想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

青空と天使の羽

2008-12-05 01:02:33 | Weblog
    (仕事場でマッサージ機を独占、おいらのお気に入りだわさ)
   
    昨日の映画の話、わたしは救いようがないという言い方をしたことが
    気になって、今日もすこし考えていた。

    観ていない人のために物語に触れないようにおおまかに言うとして、
    幼女と老人の旅は、青い空を見に行くことだった。
    白い雲が浮かんだ青い空へ向かって、幼女が駆け出す。
    そして飛んだ‥。

    このシーンを思い出して、そうか! と思った。
    作者はここに救いを描こうとしたのだろうと。

    人間は翼がないので飛べやしない。たとえ天使の羽をつけていても。
    だってつくりものの羽なのだから。
    でも、飛べない羽で飛ぶ。
    それは祈りの姿ではないかと思うのだ。

    救いようがないことをどこへ持って行けばいいのかと人は苦悩する。
    救われないことのほうが現実である。
    そしてあきらめきれないことは、胸の奥底へしまいこまれて澱になる。

    ある日、怒りと悲しみは暴力や自傷行為となって顕われる。
    最近知ったことだが、虐待された経験のある人が成長し数十年を経た
    頃に神経を病むというケースが増えているという。
    フラッシュバックに襲われ、今現在という時間にぽっかりと突然穴が
    あいてしまう。そこへ落ち込んでしまうと、忘れたはずの恐怖を再生
    してしまうのだ。
    現実の生活に問題があるわけではなく、当事者にしかわからない記憶
    の産物である。

    しかし、すくいようのないことではないのだった。
    悲しみとは、人がこの世界に現れたときに連れてきたものなのだ。
    怒りもまた、人が人ゆえに感じるものだ。
    それをしずめるには、人の衣を脱いでいくことなのだ。

    重い身体を持ち上げて空へ駆け上るには、幼女のつけた羽では落ちて
    しまう。落ちて怪我をしてしまう。
    羽ごと捨てて衣を脱いで、人の形を脱いでしまうのだ。
    祈りのとき、あるのは心だけだ。魂だけだ。
    憎しみや怒りや悲しみを脱いで軽くした心は、生まれたときのまま。
    だから、祈りは、神様への手紙は、届きやすい。
     
     六根清浄 ろっこんしょうじょう
     あるいは、みなかの祓い
      結びの言葉は、願いとしてかなわざるということなし。    

    すくいようのないことだ、と考えるのはよそう。
    五感という感情が摩擦熱を帯びたとき、時間の穴を生じさせてしまう。
    それは己自身の変容、だから己そのものを殺してしまえばよい。
    虐待される己も消える。
    五感を滅す。
    そこに顕われるのは、青空。
        あるいは満天の星のきらめき。

    昔の人は、巡礼、遍路という方法を編み出した。
    青空のかわりに仏を求めて旅をしたのだった。
    仏の像に救われるわけではないが、歩きながら人は捨てて行く
    ことができるのだ。
    捨ててしまったところへ、光が射し込んでくる。
    温い光である。

    かような生きかたを覚えればなんとか狂い死を免れ、
    そして幸いにも、今では神さまと遊んでいる。    
    たとえ幼女だったわたしが現われても、羽を背負うことはないし
    開いた穴はパッと大跨ぎで通り過ぎてゆくことにしている。


    (すでに夜中なので寝こけてます)

コメント
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