想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

尸童(しどう)大江健三郎

2009-08-20 03:52:11 | Weblog
再び大江健三郎の定義集(8.18掲載)から。
尸はしかばね、そして童と続くのはどういう意味かを四国時代の逸話を語りつつ
話は源氏物語葵の上に取り憑く六条御息所の生霊を子どもの依り代、ヨリマシを
使って祓い除けることに及んでいき、大江健三郎は現在に至って小説「水死」の
草稿を進めていると結ぶ。死者を廻る思考は小学生の頃から始まっていたという
のである。
そして、依り代が必ずしも物の怪の言葉を語るわけではなく、その役目のこどもが
頑固に口を割らない様を読み、六条の思いの強さを表しているのだと理解する。
そして作家という仕事は依り代にも似ていると付け加えている。

まだ小学生の頃に尸という言葉に反応したことと、その興味と直感を数十年後の
今、熱く思い出すことができるということにわたしは驚くとともに嬉しくなった。
大江健三郎の文章は理知だけで紡がれているのではないことが嬉しいのである。
あたりまえのようであって、これは稀なことだと思うのだ。特に近年は。

ところで尸童はなぜに童でなくてはならないか。
童であっても強情に口を切らないことがある(葵の巻)くらいだ。ましてや大人に
なればなるほど作為的になり感情的になるのだから、己を虚しくしその身体を貸して
他者の言葉を語らせることなどできるわけもない。
万が一、大人の依り代が口を切っても、真偽やいかにと訝ってもしかたがない。
成熟した脳が働き勝手に介入して別の話に変わったり、勝手な比喩を使ったりすれば
似て非なるものとなる。



一方、大人であっても尸の代わりになれる人も稀にいる。
私利私欲を離れ、あるいはそんなもの最初からない幼な子に似た気質の人ならば
スラスラと自動書記の機械のように死者の言葉を現世の者へと伝えることができる。
「私」という頑強な芯をひっこめることは難しいので、「私」が希薄であることが条件
である。
平たく言えば、限りなくアホであるにこしたことはない。
となると、この種のことに好奇心を持ったり積極的であったりする人はまず該当しない。
求めても得られない資質、だから欲しがる。矛盾のようだがしかたがない。
尸の依り代は幼子のようで叶うが、神人合一となれば幼子というわけにはいかない。
理知に長け三才に通じていなければならないのだから、こちらは聖人と呼ばれる。
同じ口を切るでも人相手と神に向かうのは異なる。
神に通じれば人にも通じるが、その逆はない。
作者は人には通じるが、神を代弁しようとしても結局それは人の思考する創られた神。
物語はそこ止まりである。神話を読み解くときに注意しなければならない点である。

最後に付け加えると、言葉の「言」と事実の「事」というコトは同意である。
抽象と具象、観念と現実とかに分けて考えがちだが、それは末世の混乱した思想と通念
ゆえのこと。基本は同意、そうでなくては有言実行ということが不可能になるではないか。
最近のカメの講義はこの事と言の一致についてが多いな、そうか、貞善はそこにしかない
からだろう。ふむ。
大江健三郎から宗源道まで考えて遊んでしまいました。

(夏休みにも盆休みにも、アクセスしてくださってありがとうございました。
更新ボチボチですみません、人が休みのときに多忙だったりする生業なのです。
猫にかまけてばかりいるわけでもないのですがちょっと余裕が‥‥すぐにパンクする。
アホですねえ)











コメント
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