月に一度の実家(七飯町)通い。 今回は神奈川から姪(めい)が合流した。
母といろんな話をした。 特に20代前後の話は記憶が俄然鮮明になるようだ。
母は15歳あたりで東京神楽坂(叔母の営む食堂)へ働きにいったという。 その頃の話をしてくれた。
母 ” 戦争時代、貧乏が普通で近所の人達もみんな家を出て働きにいったもんだ ”
” 器量の少しいい人は芸妓(子)に、そうでもない人はお女郎さんになにがしのお金で売られてねぇ ”
母も声をかけられが断わったようだ。 すると周旋屋(斡旋とはいわず周旋と言っていた)
さんは、どうしても嫌だというなら無理にとは言えないなぁ、そう言って引き下がったという。
母 ” 飯田橋駅のすぐ通りに店が並び、その裏通りに花街があり、よく三味線の音が聴こえていたねぇ ”
私も東京在中していた頃、神楽坂へはよく映画を年間券まで買って観に行っていたので、
神楽坂のどの辺り? 確かあの辺りの左側に神社か寺院みたいのがあったよね そう尋ねたら
母 ” 毘沙門天でしょ! そこまで行く前の右側の通りに面していた店、食事もできコーヒーも出していた ”
私なんかはどうもその毘沙門天が咄嗟に出てこずでしたが、この辺りの記憶力は母が一枚上でした(笑)。
それまで疲れたから少し横になると言ってた母が、急にベッドから起き上がり、そんな話をいきいきと話す。
母 ” その時、偶然 <近所にいた友達の熊谷の澄ちゃん> に会ってさぁ、懐かしかったよォ ”
芸奴さんかお女郎さんかとは、それ以上は聞けませんでした。 みなそれぞれの青春なのですね。
その後の母は豊橋へ働きに行き、そこで終戦。 丁度南方の戦地へ出向いていた母の父が帰国、
運よく一緒に列車に乗って函館へと戻ったようです。
母 ” その時の列車はぎゅうぎゅう詰めで、窓から乗り込んでくる人はいるは、みんな床に新聞紙
をひいてそこに座って、トイレの匂いはするしでまぁ大変。でも父と一緒だったから安心だったよ ”
戦後函館へ戻った母はアメリカ人宅へメイドの仕事の募集を見つけ、住み込みで勤めることとなる。
場所は札幌・真駒内というではないか。 いま私の住む札幌だ。 知らなかった。
母 ” 軍事郵便局の局長さんのところ、Post office。 給料もよく、美味しいものも食べられ、
日曜日は No working 局長さんも奥さんも娘さんも皆いいい人で、 楽しかったよ ”
ここで英語を使うとは!
” 2年ほどいたけど毎日パン食だった。 メイド仲間はごはん食べたいねぇなんて言ってたけど
私は全然気にならなかった! ”
” 私 そこの家では 愛称で ≪ペギー≫ と呼ばれていた ” という。
驚いた。 こんな話を息子の私が還暦をとうに越えている今、初めて聞くことになるとは。
≪ペギー≫ か! 姪(めい)がすぐネットで調べたら、女性名 Margaret の愛称のようで安心した。
20代の頃だったので怖いもの知らず、青春だったんだなぁ そう思ったものです。
庭に咲く都忘れの花は、母が一番好きな花という。
母曰く、都を忘れさせるほど長く咲いているからそんな名がついたんだよ、なんて言っていた。
なるほどと思って一応ネットで調べたてみたら、「 しばし都を忘れさせてくれるほどの美しさ 」・・とか、あらら。
右のワンちゃんの置物は、生前父が犬を飼いたく母に話したら反対され、じゃ置物でとこの二匹を買ったという。
いつもは玄関下駄箱上にいるのだが、散歩がてら庭に放してみた。 名前は無いようだ。
(生前父は何犬か忘れたが、狭い庭で飼っていたこともあった)
数十年前になるか、若かりし時には、熱帯魚・ひよこ・うさぎのはてまで、とにかく凝り性であった。
菊作りの時期などは家中菊だらけ、そんな思い出が蘇ってきます。 マージャン・競輪・競馬も(笑)
私もしかり、< 熱しやすくて冷めやすい > DNAって凄いものですね。 父の話はまたの機会に。
姪(めい)は七飯町には一晩泊り、翌日函館元町界隈散策し空港まで送り、一路東京(神奈川)へ。
ペギーさんに負けちゃいけませんぞ !
函館ハリストス教会 小雨まじりでしたが、この界隈なかなか素敵なところでした。
都忘れの花言葉は 【 わかれ 】 【 短い恋 】 だそうです。 ん ~ (ため息) !
まぁ人生 所詮まばたき みたいなものですから それも よし としますか、 ねぇ ペギーさん !
