあ疲れっちまうよなあ、と言うと尻尾はさらに揺れる。
免疫不全ならば不治の病だが、これまで産んだシマコの子たちは元気だからと否と希望的
観測を抱きたい。もしや最悪の事態であっても、いままでと何ら変わりないのだけれど、
この動揺はなんてこった!
看取った友人の最期、それに父の病床での姿など思い出されてならない。最期というのは
ゆっくりとやってくる。それまでの時間つきあわねばならぬコチラ側、生き延びる者は何を
観、何を感じていたか。そのことである。
できるだけのことはしてあげようと思う、その「できるだけのこと」というのは
どこからどこまでなのかと思う。
野良猫を保護し親猫は去勢してリリースし、子猫は里親を探すという大変な労力を厭わず
続けている人は単に猫好きだからというだけではないだろう。
おそらく命に対する敏感さが原動力なのだと思う。そうでなければ継続しているわけがない。
想像以上にはるかに面倒なことなのだ。寝る時間を割いて育てるのだし、里親の面接をして
送り届け、そしてその後を案じる。案じ続ける。拾った猫の一生を気にかける。
こんなことをしている人をもの好きだと思っている人も意外に多い。
とんでもない、誤解もいいところだ。
森に暮らす猫は町中とは事情が違う。
少なくとも猫が繁殖するには厳しすぎる環境である。
だから都会の野良のように洗濯ネットで捕獲して病院へ運び去勢してリリース、
子猫は人の手に(里親探し)という方法は選択しない。
けれどもしないのがいいのか、したほうがいいのか悩んだ。
悩んでいるうちにふと気づいた。
シマコの命につきあわせてもらっていること。元気なときと同じくらい、病気の今
かえって生きる源のような力をこちらがもらっていること。
そして死も生も、シマコの定めであること。
感染るから遠ざけよ、という言葉と強制収容所へ人間を送り込む感性は同種ではないか?
帰り道、沈んだ気持ちがなかなか晴れなかったけれど、抗生物質を投与することは決めた。
諦めないで見守り、見守らせてもらっているコチラ側もまた懸命に生きよということだ。
何も知らなかった映像作家リンダ・ハッテンドーフがジミー・ミリキタニに猫の絵を貰い、
彼の予言にも等しい言葉に疑いを挟まず行動し、それによって多くの真実を教わる。
そしてもたらされた想像以上の果実に心変わりすることのないリンダ。
彼女もまた奇跡の人だろう。(彼女はわたしの良心と語ったが)
人と人、人と猫、あらゆる物たち。相互に与えあいながら存在している。
それを気づかせてくれるのは、人間の良心がはたらくとき以外にない。
良心という言葉が平易すぎるならば、仁(おもいやり)と言ってもいいだろう。
ジミーは「日本人のあたたかいこころ」と表現していた。
理不尽が満ちあふれている社会で憤りにもがき、もはや死しかないと思うか。
憤りを原動力に不屈の精神で闘い、希望の地平を諦めないでいられるか。
ふたつの間をいつも迷いながら生きてきたわたしは、とどのつまり諦めないことに気づく。
けれどはじめから闘おうとする力が欲しい。ゆるぎない魂の力だ。
涙、涙、涙。
わたしは泣いて、少し強くなっただろうか。