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映画・演劇のレビュー

青年団『革命日記』

2011-06-22 23:17:56 | 演劇
 今のご時世に革命家なんて、存在するのか? こんなファンタジーのような出来事を平田オリザはいつものタッチで綴っていく。僕にとってはファンタジーでも、彼らとっては、これはとてもリアルな日常なのだ。ノンポリの僕はこういう人たちと全く関わりがないが、今もこんな人たちはこの国にはたくさんいて、人知れずふつうの人々に紛れ込んで、秘かに潜伏しているのかもしれない。

 彼らは暴力的なテロ組織ではない。しかし、彼らが今やろうとしているのは、空港突入と大使館襲撃、占拠である。過激派テロ行為としかいいようがないことだ。彼らの政治的ポリシーってどうなっているのか、そのへんは語られない。だが、今、彼らが挙行しようとしているテロの杜撰とも思える計画が、閑静な住宅街にある、ありきたりに見える家庭で進行している。若い夫婦の家だ。息子と3人暮らし。だが、彼らは過激派グループの一員で、普通の夫婦としてここで暮らしている。

 実はここは彼らのグループのアジトである。そこで表面的には気の合う仲間がみんなで集まり飲み会をしている、ということになっている。そこに何度となく町内会の人たちがやってきて、彼らの作戦会議を中断させていく。(いくらなんでも、しつこすぎるだろ、と思うけど)冗談か本気かわからないくらいの展開だ。それをポーカーフェイスの青年団スタイルで、シリアスにやられるので、これはリアルなのだと思わされることになる。だが、こんな非常識な隣人はいないだろう。敢えて、彼女たちをここに登場させる意味はないが、さらには元同志の夫婦、組織のシンパの男と、彼が勧誘して連れてきた2人の女たちまでもが、入り乱れて、いくらなんでも今時、こんなにも人の出入りの激しい家があるのか、と笑ってしまうくらいだ。

 60年代や70年代じゃあないのだから、革命なんかもう誰も信じていないはずで、そんなものを信じるのは、頭のおかしいカルト教団くらいだろう。そのカルトすら今は表面には出てこない時代である。そんな時代にこの芝居をぶつけてくる平田オリザは、パンフの中で、『「革命」を「宗教」あるいは「芸術」と置き換えてもいい』と、語っている。確かにそういう見方も可能な芝居だ。今この芝居を上演する意味は、そのへんにあるのかもしれない。集団の在り方を考える作品としてこれを見るととても見やすい芝居となる。しかし、僕はあくまでも、メタファーとしてではなく、これを革命についてのドラマとして、見たい。これを「今の時代にこの日本で革命を試みる事の意味についてシリアスに考える芝居」として見た方が、なんだかドキドキするからだ。

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