このブログ少し長くなりました それに最近私ごとの内容ばかりで ごめんなさい。
母といろんな話をした。 特に20代前後の話は記憶が俄然鮮明になるようだ。
母は15歳あたりで東京神楽坂(叔母の営む食堂)へ働きにいったという。 その頃の話をしてくれた。
母 ” 戦争時代、貧乏が普通で近所の人達もみんな家を出て働きにいったもんだ ”
” 器量の少しいい人は芸妓(子)に、そうでもない人はお女郎さんになにがしのお金で売られてねぇ ”
母も声をかけられが断わったようだ。 すると周旋屋(斡旋とはいわず周旋と言っていた)
さんは、どうしても嫌だというなら無理にとは言えないなぁ、そう言って引き下がったという。
母 ” 飯田橋駅のすぐ通りに店が並び、その裏通りに花街があり、よく三味線の音が聴こえていたねぇ ”
私も東京在中していた頃、神楽坂へはよく映画を年間券まで買って観に行っていたので、
神楽坂のどの辺り? 確かあの辺りの左側に神社か寺院みたいのがあったよね そう尋ねたら
母 ” 毘沙門天でしょ! そこまで行く前の右側の通りに面していた店、食事もできコーヒーも出していた ”
私なんかはどうもその毘沙門天が咄嗟に出てこずでしたが、この辺りの記憶力は母が一枚上でした(笑)。
それまで疲れたから少し横になると言ってた母が、急にベッドから起き上がり、そんな話をいきいきと話す。
母 ” その時、偶然 <近所にいた友達の熊谷の澄ちゃん> に会ってさぁ、懐かしかったよォ ”
芸奴さんかお女郎さんかとは、それ以上は聞けませんでした。 みなそれぞれの青春なのですね。
その後の母は豊橋へ働きに行き、そこで終戦。 丁度南方の戦地へ出向いていた母の父が帰国、
運よく一緒に列車に乗って函館へと戻ったようです。
母 ” その時の列車はぎゅうぎゅう詰めで、窓から乗り込んでくる人はいるは、みんな床に新聞紙
をひいてそこに座って、トイレの匂いはするしでまぁ大変。でも父と一緒だったから安心だったよ ”
戦後函館へ戻った母はアメリカ人宅へメイドの仕事の募集を見つけ、住み込みで勤めることとなる。
場所は札幌・真駒内というではないか。 いま私の住む札幌だ。 知らなかった。
母 ” 軍事郵便局の局長さんのところ、Post office。 給料もよく、美味しいものも食べられ、
日曜日は No working 局長さんも奥さんも娘さんも皆いいい人で、 楽しかったよ ”
ここで英語を使うとは!
” 2年ほどいたけど毎日パン食だった。 メイド仲間はごはん食べたいねぇなんて言ってたけど
私は全然気にならなかった! ”
” 私 そこの家では 愛称で ≪ペギー≫ と呼ばれていた ” という。
驚いた。 こんな話を息子の私が還暦をとうに越えている今、初めて聞くことになるとは。
≪ペギー≫ か! 姪(めい)がすぐネットで調べたら、女性名 Margaret の愛称のようで安心した。
20代の頃だったので怖いもの知らず、青春だったんだなぁ そう思ったものです。
庭に咲く都忘れの花は、母が一番好きな花という。
母曰く、都を忘れさせるほど長く咲いているからそんな名がついたんだよ、なんて言っていた。
なるほどと思って一応ネットで調べたてみたら、「 しばし都を忘れさせてくれるほどの美しさ 」・・とか、あらら。
右のワンちゃんの置物は、生前父が犬を飼いたく母に話したら反対され、じゃ置物でとこの二匹を買ったという。
いつもは玄関下駄箱上にいるのだが、散歩がてら庭に放してみた。 名前は無いようだ。
(生前父は何犬か忘れたが、狭い庭で飼っていたこともあった)
数十年前になるか、若かりし時には、熱帯魚・ひよこ・うさぎのはてまで、とにかく凝り性であった。
菊作りの時期などは家中菊だらけ、そんな思い出が蘇ってきます。 マージャン・競輪・競馬も(笑)
私もしかり、< 熱しやすくて冷めやすい > DNAって凄いものですね。 父の話はまたの機会に。
姪(めい)は七飯町には一晩泊り、翌日函館元町界隈散策し空港まで送り、一路東京(神奈川)へ。
ペギーさんに負けちゃいけませんぞ !
函館ハリストス教会 小雨まじりでしたが、この界隈なかなか素敵なところでした。
都忘れの花言葉は 【 わかれ 】 【 短い恋 】 だそうです。 ん ~ (ため息) !
まぁ人生 所詮まばたき みたいなものですから それも よし としますか、 ねぇ ペギーさん !
このブログ少し長くなりました それに最近私ごとの内容ばかりで ごめんなさい。